第15話
またやってしまった。
その場限りの感情に負けて、また私は光に当たってしまった。去り際に見せた光の表情。それは私を振った時の、全てを諦めたような顔に似ていた。
光に振られたあの日、私は何も考えられなくなった。
まるで世界から太陽がなくなったかのように、私が見る世界は真っ暗になって――そして、遂には交通事故に遭った。
あの時の痛み、気を失う直前までの事はハッキリと覚えている。でも次に目を覚ませばそこは、病室ではなく家のベッド。しかも一月以上の時間が経過していた。
当然私は困惑した。
でも、目が覚めてすぐに光が会いに来てくれたから、全てが夢だったとわかった。私が振られたことも、交通事故に遭ったのも全て。全てが悪い夢だったんだと。
「君じゃない……」
私を一目見るなり、光はそう言った。
その瞬間、安堵していた私の心は再び真っ暗な世界に落ちて、どうしようもない虚無感だけを残した。光が向けてきた冷ややかな視線が、脳裏にこびりついて消えなかった。
きっとこれも悪い夢だ。
現実から逃げるようにして、私は眠りについた。
するとどういう訳か、次に目を覚ましたのは二日後。丸一日以上眠っていたのかなと、初めはその事実に違和感を覚えた程度だった。
『初めまして。ワタシはもう一人のあなた。別人格の相瀬梨乃です』
更に二日後。
身に覚えのない文章が、テーブルの上に置かれていた。
初めは誰かの悪戯かと思った。
でも、よくよく考えてみれば、鍵がかかった私の家に知らない文章を残せること自体、不可解な現象であることは確かだった。
何かがおかしい……そう思った私は、同じ紙の空白に文章を追加した。
『もう一人の私ってどういうこと?』
その更に二日後。
私の抱いていた違和感は、驚くべき確信に変わった。
『あなたは交通事故に遭って記憶喪失になったのよ』
こうして私は、もう一人の”ワタシ”に出会った。
自分の中に別な人格が存在する。
それを自覚して初めて、これまでの奇妙な出来事が全て現実であることを自覚した。光が私の家を訪れたのも、きっともう一人の”ワタシ”に会うためだったのだろう。
一日置きに現れるもう一人の”ワタシ”。人格が切り替わるトリガーが睡眠であることは、それまでを振り返れば簡単にわかった。
わからないのは、もう一人の”ワタシ”がどんな人物であるのか。それを確かめる為に、私は寝る前にたくさんのことを文章に残し、コミュニケーションを図った。
すると、私の意図を察したのか、もう一人の”ワタシ”もその日にあった出来事や、私の想いに対する正直な気持ちを文章に起こしてくれた。
これが私と”ワタシ”の関係の始まり。
もう一人の”ワタシ”は、私とはまるで正反対の人だった。文章から滲み出る丁寧さ、そこからは女性としてのお淑やかさのようなものも感じる。
彼女は、光に言われてネームを描いたと言っていた。
それを光が漫画にした。
今思えばあの時、光が持ってきたあの原稿は、”ワタシ”と光が二人で創った漫画だったんだ。
あの日、私は寂しさから逃れるようにその原稿を読んだ。
その作品はシナリオもさながら、光の絵も素晴らしいものだと言えた。
主人公が金メダルを取ったラストシーン、私は悔しくも涙を溢した。
それはシナリオで泣かされたというのもあるけど、それ以上に光の絵が心の奥深くに刺さったのだ。
このたった一枚の原稿に光がどれだけの時間を使い、どれだけの熱を注いだのか。それを考えると、大切な人を取られてしまったような気がして、涙が止まらなかった。
ある日、もう一人の”ワタシ”は言った。
もっと自分に正直になっていいんだよって。好きなら好きだと、嫌なら嫌だと言っていいんだよって。私はその文章を読んだ時、ふと昔のことを思い出した。
幼い頃の私は、漫画が大好きだった。
読むのも創るのも大好きで、将来は光と二人で漫画家になることが私の夢だった。
