第9話 カツオノエボシ

 洲本神父は殺人鬼ではなかった。殺人鬼の名を使い、その男を模倣していた偽物だった。

 言ってしまえば、亡霊であり、死人であり、数百に及ぶ死者の魂の集合体。

 鋼戸地下街天井崩落事故という、偽装された事件の真相を知る数すくない証人で、事故すら忘れようとしていた市民に対し、事の全てを語り明かそうとした怪異である。


 そう、全ては解体殺人を公にするため。隠蔽されたあれだけの殺しを、訴えたかった存在。それが怪異の目標であり、存在理由。洲本なんて名前はただの偽装だ。そんな人間存在しない。

 怪異でありながら、その正体を悟られずに人間社会へ溶け込めたのは、元が人間であるのなら当然のこと。残滓であろうと、人の魂が二百も集まったのだ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、二百人集まれば怪異性を隠しながら生活できるのだろう。


 化け狸、化け狐のように。

 本性さえ見せなければ、異端であると思われない。

 宗教施設では、神父を装い、完全に演じきった。それが確たる証拠だろう。

 だが、怪異というのは人間ではない。とうに死んだ命なだけあって、人間にはない限界がある。

 彼の場合、それが今だ。

 殺人鬼を模倣し、螺旋巴を手招いたことが命取りだった。いや、既に命はないのだけれど、彼の怪異性に決定的な弱点を生んだ。

 らしくない。お前は本物じゃないと、巴さんに指摘されることで、彼という存在は怪異として認識されてしまった。

 今を生きる人間が、その正体を暴いた。

 それだけだったとしても、怪異は不確かなものになる。

 怪異というのは崇められ、恐れられ、信じられてこそ、世界に許されるのだから。

 情報を集めるため、当事者であった螺旋巴に詰め寄った事が、勝敗を決めたのだ。

 意思を持って、自らの意思で行動していた洲本神父は、不確かな存在へと変貌した。怪異は怪異らしく、バケモノに。生き霊らしく、人の魂を寄せ集める怪物に。


「許されナい。ユルせなひ! 私たちの、知っタ、sin実ヲ!」


 明らかな異形へと、無数の魂が肉体を圧迫するように膨れ上がり、その姿はまさしく怪物。


「…………鰹の烏帽子」


 その変貌具合を見て、巴さんはそう呟いた。

 カツオノエボシ。猛毒を持ち、アナフィラキシーによる死亡例もある危険生物。

 クラゲらしい見た目をしているけれど、クラゲではない海棲生物。その正体はヒドロ虫という生物が集まってできた、群体である。地球温暖化に伴って、近年では北方の海でも目撃される生物だ。


 何故巴さんが、そんな名前を口にしたか、俺もなんとなく理解できた。

 洲本神父だったものはとっくに消え失せて、うぞうぞとした透明のなにかが袋に詰められたように中空を漂っていたからだ。複数人の魂寄せ集めて生まれた怪異なのだから、そういう呟くのは的確といえる。


「どうすんですか、これ」


 廃墟に漂うなれの果て。

 下から眺めて、息を吞む。


「簡単だ」


 背中を突き飛ばして、巴さんは笑う。


「なんのための天河七楽だ? お前の仕事はそいつを否定してやればいい」


「と言われましてもね! あんなゲテモノ!」


「安心しろ、死にはしないさ」


 おどおどしていると、再び蹴りを入れられた。


「お、おわッ!」


 バケモノと化した神父までそのままひとっ飛び。おそらくは肉体を強化する魔術でも使ったのだろう。俺が衝撃で浮くほどの、巴さんによるキツい一撃で、すとんと吹っ飛ばされた。

 そして、怪異に触れたその瞬間。

 俺による否定は始まった。


 ◆


 夢というのは、都合のよいものである。とは、誰の言葉だったか。俺の言葉か。

 夢が怪異の温床であるという話は前にもしたわけだが、今回もまた、夢は特別な仕事をした。実際は、夢ではないのかもしれない。高度な幻覚と呼んだ方が適切なのかもしれない。

