異邦人

 商業都市には、牛馬と運河による輸送交通がある。




 水郷都市から送られる米、酒、豆由来の調味料、青果、山岳都市からは木材、小麦、綿、茶、鉱山都市で採れる鉱石、海洋都市の新鮮な魚介類や海産物を使った珍味、そして工業都市で加工された医薬品、陶器、ガラス製品、織物、宝飾品、更には南方の香料、絹、珍しい果実、宝石、砂漠の燃料水、氷雪の質の良い毛皮は全て、河口から運河を引いて作られた一辺一キロの六角形の湾の中州、物流市場島と呼ばれる岸壁、倉庫、埠頭で作られた人工の島に集められる。


 島の中枢にあたるガラスと鉄骨で建てられた巨大な市場には、各都市ギルドから派遣された職員や技師が常駐し、搬入された荷の数量、品質などの最終検品を行っている。


 この島こそ商業都市の心臓部であり、商業都市の威信とプライドの結晶ともいえる。ここでチェックを通った品だけがセリに出されるからだ。


 こうして厳しい検査の目をクリアした品々は、各都市のバイヤーに取引され、湾の岸壁で陸揚げされ、再度水運や荷駄を使って各街道沿いの宿場町を始め、山岳、水郷、工業、などの各都市、更に南方や砂漠、氷雪地域に送られるのだ。




 こうして夜通し明かりが灯り、絶え間なく舟が出入りし、街道を往復する荷駄馬の蹄の音が響き渡る。賑わいの絶えない交易の拠点は、観光のメッカにもなっている。








 


 そんな商業都市の早朝。


 団長と僕、メリッサは先日捕獲したバイコーンを王都の博物館に送り届け、朝霧に煙る商業都市に戻ってきたところだった。




 件の一本角のバイコーンを捕獲、任務完了の報告をギルドに提出した数日後、メリッサは別の悩みで不眠を囲う羽目に陥っていた。


 捕らえた獣の噂が広がって、近所から近隣の村々から各都市からやってきた見物客が、お隣のお宅に押しかけてくるようになったのだ。


 そんな最中、噂を聞きつけた王都博物館の学芸員が、「是非とも、生きたまま展示したい」と商業都市ギルドに打診してきた。


「いやあれは角が癒着して一本に見えるだけの奇形のバイコーンですよ」とうちの団長が説明したけれど、「それでいいのですよ。幻獣の伝承というものがどのように生まれ、尾ひれがついて伝播するものなのかを示す証なのですから」と逆に説得される格好になった。


 更にメリッサの隣人の子供もバイコーンの飼育係として引き受けると言ってくれた。


 メリッサの話だと、僕たちが捕獲したバイコーンから片時も離れず、寝食を共にするような固執ぶりだったそうで。ご両親も胸をなで下ろした事だろう。






「やだもうこんな時間。今日の日替わり朝食は海洋都市の海鮮なのよ」


 と何を焦っているのか、懐中時計を片手に、緩く結んだ亜麻色の二つ結びのおさげを揺らして早足で息巻くのは、ギルド事務員のメリッサ。


 王都からの移動中、久方ぶりにぐっすり熟睡して疲れもとれたのか、いつもの調子を取り戻しているようで安心した。ここのところ、足取りはよろよろで、話しかけても目の下に隈の浮いたげっそりと疲れた顔で、うん、とか、ああ、とか、そうね、とかくらいしか返ってこなかったし。


「女将さん特製カルパッチョサンドを食べ損ねるわけにはいかないわ」


 聞き慣れない単語に僕が首を傾げると、呆れた物知らずだと言わんばかりの表情を浮かべたメリッサに肩をそびやかされた。


「あんた知らないの?都市の外郭圃場で採れた野菜に白身魚を乗せたサンドイッチよ。オイル仕立てのドレッシングがすっごい美味しいの。挟んであるパンも、ふんわりしてほんのり甘みがあって」


 と、その魚介サンドがいかに美味かをとうとうと熱く語る。


 その言葉に数日前の些細な記憶を呼び起こされた。


 思い出した。カルなんとかって、ベリンダとサディが言ってた『商業都市の女の子の間で流行ってるお洒落な海鮮サンド』の事か。


 商業ギルドの建物と六角湾を結ぶ位置にある市場食堂は、複数店が軒を連ねている食のメッカだ。件のサンドイッチは通称女将さん食堂と呼ばれる店のメニューで、海洋都市の魚介が水揚げされる日にしか並ばない。もともとは商業都市にやってきた観光客が食べ歩きできるように考案したのが、手軽に食べられるうえに、見た目も良いということで、思わぬ形で想定外の層に広まったとか。


「なんだその腹の足しにもならなそうな飯は、若い娘が肉を喰わんでどうする、葉っぱじゃなくて肉を食え肉を」


 これはデリカシーの欠片もない野暮な団長の言葉だ。


「年齢食ってからの獣脂は胃に堪えるんだぞ」


 更に無粋極まりない助言のせいで、団長は勿論、僕までメリッサに無言でげんなりした目線を向けられた。


 しかし、王都を出てから約10時間の移動。最後に食事をとった時間に至っては時計の短針が一周過ぎようとしている。任務の際は、一食二食抜くことも多い食生活の僕ら旅団構成員と違い、メリッサはギルド事務員。空腹を抱えたまま業務に戻らせるのは酷な話だ。


