第5話

 本屋を最後に、僕たちはショッピングモールを後にした。

 今日は色々な場所を回ったはずだけど、今の僕たちの手元には何もない。それだけ彼女に梨乃の好きだった物が刺さらなかった、ということだろう。


 そこから僕たちは同じ電車に乗り、同じ最寄り駅を目指す。夕方ということもあって、東京行きの車内はかなり空いていた。


 電車に乗るなり、僕は迷わず端っこの席に腰を下ろした。

 当然彼女が隣に座るのだろうなと思っていた。でも、実際に彼女が腰を下ろしたのは、向かいの列の僕とは対極に位置する席だった。


 さては僕に気を遣ったのだろうか。

 連れなのに離れて座っているこの状況が可笑しく思えたのと同時に、これは僕と彼女の心の距離を表しているようにも思えた。


 一緒にいるはずなのにその距離は遠くて、間にはこれほど大きな空白がある。梨乃と恋人関係にあったこの二年は、まさにこんな感じだったように思う。


 ◇


「今日はありがとう」


 改札を出るなり、小さく微笑んだ彼女は言った。


「間宮くんのおかげで、相瀬梨乃の事が少しわかった気がするわ」


「ならよかったよ」


 僕としてはあまり手応えのない一日だったけど。

 彼女がそう言うのなら、まあ良しとしよう。


「何かお礼がしたいのだけど」


「いいよ別に、お礼とか」


 すると彼女は、たまたま近くに貼ってあった居酒屋のポスターを見た。


「そういえば間宮くん、お酒好きよね?」


「まあ好きだけど……なんで知ってるの」


「家に色々な種類のお酒が置いてあったから」


 そんなとこまで見られていたのか……。


「どうかしら。今から食事でも」


「んん……」


 確かに夕食時ではあるけど。

 夕食まで彼女と一緒というのはどうなのだろう。


「今日はワタシが奢るから、好きなだけ飲んでもらっていいのよ」


「奢るって……それは君のお金じゃないだろ」


「今はワタシが相瀬梨乃。だからこれはワタシのお金よ」


 まあ……確かにそれもそうか。


「このお店、日本酒が豊富みたいね」


「確かに……」


「料理も美味しそうだし、お酒に合うんじゃないかしら」


「随分と押してくるけど、君はこの店のキャッチなのか……?」


 彼女が梨乃なら即断っているところだけど、今はまるっきり別人だ。加えて奢ってくれると言うのだから、貧乏大学生にとっては、これ以上にない誘いなのだろう。


 でもだ。


「割り勘ならいく」


 僕は人に奢られることが苦手だ。傑を除いて。


「君に奢られるつもりはないよ」


「そう」


 僕が言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。

 でもすぐに微笑んで見せると、


「なら、割り勘にしましょう」


 すんなり僕の条件を飲んだ。


 ◇


 人格が違うとはいえ、梨乃と外食するのは久しぶりだった。

 僕たちが向かったのは、駅構内にある居酒屋チェーン。前々から存在自体は知っていたものの、来るのは初めてである。


「とりあえず生で」


「ならワタシも」


 最初の注文でいつも通りの定型文を呟いた僕。それに続く彼女の意外すぎる便乗に、思わず「えっ」という声を漏らしてしまった。


「何かしら」


「いや、君もお酒飲むんだと思って」


「ダメ?」


「ダメとかじゃないけど。なんか意外だなと」


 元の梨乃は好んでお酒を飲むタイプじゃなかった。

 だから彼女もそうなのかと思っていたけど。


「間宮くんが飲むのに付き合わないのもわるいでしょ?」


 どうやら僕に気を遣ってのことらしい。


「それにワタシも酔いというものを味わってみたいなと思って」


「あ、そう」


 それは随分と変態的な理由だなと思った。


「言っとくけど、潰れても面倒見ないからな」


「ええ、気をつけるわ」


 それから間もなくして、一杯目のビールとお通しのポテサラが届いた。お通しでポテサラはかなり点数が高いな、なんてことを思いながら、僕は冷えたグラスを手に取る。


「じゃあ、乾杯」


「ええ」


 カツンというグラスのいい音が鳴った。

 別人格とはいえ、元カノと乾杯している現状に少しの違和感を覚えながら、僕は乾いた喉にビールを流し込んだ。


 ごく、ごく、ごく……と、喉を鳴らせば鳴らすほど激しさを増す炭酸の刺激。喉が限界を迎えたその直後、「はぁぁ」という長い息を吐けば、これ以上にないほどの幸福が脳に直撃した。


