第21話
相瀬が病室に入って二週間が過ぎた。
依然として彼女は目を覚まさない。
でも、僕にはやり遂げなければならないことがあった。
それは漫画を完成させること。
目を覚ました彼女に最高のハッピーエンドを届ける。彼女の安否はもちろん心配だけど、それだけを考え僕は漫画を描き続けた。
相瀬が病室に入って三週間が過ぎた。
ようやく僕たちの漫画が完成した。
約百ページにも及ぶ漫画を一カ月ほどで描き終えたというのは、我ながらよくやったんじゃないかと思うけど。漫画を見せるはずの相手は、未だ目を覚まさないまま。
先日、梨乃の母親である愛乃さんから電話があった。
その内容は予想通り、実の母親とは思えない身勝手なもの。交通事故に遭った時と同様に、あの人は梨乃の全てを僕に押し付けたのだった。
相瀬が病室に入って一カ月が過ぎた。
世間がクリスマスで大盛り上がりの中、相も変わらず僕たちの時間は、あの公園の日を最後に止まったままだった。
ここ数日は、完成した原稿を手に毎日様子を見に来ているけど、そこにいるのは酸素マスクを着け、死んだように眠る幼馴染。相瀬が染めた黒髪はすっかり伸びて、交際当時の梨乃の面影はまるでない。
このまま一生目を覚まさないんじゃないか……なんて、最悪な結末を想像しては、チラチラと絶え間なく降る雪を眺めて忘れた。
相瀬が病室に入って一カ月と半月が過ぎた。
年越しムードも落ち着いてきた頃、遂に病院から一本の電話が。
『相瀬梨乃さんが目を覚まされました』
それは喜びを煽るのと同時に、しばらくのあいだ距離を置いていた不安を蒸し返す一報だった。僕はすぐさま店長に連絡。本来シフトに入る予定だったけど、事情を話せば一つ返事でバイトを休むことを許してくれた。
これでようやく、相瀬に漫画を見せることが出来る。
原稿の入った茶封筒を片手に病室へと向かった僕は――
「光……」
僕を”下の名前”で呼ぶ彼女を前に、大きな喪失感を覚えた。
脳裏をチラつくのは、相瀬が消えてしまったというバッドエンド。
とはいえ、まだ十分に可能性はある。
梨乃は今日、目を覚ましたばかりだ。たまたま今が梨乃なだけで、寝て起きればきっと相瀬の人格になるはず。
でも――次の日、そしてまた次の日と、梨乃のお見舞いを重ねる度に、僕の中にあった希望は消え去り、ぽっかりと空いたその穴を絶望に近い何かが満たした。
相瀬は消えてしまった。それを心の中で呟いたその時、僕は初めて受け止めるべき事実の大きさに気づいた。
最高のハッピーエンドを届けるという約束をしたのに、どうして……。
そんな波のように押し寄せる感情に飲み込まれた僕からは、生温かい涙が溢れ、音もなく床に落ちた。
梨乃は間違いなく無事だった。
医師にも健康状態に問題はないと言われた。
今、僕の目の前には、生きている梨乃が確かにいる。
そのはずなのに……心を覆った絶望が、どうしようもないほどの悲しみを生み出していた。
「やっぱり光は泣くんだね……」
涙する僕を見た梨乃は、苦しそうに笑いそう言った。
無事な幼馴染を前にして泣くなんて、こんなに酷いことはないと思う。頭ではそれを理解していたけど……拭っても拭っても溢れる涙が止まってくれない。
それはまるで、僕の中にあった『恋』という感情が、涙に形を変えて失われていくようだった。胸の痛みを忘れるために、噛みしめた下唇。血が出てしまいそうなほど強く噛んでいるのに、それでも胸の痛みを上書きすることは出来なかった。
「そんなにもう一人の”ワタシ”のことが好きだったんだね……」
あまりにも情けなくて……あまりにも申し訳なくて……梨乃の顔を見ることは出来なかった。いつの間にか床に落ちていた茶封筒の横に、僕は膝から崩れ落ちる。
「私、決めた」
もう、僕が漫画を描く理由はない。
現実に押しつぶされそうになっていたその時――
「相瀬梨乃の物語を完成させる」
「えっ……」
梨乃は力強い声音でそう言った。僕は反射的に顔を上げる。
