第19話
漫画を描き始めてから十日が過ぎた。
あの日以来、僕は相瀬に会っていない。
大学でも、バイトでも、顔を合わせるのは梨乃。タイミングの問題だろうけど、それでも僕の心には、焦りのような感情が芽生えつつあった。
「遅いな……」
今日は梨乃とシフト被りの日。
いつも通り十分前出勤をした僕だったけど、店に彼女の姿はなかった。
スタッフルームにもいない。
つまりは……そういうことだろう。
「おはようございます」
時間の五分前。慌てた様子でスタッフルームに入って来た彼女の耳には、僕があげたピアスが付けられていた。それを一目見て、僕は僅かに残っていた期待を捨てた。
「おつかれ、光」
「ああ」
僕の予想通り、今日の彼女も梨乃らしい。
「今日、夜谷さんは?」
「締め切りがやばいらしい。だから今日は僕と君、あと店長の三人」
「金曜日なのに三人……⁉」
まあ、梨乃の反応はもっともだろう。
飲食店、特に居酒屋バイトは、週末が一番忙しい。普段は少なくとも四人以上で店を回すのだけど、今日に限っては僕ら意外に誰も入れる人がいなかった。
「僕がキッチンで、ドリンクは店長が全部やってくれるらしい。だから君はホールに専念してくれればいいから」
「わ、わかった」
こうして僕らの戦いが始まった。
やはり華の金曜日。
十八時を過ぎたあたりから、一気に店が混み始めた。
さっきからフードのオーダーが止まらない。店長も凄まじいスピードでドリンクを生み出しているし、ホールの方もかなりギリギリで回している感じだった。
「三卓さん結構待たせてるから、先に唐揚げ持って行って」
「う、うん……わかった……」
それにしても、先ほどから梨乃の様子がおかしい。目が虚ろというか、表情が疲れているというか。見るからに体調が悪そうなオーラを纏っていた。
――と、次の瞬間だった。
『ガラガラガッシャーン』という大きな音が背中で鳴った。
まさかと思い音のした方を見れば……案の定そこには、一瞬肝を冷やすような痛ましい光景が広がっていた。
大変申し訳ございません、と、頭を下げるのは梨乃。どうやら曲がり角から来たお客様とぶつかってしまったらしい。床には先ほど持っていったはずの唐揚げが飛散していた。
「何をやってるんだあいつは……」
思わずそう呟いた僕は、即座に新たな唐揚げを油の海に投入。タイマーをセットし、ウエットティッシュを持って、梨乃の元へと駆け寄った。
「お客様。お洋服が汚れたりなどはしていませんか?」
「え、ええ。大丈夫です」
「この度は大変申し訳ございませんでした」
僕は頭を下げつつ、「掃除用具を持ってきてくれ」と、小さく呟いた。かなり動揺していたらしい梨乃はハッと肩を弾ませると、慌てた様子でスタッフルームに向かった。
「私の方こそごめんなさい。料理を台無しにしてしまって……」
「とんでもございません。こちらの不注意が原因ですので」
優しいお客様のようでよかった。
僕は梨乃の到着を待って、速足でキッチンへと戻る。
タイミングよく鳴ったタイマーに従い、新たな唐揚げを盛りつけた。同時進行していたピザと辛みチキンも同様である。
「これはついに夜谷さんを超えたかな」
なんて、思わず呟いてしまうくらいには完璧な手際だった。複数の料理を同時に作れるとなんか気持ちがいい。飲食キッチンあるあるだと僕は勝手に思っている。
◇
「さっきはごめん……」
ようやく店が落ち着いてきたところで、梨乃は力ない声音で言った。
「気にしなくていい」
「でも、唐揚げまた作らせちゃったし……」
「むしろ唐揚げでよかったよ。あれが手の掛かる料理だったらマジで終わってた」
「ごめん……」
別に責めるつもりは無いのだけど。僕のちょっとした嫌味も効いてしまうくらいには、落ち込んでいるらしい。
「それよりも君、やっぱり体調わるいだろ」
「……」
口ごもるこの感じ……どうやら僕の見立ては当たっていたようだ。
僕はため息を吐いて続ける。
「隠してても店に迷惑が掛かるだけだし、無理そうなら帰れ」
「体調が悪いわけじゃないの……ただ、眠くて……」
「眠い?」
確かに言われてみれば、目の下にクマができている。
「寝てないのか?」
「ううん、むしろ寝てる方。でも、人格が二つになってからかな。活動できる時間がどんどん減ってきてて……最近はコーヒー飲んでも寝落ちしちゃったりして……」
今の話でふと思い出した。
このあいだ、二人で出かけたあの日、梨乃は水族館で見事な寝落ちをした。それは梨乃の家でネームを読んだ日の相瀬もそうだった。
苦手なはずのコーヒーを飲んでいたのは、どうやらそれが理由らしい。
