第10話
原稿が完成したのは、それから三週間後のことだった。
久しぶりに漫画を描いた割には、中々に良い出来ではある。が、どうしてもラスト1ページだけ納得がいかなかった。
「どうですかね」
「うーん。普通に上手いと思うけどなぁ」
有識者の意見が欲しい。
そう思った僕は、バイト終わりに夜谷さんを捕まえた。
「間宮くん的にはどの辺が納得いってないの?」
「何というか、主人公の表情にこれじゃない感を覚えてしまって」
「んー」
今、夜谷さんに見てもらっているのは、最後主人公が笑顔で金メダルを掲げるシーン。ネーム通りに書いたつもりではあるけど、この1枚だけがどうしても納得がいかない。
「些細なことでもいいんです。何かアドバイスとかないですか」
「アドバイスかぁ……難しいなぁ……」
迷惑を承知で、僕は食い気味に尋ねた。
「そこまで言うなら、自分の担当に聞いてみる?」
「えっ」
「あの人暇だし、頼めば読んでくれると思うけど」
「ぜひお願いします!」
僕は思考する間もなくそう返事をした。
夜谷さんは引きつった笑顔を浮かべると、机の上にあったスマホを取る。
「じゃあ自分の方から聞いてみるよ」
パカパカと慣れた手つきで文字を打っているところを、僕は静かに見守る。ポコッという音と共にメッセージを送った夜谷さんは、不意に謎の笑みを浮かべた。
「間宮くん、漫画好きなんだね」
「えっ……」
「最近色々と頑張ってたみたいだし。ちょっとした違和感をそのままにしない姿勢とか見せられたら、そりゃ相当漫画が好きなんだろうなーって思うよ」
そう言われてみると、ここ最近は漫画の事しか頭になかった。
大学の授業中も、今日のバイト中だってそう。いかにこの作品を良い形で漫画とするか。相瀬の創った物語をどう表現するか。それしか考えていなかった。
「こりゃ自分も負けてられないなぁ」
しみじみとそう呟く夜谷さん。
ここで机に広げられた製作途中の原稿が目に入る。
「ちなみに夜谷さん、締め切りは?」
「明日」
「明日⁉」
その割にはペン入れすら終わってないようだけど……。
「今日のシフト休んだ方がよかったんじゃないですか?」
「大丈夫。どうせ何とかなるから」
それを簡単に言えるあたり、さすがはプロ漫画家だ。毎週毎週こんなにも追い込まれて、それでも漫画を描き続ける姿勢には尊敬しかない。
「ま、最悪は土下座だよね」
「来週のジャンポ楽しみにしてるんで頑張って描いてください……」
◇
こうして、編集部への持ち込みが決まった。
持ち込みとはいっても、今回の目的はラスト1ページの違和感の解明。有名出版社の編集者に見てもらえれば、きっといいアドバイスを貰えるはず。
そんな期待を胸にやって来たのは、人生二度目となるこの場所。初めて持ち込みをしたあの日から、五年ほどの歳月を経ての再訪である。
「あれ! 闇ノ先生の知り合いって君やったんか!」
「こ、こんにちは江原さん……」
待ち合わせの十三時。
緊張と共に案内された個室で待っていると、やって来たのは季節外れの半袖にステテコパンツのマッチョ――つい先日再会したばかりの江原さんだった。
「こんにちわぁ。いやぁ、びっくりしたわ」
「ぼ、僕もびっくりです。夜谷さんの担当さんだったんですね」
「そうなんよぉ。あの先生ホンマ厄介でなぁ。この間だって原稿間に合わないって編集部に土下座しに来よったわ。そんな暇あるなら原稿描けっちゅう話やねん」
「へ、へぇ……」
どうやら夜谷さんは最終手段を使ったらしい。
それでも週刊誌には問題なく漫画が掲載されていたから、おそらくは編集部の手によって無理やり原稿を書かされたのだろう。
事実締め切り翌日の夜谷さんは、体調不良でバイトを休んだ。
「ほんで今日はどないしたん? 漫画を見てもらいたいちゅう話やけど」
「ああ、はい。この作品なんですけど」
僕は紙に印刷した原稿を茶封筒から取り出した。
「ラスト一枚がどうしても納得いかなくて」
「ふんふん、ほんなら早速みしてもらおか」
「お願いします」
そこから江原さんは、凄まじいスピードで原稿を捲っていった。
