第16話

 梨乃と喧嘩をした翌日。

 カーテンの閉まった薄暗い部屋で漫画を読んでいたところ、不意に僕のスマホが鳴った。チラリと横目で画面を見れば、そこには相瀬梨乃の名前が。でも、メッセージの文面からするに、送り主は相瀬の方だろう。


 僕は横になっていた身体を起こし、改めてメッセージを見る。


『明日、二人で出かけたいと思うのだけどダメかしら』


 随分と唐突な話だと思った。

 このメッセージの意図。少し考えればそれはわかった。というのも、梨乃と相瀬、二つの人格が切り替わるトリガーを、昨日の一件で僕は知ってしまったのだ。


 この仮説が事実だとするなら、相瀬の目的は仲直り。明日、梨乃の人格になるのをいいことに、僕と梨乃を二人きりにしようという算段だろう。


『どういうつもりだ』


『どうもこうも、二人に仲直りしてほしいのよ』


『どうして君は、そんなにも世話を焼く』


『そんなの決まってるじゃない』


 前の一文からほんの数秒。

 ポコッという音と共に送られてきたのは、


『あなたたち二人の創る漫画が読みたいからよ』


「漫画が読みたい?」


 予想していた返事とはまるで違う、私的な、建前のような一文だった。どうせ梨乃の為に、お節介を焼いているだけなのかと思っていたから、これにはつい独り言が漏れた。


『とにかく明日、どこかへ出かけましょう』


『どうせ明日の梨乃は、君じゃないんだろ』


 僕はあえて核心を突くような返事を送る。

 既読の表示はあったものの、それ以上の返信はなかった。


「はぁ……」


 トーク画面をつけたままスマホを放り投げ、僕はため息と共に天井を仰ぐ。


 梨乃と二人でどこかに出かける。

 果たしてこの行動に、何の意味があるというのか。僕たちの関係は既に終わっている。喧嘩したからって仲直りをする義理もない。


 頭ではそう思っているのに、どうしてか僕の心は、そんな当然の思考を肯定してはいなかった。昨日読んだ梨乃のネームが、どうしても心に根付いて離れようとしないのだ。


 恋人としての関係が終わっていても、クリエイターとしての僕らを終わらせちゃいけないと思った。事実として僕は、梨乃の創る物語が大好きだから。


 きっとこのまま何もしなかったら、僕はいつか後悔するのだろう。

 全くもって気乗りしないのは間違いない。

 でも、相瀬の誘いに乗りたいと思っているのも確か。


「まったく……どうしてこうもお節介なんだ」


 相瀬が何を考え、何を目的として動いているのか。怖いくらいに献身的な彼女のことを、僕は未だに理解できないままだった。


 ◇


 僕は今、東京都墨田区はソラマチにいる。

 ソラマチと言えば、やはりイメージするのは東京スカイツリーだろう。


 雲一つない快晴。そんな広大な青の真ん中に、一直線に伸びている白の塔。てっぺんを見ようと空を仰げば、危うく背中から落ちそうになる。


「凄いな」


 思わずそんな声が漏れた。

 平日ということもあり、幸い周りに人は少ない。


 僕がどれだけ仰け反っていようと、指と指の間にスカイツリーを挟むという奇行をしようと、白い目で見られることはなかった。


「何やってるの……」


「うっ……」


 しかしながら、不意を突かれると分が悪いようで。いつの間にか到着していた梨乃は、スカイツリーに夢中になっていた僕を見るなり、冷たい声音でそう言った。


「おまたせ」


「あ、ああ」


 僕は高ぶっていた気持ちを改め、彼女を見る。

 冬の訪れを思わせるブラウン色のセーターに、薄いだいだい色のジーンズ。何とも梨乃らしい服装だけど、相瀬が染めた黒髪に少なくない違和感を覚えた。


「ごめんね、急に」


「別にいいけど」


 加えてそのピアス。

 それは去年の誕生日に、僕がプレゼントとして渡したものだ。もう僕らは別れているというのに、未練がましくこれを付けてくるところは梨乃らしい。


「どうしよっか。どこからまわる?」


「どこでもいいよ。君の行きたいところで」


「そ、そう。なら適当にぶらつこうか」


 こうして僕らの謎デートが始まった。

 そもそもなぜ、ソラマチを選んだのか。それは単純明快。梨乃が行きたいと言ったからだ。特に希望の無かった僕は、一つ返事で梨乃の提案を飲んだ。


「光、ちょっと痩せたんじゃない?」


「そうかな」


「うん、そうだよ。ちゃんとご飯食べてる?」


「まあ、一応」


「そっか」


 施設内をぶらつきながら、僕らは幼馴染とは思えない不器用な会話を交わす。


 一昨日、僕らは喧嘩をした。だから今日の梨乃は最初から機嫌が悪いという、最悪を想定していたけど、どうやらそれは大丈夫らしい。


「これ、よくない?」


「まあ、いいんじゃないの」


 とはいえ、こんな素っ気ない対応をしていては、いつかは機嫌を損ねるのだろう。


 それでも僕は、絶対に気を遣わないと決めている。

 今の僕らは付き合っていないんだ。当時のように服も褒めないし、態度を繕って梨乃の機嫌を取ろうともしない。


 ◇


「少し休憩しようか」


「ああ」


 かれこれ一時間ほど歩いた。

 僕らはたまたま見つけたス〇バに入った。


 今のところ梨乃が、機嫌を悪くする様子はない。ここまでの僕は、かなり素っ気ない対応をしていたはずだけど、それでも梨乃は文句の一つも言わなかった。


 以前の彼女なら、確実に機嫌を損ねていたはずだ。

 そうなれば一時間は口をきいてはもらえず、楽しいはずのデートは地獄に。ようやく口を開いてくれたかと思えば、今度は服を褒めなかったことに対する文句とかを、永遠と語られる。


 これは何度か経験した実話だ。

 梨乃を振った原因の一つでもある。


「光は何飲む?」


 でも、今日の梨乃にその片鱗はない。

 別れたから自重しているのだろうか。


「じゃあ、コーヒーで」


「ホットでいい?」


「ああ」


「そしたら私買って来るから、先に座ってて」


「わかった」


 僕は言われた通り、注文を任せて席に着いた。

 すぐに運ばれてきた二つのホットコーヒーを見て、僕は尋ねる。


「コーヒー飲むっけ」


「え、あ、うん。最近好きなんだよね、コーヒー」


「ほーん」


 毎回ス〇バでは限定を頼んでいたはずだから、少し意外だなと思った。


「え、そのまま飲むの」


「う、うん。ブラックが好きで」


「へぇ……」


 加えて何も入れずに飲むとか……一体どういう風の吹き回しだろう。


 梨乃はかなりの甘党だ。

 でも、今は平然とブラックコーヒーを飲んでいる。


 以前にも相瀬がビールを美味しいと言っていたけど、やはり味覚自体が変わったのだろうか。

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