「もう一人の”ワタシ”はずっと物語を書いてた。その書きかけのネームがうちにある」
「相瀬が……?」
「私がそのネームを完成させる」
そう言えば以前に、相瀬はこんなことを言っていた。
あれは確か……水族館からの帰り道。
『ワタシもワタシなりに作品を書いているけれど、相瀬梨乃の創り上げた作品には敵わない』
梨乃の話が本当だとするなら、相瀬が書きたかった物語が今も残されているということ。
「あの子の作風はわかってる。だから私でも何とかなる。何とかしてみせる」
胸に当てた拳をグッと握った梨乃。
決意に満ちた彼女の瞳は、やがて膝をついたままの僕に向けられた。
「光はどうするの」
「……っ」
「このまま彼女を諦めていいの」
「僕は……」
確かにそれは、相瀬の残した作品なのかもしれない。
でも、例えその漫画を完成させたところで、相瀬が戻ってくるわけじゃない。そんなものはただの自己満足。相瀬を失った痛みを誤魔化すための無意味な行為でしかない。
「光さ。カッコわるいよ!」
何もかもを諦めようとしていた僕に、梨乃は精悍な面持ちで言った。
「うじうじしてばっかりで、すぐに諦めようとする! もう一人の”ワタシ”がいなかったら何もできないわけ⁉」
「そ、そんなんじゃない。僕は……」
「光が私のことを煙たがってるのはわかる。でもそれってさ、ただの言い訳じゃん! 光がいないと何もできない私を否定して、弱い自分を見ないようにしてるだけじゃん!」
「……っ」
「もう一人の”ワタシ”がいないと何もできないくせに。結局光も私と同じなんだよ!」
これには、何一つとして反論できない。
全くもってその通りだと、梨乃の言葉を受け入れるしかなかった。
他人に合わせる。
そんな生き方しかできない自分が嫌いだった。だから同じ生き方をしている梨乃を遠ざけ、弱い自分を肯定することから逃げ続けた。
「ホントは見せないつもりだったけど」
すると梨乃は、枕元に置いていたスマホを手に取った。
「光を変えられるのは、きっと彼女だけだから」
そう言って、その画面を僕に向ける。
縦画面で表示されていたのは、とある動画だった。
梨乃が再生ボタンを押せば、現れたのは――
『こんにちは、間宮くん』
僕を”苗字”で呼ぶ、消えてしまったはずの彼女だった。
『この動画を見ているということは、ワタシは消えてしまったのね』
相変わらずの希薄な表情で、淡々と語り始める相瀬。
「どういうことだよ、これ……」
「もう一人の”ワタシ”が残した動画。私も昨日これに気づいたの」
「でも、どうしてこんな……」
戸惑うしかない僕に、変わらずスマホの画面を向けている梨乃。黙って観ろということだろうか。その表情は真剣そのものだった。
『ところで間宮くん。あなたが言っていた最高のハッピーエンドは完成したかしら。もし完成していたとしたら、ワタシはそれを読むことができたのかしら』
できなかった……と、心で呟いては歯を食いしばった。
『もし読めていないのだとしたら、それはとても残念です。以前にも言ったように、ワタシは間宮くんの絵を愛している。相瀬梨乃の創る物語を愛している。あなたたちが生み出した物によって、ワタシは幸せを知ることができた。だから、ありがとう』
違う……僕はまだ何もしてあげられていない。漫画を見せる約束だって、また一緒に水族館に行く約束だって……何一つとして果たせていないのに――
『あまり長く話しすぎても、間宮くんを困らせてしまうだろうし。最後に一つだけ』
再び込み上げてきた涙をグッと堪えている最中、画面の中の相瀬は小さく微笑んだ。
『ある命が別な命を幸せにできる。感動させることができる。それは凄く尊いことだという話は、前にもしたことがあったわね』
それはあの日、水族館の魚を前に相瀬が口にした話だ。
『間宮くんの絵と相瀬梨乃の物語には、それと同じ力があるとワタシは思う。ワタシがあなたたちの絵や物語を愛したように、きっとたくさんの命が、あなたたちの創り上げるハッピーエンドを待ってる』
だから――
『漫画を描き続けて。ワタシの分までたくさんの人を幸せにしてあげて。それが偽物であるワタシからのたった一つのお願いよ』
「……っ」
虚無に近かった僕の心に、温かな光が灯ったような気がした。
つーっと、堪えていた涙が頬を伝ったその刹那、
『それじゃ間宮くん。今までたくさんの幸せをありがとう。さようなら――』
相瀬はこれまでになかったほどの、幸せに満ちた笑顔を浮かべた。
真っ暗になった画面に、僕の情けない泣きっ面が反射する。
「例え光がいなくても、私は漫画を完成させる」
静かになった空間にそう呟いた梨乃は、まっすぐに僕を見た。
「光はどうするの」
相瀬に漫画を見せることは叶わなかった。
そこで終わりなんだと諦めていたけど……あんな風にお願いされて、このまま終わりにできない。していいわけがない。
「描く……それだけが僕のできることだから」
僕はグッと拳を握り、
「この世界に彼女が存在したってことだけは、絶対に失ってやるものか」
燃えるようなこの決意をはっきりと口に出した。
「なら、しばらくは二人で缶詰だね」
「ああ。梨乃が退院したらすぐ、今ある分のネームを取りに行く」
そう言いながら、床に落ちていた茶封筒を拾い立ち上がった。
「この原稿、一回持ち帰らせてもらってもいいか」
「う、うん。私は構わないけど」
これは相瀬に見せるはずだった僕と梨乃の漫画。納得のいくクオリティーで完成はしているけど、どうしても引っ掛かる部分が一つあった。
それはこの漫画を『デジタル』で描いたということ。相瀬と出会い、久しぶりに漫画に触れたことで初めて、僕は気づいた。僕の絵はデジタルではなくアナログだと。
「それじゃ今日は帰る」
「うん、ありがとう。光」
僕は茶封筒を片手に病室を出た。今の時間は……十八時前。となれば奴も今頃は、仕事を終えて家に帰っている頃だろう。
「傑、今いいか」
『おう、どうしたよ、光』
病院を出るなり僕が電話を掛けたのは、僕の大親友である傑。
「わるい、傑。至急頼みたいことがある」
『頼みたいこと?』
「実家にあるミリペンを持ってきてほしい。母さんに言えば多分わかる」
『持ってきてほしいって……東京までってことかよ』
「ああ。なるべく早くほしい」
無理を承知で言えば、電話の向こうの傑は「んんー」と渋い声で唸った。
『一応言っとくけど、俺、今仕事終わったばっかだからな』
「だろうな」
『ちなみに明日も普通に仕事だからな』
「だろうな」
『だろうなって……はぁ……』
自分でもなかなかに無茶なお願いをしていると思う。
でも、一日でも、一時間でも早く原稿に取り掛かりたい。
この熱い想いが薄れてしまう前に。
『貸し、一つだからな』
十秒ほどの沈黙の末、傑は諦めたような声で言った。
「ああ。次東京に来た時に、飯でもキャバクラでも何でも奢ってやる」
『マジか! そりゃ行くしかないっしょ!』
僕が即興で餌を用意すれば、一瞬で食いついてきた傑。
これは単にチョロいだけなのか、それとも僕を想ってわざと餌に食いついてくれたのか。どちらの可能性も十分に在り得るほどの良い奴。それが二階堂傑という男だ。
『法定速度守って140キロで向かうから待っとけ!』
「頼むから安全運転で来てくれ……」
それを最後に、傑との電話は切れた。
これで懸念していたミリペンは大丈夫。相瀬が途中まで書いていたというネームも、きっと梨乃が最高のエンドにしてくれるだろう。
「やるぞ、僕」
僕は両手で頬を叩き自らを鼓舞した。
涙はもうない。
相瀬に対する『恋』はもうこれで終わり。気づけばぽっかりと空いていたはずの心の穴も塞がっている。これを塞いでくれたのは、間違いなくあの二人だ。
相瀬の想いを背負い、梨乃は前に進むと決めた。
なら僕も同じクリエイターとして、立ち止まっているわけにはいかない。
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