 それに、報告といっても王都博物館から受け取った引き渡し書類一式を移住事務課に挙げるだけ。朝飯を摂ってからギルドに向かっても充分に余裕がある。


「団長が肉を食えなんていうから僕まで腹が減った」


 僕はしれっと団長に責任転嫁した。






 しかし結論から言うと僕らは朝食を食べることが出来なかった。


 商業都市ギルドのお膝元で、堂々と無銭飲食をキメるという自殺行為に等しい犯罪をやってのけた命知らずを押し付けられたからだ。



 朝の書き入れ時を迎える市場食堂には、埠頭で積み荷を水揚げする屈強な作業員や、観光客でごった返していた。焼き魚や煮物、温かい汁物、香辛料たっぷりのソースなど美味そうな匂いが入り混じって空っぽの胃袋を刺激する。


 お目当ての女将さん食堂に入ると、身なりと恰幅の良い、禿頭でナマズ髭を生やした太ましい紳士を羽交い絞めにした女将さんの姿が目に飛び込んできた。


 常連とおぼしき市場の作業員の客も「おまえふざっけんなよ」と紳士に罵声を浴びせるが、取り押さえられた紳士も困惑しきりの様子だった。周囲を見渡し「これは何としたことか」と狼狽えている。観光客もなんだなんだ、どうしたの?と遠巻きに垣根を作って固唾をのんでいる。


 どう見ても乱闘かなんかの前触れだ。なんて時に居合わせちゃったんだ。


 そんな中、女将さんが目ざとくメリッサを見つけると。


「あんた、コイツ頼んでいいかい?」


 と、紳士を押しつけてきたのだ。


 王都から戻ってそのまま業務に就くつもりだったので、ギルド制服姿のままだったのが徒となった。


「え、え??」


 メリッサと僕は顔を見合わせ、それから女将さんに「なんで???」と異口同音に問う。


 料理の替わりにおっさんを寄越されても大変に困る。勘弁してほしい。


 困惑しきりのメリッサを庇うように、女将さんの間に団長が割って入った。このタイミングでの揉め事、厄介ごとはごめんだと判断したのだ。


「女将さん、何があったのよ?このおっさんどうしたのさ」


「コイツ無銭飲食しやがったんだよ、こんないい身なりをしてるのに、偽札を寄越してきて」


 正確には無銭飲食じゃなくて偽造通貨行使になるのだけど、細かいことは一旦おいておこう。




 以前にも話したと思うけど、この商業都市は旅団や業者内部の犯罪にはめちゃくちゃ厳しい。当然、商業都市に住まう一般人、訪れる旅行客にも適用される。


 犯罪は見かけたら即ギルドに通報、即連行、取り調べ、即判決。それが治安維持の秘訣なんだとか。




「旅行客なんだろうがさ、ふらりと入ってきて、今日最後のカルパッチョサンドを」


 そこまで聞いたところで、


「ああ、そうなのねオッケー分かったわ」


 次の瞬間、事態の成り行きを遠巻きに見ていた観光客が騒ぎを聞きつけた市場の作業員が、女将さん食堂の常連客の屈強な男たちが一斉にどよめき、歓声をあげた。


 メリッサが間髪入れずに「どぉっせえぇい」の掛け声も勇ましく紳士を担ぎ上げたのだ。


 ああ、これは犯罪に対して正義の心を燃やしたんじゃない。食べたかったカルパッチョサンド最後の一個を食われたことに対する怒りだ。




 恐るべし食い物の恨み。




 ともかく、か細いうら若い乙女が、大変太ましい中年男性を担ぎ上げる信じがたい光景に女将さんを始め、市場の作業員は勿論、宙高く持ち上げられた紳士もビックリしたようで「何の無礼をするか小娘、わしゃエヴェナリエの隠居じゃぞええい降ろさぬか」と手足をばたつかせるが、「やかましい現行犯」と一喝された。




 かくして僕たちは空腹を抱えたまま、偽造通貨使用の無銭飲食犯一名をギルドに連行する役を仰せ使う羽目になったのだ。


 だけど、なんか腑に落ちない。


 制服姿のメリッサを見てもギルド職員だと分からない、気付かない、なんてことあるんだろうか?


 その間、団長はというと、件の偽紙幣を証拠として預からせてもらうよなどと、女将さんと話を付けていた。


「偽札の出所を調べないとならないからねぇ」


「頼むわよホント」




 そのまま商業都市ギルドのロビーを挟んで向かい合う形で併設されている治安維持課に真っ直ぐ向かい、当直の職員に「食い逃げ犯一名ギルド権限により現行逮捕。引継お願いします!」と紳士を預け、踵を返すメリッサ。


 しかし。年配の婦人職員さんがメリッサを呼び止めた。


「あ、まだ帰らないでね」


 怪訝な顔で振り返るメリッサに、婦人職員がにこやかに言った。


「現行逮捕ってことはその場にいたわけよね。だとすると、いつどこで発生したのか、現場には他に誰がいたとか状況を詳しく聞かなきゃならないのよ」


 朗らかな優しい口調だったけれど、そこには有無を言わせない圧が感じられた。



 ※ギルド・治安維持課


 現実における役所などの官公署、警察機構に類する組織だと思ってください



 偽札紳士を引き渡した後、それでははい解散通常業務に戻りましょう、とはならず、メリッサ、団長、僕はそれぞれ商業都市ギルド別棟の治安維持課の個室に呼ばれ、起きた事を詳細に説明させられた。