一枚当たり五秒、いや三秒ほどかもしれない。本当に目を通しているのだろうかという疑いさえ持ってしまうほど、五年前と同様に読む速度は爆速だった。
「読ませてもらったわ」
二分と掛からず三十ページの原稿を読み切った江原さんの感想は――
「中々におもろいやん! これ間宮くんが独りで描いたん?」
「いえ、僕が描いたのは絵だけです。シナリオは別な人間が書きました」
「ほえぇー。前一緒にやってた子も結構な腕やったけど、今の子もいい感じやんか。間宮くんの絵のレベルも上がっとるし、こりゃデビューも近いでホンマ」
「ありがとうございます」
この話し方的に、どうやら江原さんは、梨乃じゃない別の人間がシナリオを担当したと思っているらしい。まあ、人格が変わってるからそうなんだけど。それくらい、梨乃と相瀬の書くシナリオには、決定的な違いがあるということだ。
「ほんでなんやったっけ。ラスト1ページがどうのって」
「はい。江原さんの率直な意見を頂きたいです」
「んー、そうやなぁ」
すると江原さんは、両手に持った原稿を少し遠めから眺めた。
パチ、パチ、パチと、三度の瞬きをしたその直後、
「これはアレやな。主人公じゃあらへんわ」
「主人公じゃない?」
予想の斜め上を行くそんな感想を口にした。
主人公じゃないとは、一体どういう意味だろう。
「この絵は主人公やなく、主人公を演じている別なキャラになってしまっとるわ」
「別なキャラ……」
「このラストシーンの主人公、間宮くん的にはどんな心境にあると思う?」
「嬉しい……ですかね。金メダルを取ったわけですから」
「せやな。でも、わいはそれだけやないと思うねん」
そう言うと江原さんは、持参していたコーラを豪快に呷った。
「きっとこの子は見たかったんちゃうかな。アイリが金メダルを取る姿を」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に電撃が走った。今まで見通しが悪かったはずの視界に、一筋の光が浮かんだような。これはまさに、僕がずっと求めていた気づきだ。
「本当は泣きたかったんですかね、この子は」
「どうやろなぁ」
自分に生きる希望を与えてくれた、アイリとの約束を果たせた喜び。でもその裏には、大切な人を失ってしまったという、どうしようもない悲しみがあるような気がした。
「まあ少なくとも、アイリと一緒に喜びたかったんちゃうかなぁ」
そう言ってまた、江原さんはコーラを呷る。強炭酸を驚異的なスピードで喉に流し込む姿に困惑しつつ、僕はもう一度ラスト1ページと向き合った。
江原さんの言う通り、僕が描いた主人公は笑っていた。それも喜びが百パーセントの笑顔で。そこに悲しみは1ミリもない。まるで脚本に忠実に従う演者のようにも思えた。
フィクションであるこの物語の中で、この主人公は確かに生きている。
つまりフィクションであっても、彼の気持ちは本物じゃなきゃいけない。そこから生み出される表情は……そう考えると、おのずと描くべき物の輪郭が鮮明となった。
「ありがとうございます。おかげで違和感の正体がわかった気がします」
「ほんならよかったわぁ」
穏やかに笑った江原さんは、再び原稿を見た。
「そういや間宮くん、デジタルにしたんやね」
「ああ、はい。今どきアナログは古いかなと」
そう言えば、前回持ち込んだのはミリペンで描いた漫画だった。
祖父の影響で小さい時からずっとアナログだったけど、高校時代にバイトした資金でタブレットを買った以降、僕はミリペンを一度も握っていない。
「まあ、描きやすい方で描くのが一番やからなぁ」
「そうですよね」
時代の流れは恐ろしく速い。
そんな気づきを最後に、五年ぶりの持ち込みは終了となった。
「またいつでも来てやぁ」
帰り際、江原さんは笑顔でそう言ってくれた。
持ち込み原稿に油のシミを残すやばい人という認識しかなかったけど、忙しい中にこうして時間を割いてくれるあたり、本当は凄く優しい人なのだろうと思う。
「今度はファ〇チキ差し入れよう」
そんな独り言を呟きながら、僕は家までの帰路についた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます