第20話
あの日以来、漫画の進捗はほとんどなかった。
描こうとしなかったわけじゃない。描けなかったのだ。
まるで真冬の大雪が、僕の視界を奪ったかのように。今まで見えていたはずの道の在りかが、わからなくなってしまった。
それでも僕は、懲りずにタブレットと向き合った。
でも、やっぱり描くことは出来ない……そんな日が三日ほど続いた今日。ポコッという音と共に、机に置いていたスマホが光った。僕は乾いた眼を擦りその画面を見る。
『今から会えるかしら』
メッセージの差出人は梨乃。
しかし、この文体からして、おそらくは相瀬の方だろう。
「よかった……」
まず初めに僕から漏れたのは、そんな安堵に満ちた声だった。
人格が変わるサイクルが乱れ始めているのは知っていた。だからこそここ数日は、相瀬の人格が消えるというバッドエンドを、幾度となく妄想してしまっていた。
『わかった。どこに行けばいい』
僕はすぐさま返事を送り、根が張ったように座りっぱなしだった椅子から立ち上がった。部屋着を脱ぎ捨て、適当な服に着替えて家を出る。
十一月も半ばということもあり、世界は本格的に冬を迎え入れようとしていた。玄関の前で一つ身震いした僕は、選んだ服に後悔しつつも、気にせず約束の公園へと向かった。
◇
「急に呼び出してしまってごめんなさい」
家から数分の小さな公園。
ポツリと置かれたベンチに腰かけていた彼女は、僕を見るなり穏やかに笑った。
「はい、これ」
間違いなく相瀬は存在する。
その事実にホッとする僕に、相瀬はお茶のペットボトルを渡して来た。
「お金、払う」
「いいのよ、これくらい」
それは温かいお茶だった。
「突然呼び出してしまったお詫び」
「でも、君のお金じゃないだろ」
「今はワタシが相瀬梨乃よ」
だから大丈夫。
その一言に甘え、僕は出しかけていた財布をしまった。
「で、用件は」
僕は相瀬の隣に腰を下ろし、さっそく尋ねる。
「漫画の進捗を確認しておこうと思って」
「それだけで僕を呼びだしたのか?」
「ええ」
平然と言うけど、それだけなわけがない。
漫画の進捗なら、メッセージでも確認できる。
「全然進んでない。完成はまだまだ先だ」
「そう」
一体何を考えているのだろう。
僕は意味もなく、やけに綺麗な夜空を仰いだ。
「相瀬梨乃とのやり取りが途絶えたのよ。間宮くんは何か知ってる?」
僅かな沈黙を跨いで、相瀬はそんな近況を語る。
「やり取りって、例のノートに書いてるってやつか?」
「ええ」
どうやらこれが、僕を呼びだした本当の理由らしい。
それにしても、どう答えたらいいのだろう。梨乃とは以前にもギクシャクして、結果相瀬に助けられる形となった。今回もまたそうでは、あまりに人として情けない。
「そんなことより、大丈夫なのか」
「何のことかしら」
「梨乃から聞いた。人格の変わるサイクルがおかしくなってるって」
無理やりに話題を変えれば、相瀬は「ああ」と相槌をして続く。
「そうね。ワタシはついさっき五日ぶりに目を覚ました。その間ずっと相瀬梨乃だったことを考えると、何かが起ころうとしているのは確かでしょうね」
例えば……と、前置きした相瀬から出たのは、
「どちらか片方の人格が消滅するとか」
「……っ」
淡々と語るには、あまりにも重大なそんな妄想だった。
「もしかすると、タイムリミットが近づいているのかもしれないわね」
彼女は今、間違いなく我が身の将来を語っているはず。それなのに、どうして顔色一つ変えずにいられるのだろう。『消滅』なんて言葉、普通は怖くて口にできないだろうに。
「君は消えるのが怖くないのか……?」
「どうかしらね」
弱弱しい灯りに照らされた相瀬は、神妙な面持ちに笑みを浮かべた。
「でも、ワタシは元々この世界に存在しないはずの人格なわけだから、仮に消滅したとしても、それはそれで仕方のないことなのだと思う」