 犯罪を取り締まる庁舎なだけあって、治安維持課棟は床も壁も灰色の御影石をふんだんに使った堅牢な造りのオフィスだ。明かり取りのガラスブロックから燦々と陽光が差し込む、明るい雰囲気のギルド窓口と全然違う。窓も小さく、威圧的な重々しい空気が立ち込めているように感じられる。




 僕が臆する理由はないのに、雰囲気に呑まれて緊張でガチガチになっていた。


「見たこと聞いたことをそのまま話せばいいんだよ、君を疑ってるわけじゃないからね」


 通常のギルド職員とデザインの違う、濃紺に白銀のモールの付いた制服を着た、ボサボサ七三分けの治安維持課のおじさんは優しい声音でそう言ってくれた。


 そう言われてもどこから話せばいいものなのか。僕はこの手の情況説明が本当に下手で心底苦手なのだ。


 生まれて初めて聴取という状況に面してよっぽど困り果てた顔をしてたように見えたのか、


「じゃあ、王都から戻って来た辺りから聞いていこうか」


 と促してくれた。


 気を遣わせてしまったと若干申し訳ない気持ちが湧いた反面、筋立てて説明しなくて済むことで気持ちも楽になった。


「こちらの質問に答えるだけでいいからね。今朝、君たちはどこに居たのかな」


「王都から戻って来たばかりです、天気はすごい濃霧でした」


 なるほど、確かに早朝ひどい霧だったね、と相づちを打ち、おじさんは確認するようにメモを取る。


「着いたらすぐ解散しなかったのはどうしてかな?」


「お腹が空いていたから、朝飯を摂ろうという話になって、それで市場食堂に」


「ふむ…店は誰が決めたのかな」


「メリッサ…、一緒に同行したギルド職員の子が海鮮サンドが食べたいと」


 おじさんのメモを取る手が止まった。うん?と変なうめきをあげた。


「海鮮サンド?」


「ごめんなさい。ああ、えっと、カーなんとかっていう、ちゃんとした名称がある、あの女将さんの店舗でしか扱ってない特別なサンドイッチで、メリッサはそれが食べたいと」


 支離滅裂な補足なのに、おじさんはそれで察したのか、ああ、アレか、と返して寄越した。


 今の説明で理解できた?


「女将さん特製カルパッチョサンドの事だね」


 通じてる。奇跡がおきたとしか思えない。


 びっくりした僕が思い切り首を縦に振ると、おじさんも納得したように頷いた。


「維持課の女子にも人気があるようでね、ギルド職員食堂でも取り扱ってほしい、とよくこぼしているよ」


 そんなに人気なのか、海鮮サンド。変なところで感心してしまった。


「それで、時間も遅くなってたので、急いで店に駆け込んだんです。そしたら女将さんが食い紳士を羽交い締めにしてて」


 それからの顛末を説明した後、調書をまとめるおじさんに、


「何か進展があったら、また話を聞かせてもらう事になるかも知れないから、許可が出るまで治安維持課から出ないでね」


 そう念押しされて、僕は聴取室を退出した。




 聴取が終わって、磨かれた黒灰色の御影石の柱が並ぶロビーに出ると、違う部屋で聴取を受けていた団長とメリッサも出てきたところだった。


 時計の針は朝飯には遅く昼飯にはまだ早すぎる時間。


 王都からの報告書一式を抱えて、備え付けの薄いソファーに、絶望した顔でうずくまるメリッサ。


 僕が知る限り、メリッサには仕事大好きの気がある。そんな彼女が珍しく食い意地を優先した結果、業務に穴を開けたという現実が重くのしかかって肩を落としているように見えた。


 なんといって慰めたらよいのか。




 そこに、メリッサの事務服とデザインは同じだけど、上品な茶色に純白のリボンタイ、金カフスのギルド制服に身を包み、毛先がゆるくカールした赤毛をカチューシャでまとめた淑やかな女性が姿を見せた。


 ギルド長付き秘書のアマンダさんだ。


 その姿が視界に入った途端、メリッサが勢い良くソファーから飛び降りた。


「ごめんなさい、アマンダさん」


 そうして、思いきり頭を下げた。


「私、報告を後回しにして業務に穴を開けて」


 メリッサの足元に、ぽつぽつと落ちる雨の滴。


 メリッサが泣いてる?