でも、高校に入学するのと同時に、私は大好きな漫画と距離を置いた。人前で創作の話をすることも無くなって、光と二人でいる時間も著しく減った。
漫画家になりたい。その夢は本当だった。
でもそれ以上にあの時の私は、新しい自分を見つけたかった。新しい自分を見つけて、相瀬梨乃という人間にもっと自信を持ちたかった。
だから私は今までの芋臭い私を捨て、高校デビューをした。
全くの無知から化粧を覚えた。黒縁のメガネをコンタクトにした。通う美容室を近所の安い美容室から、若者に人気の美容室に変えた。服のほとんどを流行に合わせ新調した。
こうして私は新たな相瀬梨乃となった。そして当時女子から圧倒的な人気を誇っていた傑に告白し、見事に人生で初めての彼氏というものを得たのだ。
でも――三カ月で傑に振られた。
今まで必死になって積み上げてきた努力が、たった三カ月で否定されたのだ。悔しかった。それと同時に、掴みかけていた自信の在りかを見失ってしまった。
それからだと思う。
私が俗に言う『メンヘラ』という生き物になったのは。
私には親の愛情というものがわからない。だからこそ自分に自信なんて無いし。だからこそすぐ傷つくし。すぐに悲しくなったりもする。
それでも光だけは、いつも私の味方でいてくれた。あの頃から変わることのないその優しさに惹かれたから、だから私は光を好きになったんだと思う。
高校三年の夏ごろから、私と光は恋人になった。
幼馴染から一変、もっと近い関係になった私たち。それでも弱い私だけは、どこまでいっても変わらなかった。すぐ感情的になってしまう。不安になってしまう。些細な衝突が繰り返されること二年。いよいよ私は、光にすらも振られてしまった。
恋人である相瀬梨乃が否定された。
もう自分に残っているのは漫画しかないのだと、そう思った。
だからこそ私は、光にネームを見せられなかった。漫画すらも否定されてしまえば、それこそ私という人間の価値がなくなってしまうような気がしたから。
「何やってるんだろう、私……」
光が去った後の部屋。
怖いくらいの静寂がしつこく全身にまとわりつく最中、ポツリと独り言を溢した私は、テーブルの上にあったネームを手に取った。
それは私が描いたネームだった。
しかも、置いてあるのは一つじゃない。今まで描いた作品が全て、真っ白なテーブルの上に並べられている。
「やっぱり、そうだよね……」
光が私の家に来ていたことを考えると、大体のことが腑に落ちた。
光がもう一人の”ワタシ”に誘われた理由。
きっと”ワタシ”は、私に気を遣って光を呼んだんだ。
ネームを見せるのが怖い。
以前に私はそんな文章をノートに綴った。それを読んだもう一人の”ワタシ”が、臆病な私に代わってネームを光に届けてくれた。
全ては、私の為に。
『ごめん。せっかくあなたが気を遣ってくれたのに、また光と喧嘩しちゃった』
私はそんな文章をノートに残した。
初めはもう一人の”ワタシ”のことを敵だと思っていた。私に成り代わったのをいいことに、光に手を出そうとしている厄介者だって。
でも、そうじゃなかった。
彼女は相瀬梨乃じゃない。間宮光の元カノでもない。言ってしまえば赤の他人。それなのに私たちのことを、一番に考えてくれている。私の力になってくれる。
彼女の目的はわからないけれど、彼女がとても優しくて、頼りがいのある人なのは確かだった。
「失望……されちゃうよね」
きっと明日、もう一人の”ワタシ”が相瀬梨乃になる。
次に目を覚ました時、このノートには一体なんて書かれているのだろう。
流石に呆れられちゃうかもしれない。
しっかりしなさいって、喝を入れられるのかもしれない。
「決めた。光に謝ろ」
ならせめて、私は私に出来ることをしよう。
光に今日の事を謝って、ちゃんと仲直りをしよう。これ以上”ワタシ”に、相瀬梨乃であることを恥じさせないためにも。
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