僕には彼女の言葉の意味、その心境が全くもって理解できなかった。
どちらかの人格が消える。
それは言葉にするにはあまりにも辛い最後で、それを見届けなくてはならない僕も、当事者である梨乃も、その恐怖に酷く怯えている。
でも、相瀬は違う。
そうなるかもしれない未来を仕方のないものだと割り切り、その全てを納得し、受け入れようとしている。
僕は納得すらもできずに、こんなにも苦しんでいるというのに……
「……君がそんなだから僕は――」
こっちの事情も知らずに突然現れて、僕の日常を大きく変えたくせに、今度は勝手にいなくなろうとしている。
どこまでも献身的で。馬鹿みたいにお人よしで。僕の絵を好きだと言ってくれた、つかみどころのない変わった人――それが僕の知る相瀬だった。
「ワタシを惜しんでくれる人がいるだけで、ワタシは十分よ」
相瀬が見せたその穏やかな笑顔。やはりつかみどころのないその姿を改めて目にしたことで、僕が抱えていた『特別』の正体がわかった。
「僕は『相瀬梨乃』が好きだ」
沸き上がる感情そのままに、僕は全てを告白した。
「何者にも動じない強さが好きだ。僕を子供だと感じさせてくれるその優しさが好きだ。不意に見せるそのつかみどころのない笑顔が好きだ。だから……」
……いなくならないでほしい。
口が裂けても、それだけは言えなかった。
なぜなら今の彼女の存在を肯定するということは、元の梨乃が消えてしまうということだから。
ここまで言葉にしてようやく気がついた。
僕は『相瀬梨乃』を失いたくないのと同時に、『相瀬梨乃』を失いたくないと思っている。女性としての『相瀬梨乃』。漫画家としての『相瀬梨乃』。僕は二人の人間を愛してしまっているのだ。と。
「そんなにも間宮くんに想われていたなんて。ワタシは幸せ者ね」
でも、と、相瀬はその言葉を続ける。
「ごめんなさい。あなたの気持ちには応えられないわ」
当然、わかってはいたことだった。
僕だって、何か見返りを求めてこの気持ちを告白したわけじゃない。でも、想いが届かないというのはやはり悲しく、僕の心に少なからず痛みを残した。
「ワタシはあなたの絵が好き。そして、相瀬梨乃の物語が好き。二人が描くハッピーエンドを手に入れるためには、この告白を受け入れるわけにはいかないの」
「そうか、君は……」
ここまで聞いて、ようやく彼女の気持ちがわかった。
相瀬が何を想い、何を求めていたのか。献身的すぎるその理由――。
きっと彼女は、漫画の完成を待っているんだ。僕と梨乃、二人で描くハッピーエンドを心から求めている。ただそれだけだったのだ。
「二人の漫画が完成するその時を楽しみに待ってる」
こんな理屈、普通に考えたらおかしいに決まってる。
自分の全てを犠牲にしてまで求めるものが漫画だなんて……そんなの、凡人である僕に理解できるわけがない。
でも――。
「なら僕は一日でも一秒でも早く、君に最高のハッピーエンドを届ける」
「ええ、楽しみにしてるわ」
彼女が全てをかけてまで愛し、繋ぎとめてくれた僕らの関係を、漫画という形で彼女に届ける。これが僕にできる唯一の恩返しだと思った。
「言っとくけど、百パーセント泣くからな。腐れ縁の力、思う存分見せてやる」
「それならワタシは、ハンカチを用意して待っていなくちゃ」
「ああ。そうしてくれ」
そんな会話を最後に、僕らは別れた。
話に夢中ですっかり忘れていた温かいお茶は、もうキンキンに冷え切っている。その代わりに冷え切っていたはずの僕の心は、これ以上にないほどの熱で溢れていた。
『相瀬さんが目を覚まさない』
バイト先の店長からそんな連絡を受けたのは、その翌日のことだった。
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