 こんな姿は初めて見る。


 そうね、と微笑を絶やさず、メリッサから、書類を受け取るアマンダさん。


「起きたことは仕方ないわ、引きずらないで、気持ちを切り替えてね、メリッサ」


 それから、改めて団長に、「休憩室に食事を用意しました」と続けた。


「聴取された方から、皆さん何も召し上がっていないと伺ったので取り急ぎ」






 空腹の絶頂と言っても過言じゃなかったから、僕たちはしばし無言でおにぎりを頬張った。がっついたに近いかもしてない。


 おにぎりは一般的な具を詰めるタイプではなくて、ご飯全体にカツオ節を軽くまぶしたおかか味。温かいほうじ茶にぴったりだ。


 人心地ついたところでアマンダさんが、メリッサのそばに屈んで、耳打ちするように「貴女をギルド職員だと気づいていないようだった、という報告、本当なの?」そう囁いた。


 咎めるような感じではない、けれど信じがたい事態に直面した。そんな表情。




 そうなのだ。商業都市を始め、各都市、及び街道の宿場町に存在するギルドは王都直轄の組織だ。


 商業都市では旅団と呼称される大人数のボランティアを抱え、スムーズな行政と治安維持を担っている。


 そのギルド職員に犯行現場を見られた、というのはその場で実刑判決確定が下ったと同義だ。


 つまり、ギルドにはそれだけの権限がある。


 そして、あの偽札紳士がどこの都市の旅行客か分からないけれど、どの都市も同じデザインの制服の着用が義務づけられているのだ。




 温かいおにぎりとお茶で落ち着きを取り戻したメリッサが、質問に対して「はい」と真面目な表情で頷いた。


「ギルド職員、ではなく小娘、と呼ばれました」


 何か引っかかるものを感じたのか、すかさず団長が嘴を挟む。


「アマンダさん、それどこで」


「私も、ギルド長に付いて聴取に同席してましたから」




 秘書らしく、小首を傾げて頷き、団長に向き直った。


「それで、私も二つ三つ質問があって」


 とアマンダさんは、食べ終わった卓上の皿やら湯呑みやらを片付けると、長方形の札片を並べはじめた。


 紳士が使ったという件の偽紙幣だという。


「カルパッチョサンドが600価なので、おそらく500価札と100価札だと想定してくださいね」


 それを見た団長が懐の皮袋から正規の紙幣を取り出して偽札と並べる。


「よくできちゃいるが…」


 ぱっと見には500札と100札とほぼ同じ大きさだけれど、偽札の色味が異なっている。500札のインクはやや黄色味が強く、100札は白みがかっている。決定的なのは、本物の500札は王都の紋章の双翼の白鷺が、100札は豊漁の象徴、神魚イサナがデザイン。対する偽札の面には、読めない記号と、500札には小麦に似た植物が、100札には見たことのない小ぶりの花の図案が刷られていることだ。


「なんでこれでばれないと思ったかねぇ」


「物流市場島にいる工業都市責任者にも確認してもらったのだけど、デザインはともかく紙やインクの質は上等な部類で、技術の面では工業都市の最高峰職人の域に近いか、もしかしたらそれ以上かも知れないと」


 アマンダさんは言葉を濁したけれど、つまり王都の造幣技術と遜色ない技法で拵えられている。王都の技術員なら身なりが良くても当たり前かも知らんが、十人が十人とも偽札だとわかる代物を堂々使用する丹力。悪ふざけというには度を越えている。


「そのことなんですけど」


 と前置きしてアマンダさんが語るところによると。


 身なりと恰幅のいい圧しの強い禿頭の無銭飲食現行犯は、ギルドの取り調べの場でも尊大な態度だった。


 本来なら、当該課職員から取り調べを受けるところなのだけれど、偽紙幣、偽造通貨の使用を重く見てギルド長が直々に聴取することになった。対応を一歩間違えたら王都や工業都市との関係がギクシャクすることになる。それだけは避けなければならない。


 ギルド長直々のお出まし、ともなれば、普通ならやらかした事態の深刻さを自覚しようものだが、紳士は違った。


 まるで知己のように悠然と話しかけ、怖れを知らぬ者、あるいは雲上人のように大らかに振る舞った。


「久しいのぅ、40年じゃよパレアトゥス。儂じゃよ、エヴェナリエ家のアクアータスじゃよ」


 胡乱な眼差しで見つめ返すギルド長に、と親し気に肩をポンポンと叩く無銭飲食現行犯。


「ようやく動けるようになったでの、お忍びで見物にきたのじゃ。交易都市の紙幣のデザインが変わったと思わなくての、いかんせん降りるのは40年ぶりだで。此度の下々の無礼は咎めないでやっておくれな、供も連れずにきた儂にも幾ばくかは非があるでの。ともかく民草が健やかなのは何よりじゃよ。そのうちに摂家の者どもと連れ立って、鷹狩りにでも参ろうかの、逗留の際はよしなにの」




 商業都市ギルド長アエネゥスは困惑しきりだった。


 全く見知らぬ、記憶にも記録にもない男、しかも偽造通貨使用の現行犯が、旧知のように肩をたたいて「パレアトゥス」と親し気に呼び、旧交を温めるがごとく、全く事実と異なる事象を、あたかも周知の事実のように滔々と語る偽札紳士に対して、幾ばくの恐怖を感じざるを得なかった。




 まず、アエネゥスギルド長の知己にアクアータスという人物はいるが、全く風貌が違うし、彼の者は王都重鎮カリクティス家の隠居。エヴェナリエ家など聞いたことがない。


 ここは商業都市だ。交易都市じゃない。


 紳士の所持していたデザインの紙幣など、過去に流通した記録はない。


 それ以前に 商業都市だけじゃなく、どの都市のギルドもそうなのだが、ギルドは庁舎だ。貴族の別荘や離宮じゃない。




 なにより不気味なのは、妄想に整合性がとれているという点だった。


 その場その場の思い付きで語っているのであればどんなによかっただろう。言葉尻を捉え、矛盾した点を指摘し、ロジックを崩してやればいいだけだ。


 それがない。全くの事実誤認なのに、「ここは商業都市ですよ」指摘しても、「うんにゃ、交易都市じゃろうて。なんじゃパレアトゥスお主まで儂をからかいおって」と単語が、設定が全くブレない。理路整然としている。