 俺は神父だったモノと接触した瞬間、つまり、無数の魂の集合体である怪異に触れた瞬間、夢を見た。

 はっきりと憶えているのは、そう、怪異の話を一方的に聞いていたということだけ。怨念の塊であるソイツの話を、俺は黙って聞いていたんだ。


「ある日、

「それはただの平日。

「それは仕事をしていたとき。

「それは学校の放課後に。

「それは買い物をしていたときに。

「――――起きた。

「血みどろの地下道。悲鳴が聞こえた次の瞬間には私が死んでいた。

「焦げた肉の匂いと、鉄みたいな血の匂い。みんなの臓物から溢れ出した水分が、地下街に充満する。

「地獄。

「地獄。

「地獄。

「真っ赤に染まった世界を、白い蛍光灯がキラキラとてからせる。

「まるで竜の消化器官。

「誰もが平等に死んだ。

「ただの一人も例外はなく。目撃者は一人残らず殺された。


 はっきりとしない意識の中、巴さんの比喩で言う、カツオノエボシの怪異は、うぞうぞと脈打つように体を収縮させながら、言葉を連ねる。

 本体はきっと、魂の集合体。怨念の塊が、俺に話しかけてきている。

 それは独白。事件の内容を、せめて天河七楽には伝えようとする、悪あがき。

 そうでもしなければ、成仏できぬと言うように、怨霊達はつらつらと、小学校の卒業式みたくぴったり息を合わせて、言葉を繋ぐ。


「たった一人の殺人鬼。そいつも同じ人間だった。

「けれど、あの男に俺たちは殺された。

「あり得ない、超常現象を使って。

「悪魔みたいに、異能を使って。

「だが、だがしかし。世間はこの事を知らなかった。魔術師達によって隠蔽工作が行われた。

「鋼戸地下街天井崩落事故。そんな名前を付けられて、我々は全く違う形で弔われる事になった。

「許せるか?

「いや、許せない。

「許してたまるものか。

「僕たちは、真相を知ってほしいだけなのに。それの何がいけないっていうんだい?

「ありもしない嘘を述べるマスコミ。

「嘘を鵜呑みにしてしまった家族、友人。

「慰霊碑には事故の二文字。

「違う、あれは殺人だ。だ。

「あの地獄を、理解されないまま死ぬなんて、ありえない。

「納得できるはずがない。

「二百四十七人も死んだのだ。

「それでも隠蔽を続ける社会が、おかしいんだよ!

「憎い。憎い憎い憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!

「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!

「ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ!


 興奮状態というように、気泡体が暴れだす。


 やがて、突然冷静になると、

「お前もそう思うだろう?」 

 と、尋ねられる始末。


「…………同情してほしいのなら、してやるぜ? だが、俺にできるのはそこまでだ」


「何を言う?

「この真実を公表してくれればいい事だ!

「そうだ!

「そうだ!


 ため息が零れる。


「仮にできたとしても、誰も信じないよ」


 激昂するように、浮き袋は膨れ上がり、中に詰められた魂は、更に激しく暴れ出す。

 個々が次々と騒ぎ始め、整頓されていたはずの言い分が、乱れ始める。

 ノイズは徐々に騒音となり、怪異そのものがパニックに陥った。

 また、息を零す。


「ああ、うっせえなぁ」


 結局、どこまでいっても人間なのだ。怨霊とはいえ、人は人。どんなに頑張って、洲本神父のような人格を形成し、自らを詐称した所で、弱点を突かれればこうも脆い。意識の集合体なのだから、誰かの意思が欠けるとバランスを崩す。

 師匠によって正体が明かされた時。あの時点でもう、この怪異は限界だったんだ。

 ここまで、訴えを聞いても、俺の意識は変わらなかった。怪異に感情移入できなかった。数百人も殺した殺人鬼。その被害者が語る惨状など、リアリティに欠ける。

 だから、俺は俺にできる事を全うしようと思う。

 今やるべきなのは、怪異退だ。同情や和解、理解じゃない。

 それが正しいか、間違っているかは分からないけれど。


「死人がゴチャゴチャ、口にするんじゃねえよ!」


 怪異を否定するための、たった一言。

 それだけは、迷いなく言えた正論だった。

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