「前までは睡眠を挟んで人格が変わるのが当たり前だった。でも、ここ数日は寝て起きても私のままだし、逆にもう一人の”ワタシ”が、ずっと表にいることだってあった」
「サイクルが乱れてるってことか。でもどうして急に」
「そんなのわからないよ……」
不安そうに俯く梨乃。
そもそも梨乃の中に新たな人格が芽生えたのも、交通事故が原因であること以外は謎な部分しかない。それでいて、人格の切り替わるサイクルが乱れているともなれば、不安になるのも仕方のないことだろう。
「もしかして私、消えちゃうのかな……」
「……っ」
それは梨乃にとっても、僕にとっても、そして相瀬にとっても、無視できない問題なのは確かだった。
「と、とにかく。僕も出来るだけホールに出る。だから無理だけはしないでくれ」
「それって……」
僕がそう言うと、淡い期待の目を向けてくる梨乃。
今の彼女が何を期待しているのか、僕には手に取るようにわかった。
「勘違いしないでくれ。僕は店の心配をしているだけだ」
「そ、そうだよね」
ほんの少し優しさを見せれば、喜びが顔に出るのは昔と変わらない。当時はそれを可愛らしいと思えていたけど、今の僕にはただの毒だった。
重い、面倒だ――。
そう感じてしまった僕がいる。
どうして人の心というものは、こうも大きく変化するのだろう。それは分からないけれど、今の日常が永遠ではないことは、否が応でも受け入れるしかなかった。
◇
何とか閉店まで持ちこたえられた。
僕と梨乃は今、閉め作業を終えて、スタッフルームで着替えをしている。
もちろん、互いの目はない。
僕は男なので堂々としてるけど、梨乃は着替え用のカーテンの裏にいる。付き合っていた当時なら、二人で堂々としていたのだろう。
今思うと、なかなかに気持ちが悪い。
「今日はごめん」
不意に、カーテンの裏から声が届いた。
「もういいって。誰でもミスくらいする」
それでも繰り返されたごめんに続き、僕は気になっていたことを尋ねる。
「それより、人格のこと」
「うん」
「どれくらい君のままなんだ?」
「昨日朝起きた時からかな。それから四回は眠ってる」
「そうか……」
どうやら、想像していた以上にサイクルが乱れているらしい。
人格が切り替わるトリガーが、睡眠なのはまず間違いないとして。乱れた理由は何だろう。そう考えた時に真っ先に思い浮かぶのは、やはり……。
「光はもう一人の”ワタシ”がいないと嫌?」
「えっ……」
僕の不安を逆なでするかのように、梨乃は言った。
「相瀬梨乃が私じゃ納得できない?」
「それは……」
梨乃の人格が初めて元に戻ったあの日。
相瀬を失ったと思い込んだ僕は、とても大きな喪失感を覚えた。つまり僕は、相瀬のことを『梨乃以上に特別な存在だと思っていた』ということになる。
「光、今漫画を描いてるんだよね。もう一人の”ワタシ”に頼まれて」
「ああ」
「多分だけどさ。私が同じように頼んだとしても、光は断ったよね」
「そんなことは……」
……ない。とは、嘘でも言いきれなかった。
だって僕と梨乃は、既に終わってしまった関係だから。
「それってつまりさ。私よりも、もう一人の”ワタシ”のことを特別に思ってるってことじゃないの?」
「……」
何も言い返せなかった。
だってそれは、紛れもない事実だから。
「何も言わないってことはそうなんだね」
シャーっと、更衣用のカーテンが開いた。
恐る恐る後ろを見れば、着替えを終えた梨乃が苦しそうに僕を見つめていた。
その唇は震え、目には涙も浮かんでいる。
「なら、私なんて消えた方がマシだよね」
「梨乃、僕は――」
呼び止めようとしたけど、僕の声は届かなかった。
大きな音で閉められたスタッフルームの扉。唯一残された静寂を感じれば感じるほど、僕の心は握り潰されるような不快な痛みを覚えた。
「クソッ……どうして僕ばっかり……」
梨乃に別れを切り出したあの日、僕はありったけの勇気を振り絞った。
なのに、梨乃は交通事故に遭って、記憶喪失になって、相瀬という別な人格が僕の前に現れた。断ち切ったはずの関係が、僕の望まないままに再構築されて……ついに僕は、相瀬の事を特別な存在だと認識してしまった。
どうして付き合っている当時よりも苦しい?
どうして付き合っている当時よりも悩まされている?
「どうして……」
誰かを特別だと思う。
本来なら尊いはずのこの感情は、僕の心を容赦なく蝕む猛毒だった。
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