 言葉遣いは丁寧だし、着ている衣服も、王都でもそうそう見られない上等な仕立ての一点ものだ。仕草も洗練されている。非の打ちどころのない品の良さを感じる。


 つまり躾の良い上品で身分の高い何者かということだ。だから虚言を妄想を吐く理由が、目的がわからない。




 それは隣に控えるアマンダさんも同じ感想を抱いた。




 まるで、ギルドを知らない、知っていても同じ名前の全く違う組織を指しているような印象を受けたと、アマンダさんは言った。




「埒が明かないし、アエネゥスギルド長も限界のようでしたから。一度休憩を挟んだほうがいい。そう判断して一旦退出を」


 ギルド長はよほど恐怖だったのか部屋を出るなり安定剤を服用し、今は仮眠室でがたがた震えているという。




「あの紳士の話だけなら、ここは交易都市と言う名称の街で、ギルドは王都の王族や王都重鎮たちの離宮という扱いになるのだけれど。そんなことあるかしら」


 そう独り言ちるアマンダさんの頬は青ざめ、唇は微かに震えていた。



   閑話休題



 まるで雲海のような濃い霧の向こうに、40年ぶりの交易都市が姿を現し始めた。


 交易都市を訪れるのはパレアトゥスの就任式以来だ。




 口許のナマズ髭がチャーミングなアクアータス紳士の先祖、エヴェナリエ家初代は交易都市の発展に尽力した。それからも陰になり日向になり交易都市を支えて今日に至る。つまりエヴェナリエは銘のある家柄というわけだ。交易都市の象徴であり玄関となるギルド(迎賓館)はエヴェナリエの別邸を移築したもので、エヴェナリエの者たちは、王族や高官、親交のある銘家を伴っては、たびたびギルドを訪れ、長い交易都市逗留を楽しんだ。また、その際は街をそぞろ歩いて、下々の者たちと交流し、親睦を深めた。


 街行く人誰もが知る存在。王族よりも民草に慕われる存在。それがエヴェナリエの一族だ。




 現交易都市ギルド(迎賓館)長に腹心の友パレアトゥスを推薦したのはアクアータスだ。


 エヴェナリエの後押しもあって晴れてギルド長に選出されたパレアトゥス。


 就任式の時、二人は約束を交わした。


「パレアトゥスよ、お主なら長きにわたって豊かな生活を享受できるよう民草を導いてくれると信じとるぞ」


「おお、アクアータスよ、私はその義に応えよう、きっと長きにわたる繁栄をもたらしてみせよう」


「その時は再び逢おうではないか」


「また杯を酌み交わそう」


 それから間もなくして、アクアータス紳士は病を患った。症状は重いわけではなかったが、治療には長い時間がかかった。細身だったアクアータス紳士の身体は肥え太った。




 病床の彼を支えたのは交易都市ギルド長パレアトゥスと再会を果たす。その思いだった。そうして老い先短い爺の我が儘を通す形で、一人お忍びの旅を敢行した。


 ようやく約束を果たせる。昔のように一晩中飲み明かしたりは出来ないけれど、語り合う時間は豊かなものになるだろう。




 まずは街の様子を窺い、それからギルドに向かおう。再会を果たした瞬間のパレアトゥスはまず首を傾げるだろう。それから正体を明かす。するとパレアトゥスは、アクアータスよ、お前はどっしりと貫禄がついたと目尻に涙をたたえ笑うのだ。




 そんな想像をして船上の紳士はふふ、と微笑んだ。



 それから、更に任意で選ばれた治安課の聴取係数名が、急遽呼び出しを受けた白銀の剣華の団長が、同じように入れ代わり立ち代わり聴取を行ったけれど、偽札紳士の言質にぶれは無かった。


 逆に「いったい何度同じ話をさせるのかの?」「儂は嘘偽りなど申しておらんぞ」と紳士は憤り、果ては「何故うぬらは揃って儂をたばかるのじゃ」と主張を続け、最後は「ここは交易都市じゃよな?そうじゃと言っとくれよ」と悲し気な眼で心細げに問うてきた。




