第18話
「相瀬梨乃は眠ってしまったのね」
そのまま三十分ほどが過ぎた。
目を覚ました彼女の第一声を聞いた瞬間、僕の仮説は確信に変わった。
「やっぱり睡眠が人格変化のトリガーなんだな」
「ええ。それよりもここは?」
「水族館だよ。君が……いや、梨乃がどうしてもって言うから来た」
「そう、相瀬梨乃が」
すっかり凝り固まった身体をほぐすために、僕はおもむろに立ち上がる。軽く伸びを一回、深呼吸を一回した後、僕は相瀬となった梨乃に尋ねた。
「どうする。もう一周するか? と言っても、君にとっては初めてだろうけど」
「間宮くんがいいならぜひ」
こうして僕は二度目の水族館を相瀬と共に回った。
最初はペンギン、次はチンアナゴ、その次は巨大なエイとサメ――同じ水族館のはずなのに、どうしてこんなにも違う景色に見えるのだろう。
さっきと回る順路が逆だからか。それとも隣にいる相手が違うからか。理由はわからないけど。確かに言えるのは、あの感情希薄な相瀬が、水族館を楽しんでいるということ。
「見て、間宮くん。ブダイよ」
「ああ」
「あっちにはウツボもいるわ」
「そうだな」
見るからにテンションが上がっている。
まさかこんなにも少年みたいな顔になるとはな。
「水族館、好きなのか?」
「ええ。一度来てみたいと思っていたの」
相瀬はサメの大水槽を見つめながら続ける。
「相瀬梨乃の作品で水族館を知って、時々画像を検索しては雰囲気を味わったりしていたのよ。でもまさか、本当に来られるなんてね」
本当はスカイツリーを最後に帰ろうと思っていた。梨乃がどうしてもと言うからここに来たわけだけど……まさかあいつ、相瀬に気を遣ったのだろうか。
「どうして水族館が好きなんだ」
「それはこの場所に幸せが溢れているからよ」
「幸せに溢れている?」
「ええ」
すると相瀬は、今まで水槽に釘付けだった視線をこちらに向けた。
「普通『魚』と言われたら、食べ物の魚を想像するでしょ? でもここに暮らす魚たちは一匹一匹が大切な命。みんなにとっての家族のようなものだと思うの」
「まあ、魚がいなければ水族館は成り立たないからな」
「もちろん、魚は食という面でも人を幸せにすることができる。でもここでは、全く別な方面、本来食する立場であるはずの人間が大切に育てた命が、ワタシたちのような別な命に確かな感動を与えている。食べるよりもずっとたくさんの人を幸せにできる場所なのよ」
そうして相瀬は、今までにないような柔らかな笑みを浮かべた。
「それって凄く尊いことだと思わない?」
正直、相瀬の言っていることは、よくわからなかった。
でも、彼女の言う通り、僕は目の前を泳ぐ魚たちを美しいと思った。
そして、そんな美しい光景を求めて、たくさんの人がここに集っている。そこにあるのは笑顔。つまり、ここに居る魚たちは、少なからず僕たち人間の心を動かしているということだ。
食べてしまえばそれきり。姿も違う、形も違う。魚という弱い立場の生き物が、これだけ多くの人たちを呼び込み感動を与えていると思うと、確かにこの場所には、特別な何かが存在するような気がした。
とはいえ、こんなことを考えながら魚を見るのは、きっと彼女だけなんだろうなと思う。
「やっぱり君は変わってる」
「そうなのかもしれないわね。でも、これがワタシ」
小さく微笑んだ相瀬は、再び目の前の大水槽を見上げた。
そんな彼女の目の前を巨大なエイが優雅に通過する。
まるで太陽が雲に隠れた時のように、彼女を覆った影――すぐにどこかへ行ってしまうその影の主を、彼女は名残惜しそうに見送っていた。
「偽物でしかないワタシにこんな思い出をくれた。こんな美しい世界を教えてくれた。あなたと相瀬梨乃には本当に感謝してる」
蒼い光に照らされる彼女は、まるで人魚のようだと思った。
「そんなに好きなら、また来ればいい」
「そうね。その時はまた、間宮くんを誘うことにするわ」
◇
こうして僕らは帰路についた。
来る前こそ億劫だった今日だけど、蓋を開けてみれば来てよかったなと思う。久しぶりに梨乃と話すことが出来たし、相瀬の意外な一面を知ることも出来た。
それにしても、長居が過ぎた。
最寄り駅に着いた頃には、既に外は真っ暗。独りで帰すのも気が引けたので、僕は梨乃の家まで相瀬を送ることにした。
「間宮くん。一つお願いしてもいいかしら」
ここまで続いていた沈黙。
家まであと僅かのところで、前振りもなく相瀬は言った。
「前に見てもらったあのネームのことなのだけれど」
「あのネームって、梨乃が描いたあのネームのことか?」
「ええ、ワタシたちが絶賛したあのネームよ」
おそらく相瀬が言うあのネームとは、この前読んだ能力者のやつだろう。
「あのネームがどうかしたのか」
そう尋ねた刹那――並んで歩く僕らのことを、一台の車が追い越していく。
赤く点滅する車のランプを目で追いかける僕の隣で、
「相瀬梨乃が描いたあのネームを漫画にしてほしい」
相瀬はポツリと、そんな願いを口にした。
「あなたの手で完成させたあの作品を読んでみたいの」
お願いできないかしら、と、上目遣いで僕を見る相瀬。その妙にあざとい姿には、思わず眉を顰めてしまったけど、彼女が無意識であることは十分に理解していた。
「どうして自分のじゃなく、梨乃の作品を?」
「それは間宮くんが一番理解していると思うけれど」
そう言って相瀬が浮かべた笑みには、隠しきれない妖艶さがあった。
僕が一番理解している。
つまりそれは、作品に対しての愛なのだろうと思う。
相瀬は梨乃の作品を好きだと言った。
それは僕も同じだった。
きっと僕らは、梨乃の創り上げたハッピーエンドに恋してしまっているのだ。
「ワタシもワタシなりに作品を書いているけれど、相瀬梨乃の創り上げた作品には敵わない。だからどうか」
夜空のように透き通った相瀬の瞳は、まっすぐに僕を捉えている。
こうして相瀬が、自ら何かを求めるのは珍しい。そう思った半面、これは僕の本心を代弁してのお願いなんじゃないかとも思った。
「わかったよ。僕もあの作品を漫画にしたいと思ってたし」
「ありがとう」
そうこうしているうちに、気づけば梨乃が暮らすアパートの前に。
「ネーム、今持ってくるから」
本人のいないところで、勝手に決めてしまってよかったのだろうか。
そんな僕の意図を察したのか、玄関の前で立ち止まった相瀬は、
「相瀬梨乃にはワタシから伝えておくわ」
「ああ、助かる」
その一言を残し、部屋の中へと入っていった。
本人不在の突発的な決定ではあるけど、こうして僕は、約五年ぶりに梨乃との漫画を描くことになった。
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