 時計の短針が頂点を差そうかという時間。




 僕は小用を足して、小会議室に戻るところだった。


 静かだ。


 必要最小限の灯りの点いた廊下は、嫌に足音が反響するせいで勢い忍び足になってしまう。




 結局偽札紳士は罪状を認めることはなくて、僕らは治安維持課で夜を明かすことになってしまった。




 メリッサは若い未婚女性ということもあって宿直室を使わせてもらうことになった。


 女性同伴ということで急遽当直担当になったのは、朝方メリッサを引き留めた年配のご婦人だった。


「上が連続夜勤なんて言うから何かと思ったら。大変だったわね…うん、カルパッチョサンド、分かるわその気持ち」


 僕ら男性陣は自由に使ってくれと小会議室をあてがわれた。毛布や飲み物が用意されていたのは有り難い。




 けれど。




 なんというか、既に日常の中の非日常といった居心地の悪い場所から、早いとこ解放されたい気持ちでいっぱいだった。


 みんな心配してるだろうな。違う任務で郊外にでてるサディやベリンダにもギルド経由で連絡がいってるのかな。


 狭くて物がゴチャゴチャ置いてある乱雑な拠点の自室のベッドが恋しくてしょうがない。


 明日には拠点に戻れるのかしらん。


 そんな事を考えながらロビーに差し掛かると、偽札紳士の聴取に携わった赤毛の髪の若い治安課の若者が、同僚らしき中年男と休憩スペースで立ち話をしていた。


「王都からの便に同乗した乗客にも聞き込みしましたけど、旅団の二人とおさげのギルド事務員は見かけたって証言は何件かあるんっすがねぇ、紳士を見かけたという証言は全然出てこないっす」


「まぁ大方虚言か、なりすましだろうが…嘘を付いてる感じじゃないのがなんともなぁ」


 聞き覚えのある声。相手は僕を聴取したおじさんだった。


 おじさんが、困ったように頭を掻く。正直、紳士をどう扱って良いものか持て余しているのがありありと見て取れた。








 僕も不思議でしょうがなかった。


【交易都市】。名称こそ違えど、指している意味は商業都市と同じだ。


 身なりだってそれこそ王都の上流階級のようないでたちで、技術的にはとても精巧なのに露骨にデザインが違う紙幣を持っているのも、リアリティ溢れる嘘をつく理由も全くわからない。




 なにか目的があって、最初から犯罪をしでかすつもりなのだったら…もっとバレにくい工夫をするはずだ。


 ギルドに連れて行かれるために一芝居打った?


 何のために?


 取り調べの体験をするため?


 いやそんなまさか。それならもっとスマートなやり方接し方がある。取材として申し込めばいい。


 治安維持課はそんな酔狂に応じるほど暇じゃないかも知れないけど、少なくともこんな形で手を煩わせるよりは真っ当な手段のはずだ。






 そんな風に僕なりに合理的な推測を考えていた時だった。


「それとですね赤の舞踏ですが」


 思ってもいない名称が出てきたことにドキッとした。


 何でこの流れで赤の舞踏の名前が出てくるんだ?思わず耳をそばだてる。


 聞こえてきたのは、俄には信じがたい言葉の数々だった。


「件の食堂との怨恨の線も洗いましたが、特に目立ったトラブルは無かったっす」




 怨恨って。そんなのあるはずがない。あるわけない。どうしてそんな言いがかりみたいな事を言い出すんだ。




 語尾に時々っす、を付ける赤毛の若い治安維持課の職員は、更に【旅団赤の舞踏の構成員からア拠点の住所から過去に依頼を受けたバイヤーからの評価、直近の任務内容、王都に奇形のバイコーンを搬送した時にどこに宿泊し、誰と会い、どこに立ち寄り、何時の便で王都を出発したか】まで調べ上げていた。


「旅団に怪しい点は無い、か…」


 それが考える時の癖なのか、おじさんがボサボサの髪をぐしゃぐしゃとかき回す。


「…明日の聴取はアプローチを変えてみるかねぇ」




 おじさんの日中の朗らかな優しい様子とうって変わった冷淡な物言いに恐怖がわいてきた。




 それが仕事だとわかっていても、おじさんが笑顔の裏で僕も疑っていた事実に薄ら寒い気持ちになった。


 僕自身、変な紳士の騒動に巻き込まれた認識だったけど、治安維持課にとっては僕らは共犯者、疑いの対象なんだ。


 暗い気持ちを抱えて小会議室に戻ると、褐色の肌に小鬢に白いものがちらほら見える年頃の、誰が見てもまごうかたなき美形の中年と、しょぼくれたおっさんが、デスクを挟んで腰を下ろして膝を付け、額をくっつけんばかりに談義していた。


 白銀の剣華団長とうちの団長だ。


 剣華団長は、戻って構わないのだけれど、【商業都市内で問題が起きたとき各旅団は率先して此の対処にあたる】という旅団規約を行使して、自発的に残ったのだ。




「おう、戻ったか」


 とドアの側に佇んで俯く僕に気付くと、ウチの団長が手を挙げて、空いている隣の椅子をポンポンと叩いて座るよう促してきた。


 とかく団長は陽気だ。


 治安維持課にとって僕も団長も被疑者候補なの、気付いているんだろうか。




「件の紳士が、女将さん食堂を訪れたのは何か問題を起こすためだった、と仮定しよう。それなら、食事に異物を混入させる方が効果は高い。しかし紳士はそうしなかった。商業都市の評判を貶める目的にしては行動が不自然極まりないうえに、やり口がお粗末なんだ」


「確かに。それで自分がしょっぴかれてりゃ世話ねぇやな」




「それに、紳士の一連の供述、誰が聞いても同じ答えしか返ってこない。【王府から交易都市にやってきた。名前はエヴェナリエ家のアクアータス】の一点張りだ」




 ウチの団長が眉をひそめた。


「それは喋っていい話なのか?」


 低い、鋭い声音。ロビーでの治安維持課職員のやり取りを聞いた直後の僕には、過失を咎める詰問のように感じられた。団長、自分も被疑者候補なの、気付いてたんだ。


「旅団同士の情報共有だよ」


 顔色を変えず、動じることなく剣華団長が返した。そうして、団員からの差し入れだといって受け取った荷物の中から、付箋の貼られた、よその世界からやってきた男、少しズレた世界線、見知らぬ隣の世界といった、思わず眉に唾を着けたくなるようなタイトルタイトルの書籍を数冊、机の上に並べて置いた。


「なんだこりゃ。お前こんなもん嗜むクチだったか?」


 露骨に胡散臭い表情を見せて疑いの眼差しを向けるうちの団長に、剣華団長がにこやかに笑って返した。


「団員にこの手の与太が好きな子がいてね。紳士の話を現実と仮定した推論を立ててみるのもありなんじゃないかと思ったんだ」


 そうして、付箋紙のついたページをめくりめくり、現実と少しずれた世界の可能性とそこを行き来した人の記述があることを語った。驚いたことに、随分昔からそういった事例があって、濃霧の日に現れて、密室から消えていた怪人、といういささか怪談めいた記述に始まり、知らない世界を探訪した体験談、近年には王都で思考実験の論文も発表されたらしい。




 商業都市のようで商業都市じゃない、似て非なる異なる世界。日常が日常じゃない世界。想像もつかない。




「 つまり、あの御仁の頭の中には歴とした世界があって、我々の現実が間違っているという認識を持っている、と」


「そう考えると、出所不明なのにやたら精巧な偽札も色々つじつまが合う、と思わないか?」






 このとき初めて僕は偽札紳士に同情の念を抱いた。もとの世界でのアクアータス紳士の身分や立場、交友関係は知らないわからないけれど、紳士の知ってる誰もが全て「見知らぬ赤の他人」となってしまっている。あの偽札も、紳士の世界では流通していただろう紙幣のはずだ。


 もし自分がそんな所に放り出されたら正気を保っていられるかしらん。商業都市のようで商業都市じゃない、似て非なる異なる世界。日常が日常じゃない世界。


 サディやベリンダ、赤の舞踏団の構成員が、顔なじみのメリッサが「あんた誰」「お前なんて知らんぞどこの何者だ」と冷たく言い放ってくる。


 ここにいる団長が、 剣華団長が「赤の舞踏なんて旅団はねえよ」「旅団というのはなんだい?」と気の毒な視線を向けてくる。


 偽札に刷られていた記号、あれが文字だとしたら。誰も読めないから身分証は一切役に立たない。


 自分が自分であると証明できるものが何もない。


 想像を絶する恐怖だ。想像しただけで泣きたくなってきた。




「濃霧にまかれると知らない世界に出てしまう、その説自体は魅力的だわな。実際今朝の商業都市はすげぇ霧だったし。けどよ、流石に飛躍し過ぎだろ。そんならあの紳士がこの手のいかれた研究の第一人者で、わざわざ「そのずれた世界からやってきた」体で周囲の反応を見るための演技を続けているって方がまだ現実的だ」


 うちの団長の反証を聞かされた剣華団長がううーん、と天を仰いでため息を吐き、がっくり肩を落とした。


「その条件さえ無ければこれですんなり説明がつくと思って、敢えて見ないふりをしていたんだけど…駄目か」指摘された点は剣華団長も同じ疑問を抱いていたようだ。



「しっかしお前も物好きだよ」


 ウチの団長が呆れたように吐き捨てると、頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。


「俺ならこんな厄介事治安維持課に丸投げしてバックレるぞ、なんで旅団規約まで持ち出して首を突っ込む?」




「君には恩があるからね、返せるときに返してるだけだよ」


「そんなもん返さなくていいから、その分他人にじゃんじゃん施せ。恩義は巡り巡る天下の廻りモンだ」



 違う世界から来た紳士の件は朝方に急転直下を迎える。








 実のところ中年も赤毛も早い段階で旅団赤の舞踏と紳士は無関係だろうと目星はつけていた。


 赤毛の裏取りはその確認でもあった。




 そして、治安維持課の男たち二人は、お互い口には出さなかったが、それぞれ、「紳士は、真実よく似た世界からやってきた人物だと信じざるを得ない」認めたくないが認めざるを得ない、そんな複雑な葛藤を抱えていた。




 例えば食事。


 通常、パンは煮物なり焼肉なり総菜を乗せて食する。ジャムは湯に溶いて飲む。


 紳士は、迷うことなくパンを手でちぎり、ジャムを塗って口に運んだ。煮物は単品で咀嚼し、ジャムを溶くべき白湯はそのまま口にした。その迷いのない『間違った食事の摂り方』から、そうすることが正しい、そんな意志すら感じた。


 紳士の身に着けている洒落た金ボタンの黒いスーツ。不思議な手触りで、長時間椅子に座って取り調べを受けていたのに、膝裏に全く皺が付いていなかった。


 シャツのボタン。見慣れない加工の虹色を帯びた光沢のうっすら透けた不思議な素材。


 南方特産の調度品の螺鈿細工に似た色味に近いが、こんなボタン、「扱ってないものは不老不死の妙薬と惚れ薬だけ」と謳われる商業都市でも見たことが無い。


 決定的だったのは、紳士が所持していた身分証明書だ。


 この世界の身分証明書は、手のひらサイズの小冊子だ。いつどの都市または地方で誰と誰の間に生まれたか、髪や瞳の色、黒子の位置、幼少時の怪我の治療痕などの身体的特徴が細かに記されている。


 紳士が提示したのは、偽紙幣と同じく、見慣れない記号が文字のような規則性を思わせる配置で並んだ、透き通った材質のごく薄い板だった。


 この薄板はガラスと違って曲げればしなるし、割れることがなかった。


 これ以上ない物的証拠だ。


 しかし、実際問題、事実女将さん食堂は無銭飲食という損害を被っている。


 紳士の背後にギルドに反目する非合法組織サルーンがいる可能性も棄てきれない。贋札も割れないガラス板も、引退した名技術師が偶発的に制作した一点モノの可能性だって否定できない。


 読めない記号も同じだ。文字の規則性から類推して、在野の言語学者がふざけて創造した独自言語かも知れない。どんな荒唐無稽な仮説であれ、無いと言い切れない以上潰せるものは潰す。




 治安維持課の立場から「紳士は通常と異なる世界よりやってきた来訪者である。よって偽造通貨使用罪、無銭飲食には当たらない。かつ身元不詳の存在として無罪放免です」と報告するわけにいかないのだ。


 ※非合法組織サルーン・ギルドに所属する旅団と違って裏でなんか仕切ってる要はヤクザ、暴力団、極道さんのようなもの


そこに、黒髪をきっちり編み込んだヘアスタイルの女性事務員が、贋札紳士の食事を持ってきた。


「やぁおはよう」


中年がにこやかに片手を挙げ、ご苦労さんと言い添える。


対する事務員は大変ぶっきらぼうに「おはようございます」と返し、部屋の扉を開ける。




狭い、窓の無い部屋は、無人だった。




留置室だから、内側からは開かない仕組みになっているのに、紳士は煙のように蒸発したのだ。


アクアータス氏にとって悪夢のような夜が明けた。


 しばらく滞在してもらうと言われて案内された部屋は、迎賓館と思われぬ簡素な居室だった。


 記憶が確かならばここはリネン室だ。


 本当に儂はこの世界に存在しない何者かなのだ。


 そんな絶望を抱いて一夜を明かし、朝を迎え、アクアータス氏は尿意を覚えた。


 元リネン室の居室に厠はない。


 恥ずかしさと口惜しさを噛みしめ、治安維持課と名乗る男たちに案内を乞おうと自ら扉を開けた。




 すると。




 毛先がゆるくカールした赤毛をカチューシャでまとめ、バラ色のスカートの裾を持ち上げ、忙しなく廊下を進んでいた年配の女性が、まぁ、と両手を口に当てて驚いた表情を浮かべた。


 そして、アクアータス氏に小走りで駆け寄り縋りついてきた。


「アクアータス様、いままでどこにいらしたのですか」


 王都での療養中、見舞として何度も病床を訪れたパレアトゥスの使いの女官だ。


 アクアータス氏は思わず返した。


「お主、儂が分かるのか?」


 女官は妙なことを聞くものだと一瞬訝しい表情を見せ、


「何を仰るのですかアクアータス氏様。昨日明朝、下船されてから消息が途絶えたと報告があって、ほうぼう探し回っていたのですよ」


 それがこんなリネン室でかくれんぼのまね事なんて、パレアトゥス様になんと伝えたらよいのです、とほんの少し怒りの色を滲ませ説明した。


「パレアトゥスとな」


「そうですとも、アクアータス様の朋友、パレアトゥス様でございますよ」


 ここに至って初めてアクアータス氏は、ここは本来の世界だという実感が湧いた。


「さ、参りましょう、アクアータス様、パレアトゥス様も大変心配なされます」


 その言葉に戻ってこられた、そんな安堵が湧いてきた。アクアータス氏の涙腺からぶわ、と涙があふれた。










 異邦人紳士が消えてしばらくした後。あの騒ぎの発端となったカルパッチョサンドは女将さん食堂だけでなく異邦人サンドなるメニューとして【よその世界からも食べにくるその美味さ】【話題沸騰、噂のカルパッチョサンド】などの触れ込みで市場食堂全体で大々的に売り出される運びとなった。


 あの件は大勢の目撃者がいたし、どう足掻いても人の口に戸は立てられない。ならば正直にぶちまければいい、と治安維持課の担当官に示唆した人物がいたとかいなかったとか。


 結果、いい宣伝になったから、と女将さんは笑い、メリッサは女将さん手づから作った出来立てのカルパッチョサンドを頬張る栄誉に与った。


 僕もご相伴にあずかったのだけれど、本当に、美味しいサンドイッチだった。


「獲ってすぐに活〆された魚を使うのがミソなのよ」


 とおばさんは小声で耳打ちして種明かししてくれた。




 僕たちは、偽造通貨と異世界からの来訪者という、人類史的な大事件の目撃者となった。だが、商業都市にとって、その事実は「サンドイッチの具を食い逃げした変な客」程度の重みしかなかったらしい。




 この商業都市は、どんな非日常的な事実でさえも、利潤と賑わいという日常に取り込んでしまうしたたかな街なのだ。
















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異世界日常 あか りくこ @akakuriko

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