 美味すぎる……最初に思ったのがこれだった。


「ビールってこんな味なのね」


「軽く飲んだだけだと苦いだろ」


「ええ。でも嫌な苦みじゃないわ」


 そう言って再度ジョッキに口をつける彼女。

 初ビールの割にはそこそこの飲みっぷりだ。


「なんか、ビール似合わないな、君」


「そう? ワタシは結構好きだけど」


「好き嫌いの話じゃなくて、構図の話だよ。君はもっとこう、上品なお酒の方が似合うと思う。ワインとか、カクテルとかさ」


 これは僕の完全なる偏見だけど。黒髪になりお淑やかさを得た彼女が手にするビールは、まるで違う飲み物であるかのように映った。


「それは相瀬梨乃が、そういったお酒を好んでいたということかしら」


「いや。そもそも梨乃は、自分からお酒を飲むタイプじゃなかった。飲むとしてもカルピスサワーとかファジーネーブルぐらいで、お酒らしいお酒は一切飲まなかったよ」


 それもあって、梨乃と二人で居酒屋に行ったことはほとんどない。外食と言えばファミレスか、オシャレな喫茶店か。なので僕からしたら、今のこの状況がかなり新鮮である。


「同じ味覚のはずなのに、不思議なもんだな」


「そうね。味覚自体は同じでも、今のワタシがビールを美味しいと感じる性格なのかも」


 つまり味の好みは、『味覚にではなく性格に依存する』ということだろうか。僕は文系なのでよく分からないけど、文章だけ見ると凄い発見をしたような気がしないでもない。


「それで間宮くん」


 そんなくだらない妄想に耽っていたところ。

 彼女は妙に真剣な面持ちで僕を見た。


「あなたに一つ聞いておきたいことがあるのだけど」


「聞いておきたいこと?」


「どうして間宮くんは、ワタシのことを名前で呼ばないの?」


「……っ」


 それは少しばかり回答に困る問いだった。


「一応ワタシも相瀬梨乃なのだけど」


「それはそう、だけど……」


 確かに僕は、彼女を『梨乃』と呼んだことは一度としてない。

 その理由は一つ。

 例え外見が同じだとしても、今の彼女は梨乃じゃないから。言うならば彼女は、梨乃とは全くの別人である。それが僕の心のどこかにあって、彼女を『梨乃』と呼ぶことを真っ向から否定しているのだ。


「呼べないんだよ。だって君は梨乃じゃないから」


「それじゃ間宮くんは、これからもずっとワタシを名前で呼んではくれないの?」


 それはそれで不便な気もする。

 いつまでも『君』とか『なあ』とかで済ませるのも感じ悪いし……


「……相瀬。相瀬ならどうだ」


「なるほど。苗字で呼ぶことで元のワタシとの差別化を図るのね」


「ああ。それなら僕も気にせず名前を呼べる」


 僕は生まれてこの方、ずっと梨乃を下の名前で呼んでいた。

 同じ人間を指しているとはいえ、梨乃を苗字で呼ぶなんてのは、別人を呼んでいるようなもの。今の僕たちにはピッタリの手段だろう。


「なら間宮くん。これからワタシを呼ぶ時は『相瀬』で」


「まあ、仕方ない」


 それから僕たちは、主に漫画の話をしながらお酒を嗜んだ。

 僕が好きな作品。梨乃が好きだった作品。二人で漫画を描いていた昔の事から、梨乃と付き合っていた時のことまで。酔った気分そのままに、ついつい話し込んでしまった。


「梨乃はワガママだ。僕の気持ちをちっとも分かってくれない」


「そう」


 巡り巡った末、やがて話題は梨乃の愚痴に。


「僕は色んなことを我慢していたのに……自分のことばかり優先する」


「大変だったのね」


「大変なんてものじゃない。一度機嫌を損ねたら二時間はそのままだ」


 ……って、僕は一体何を言ってるんだろう。

 彼女は、相瀬は梨乃じゃない。にもかかわらず僕の口からは、今が好機と言わんばかりに溜まっていた不満が吐き出された。


「僕との夢だって、もう忘れてるんだよあいつは」


「そんなことないと思うけれど」


「いや、絶対に忘れてるね」


 もはや自制心なんてものはなかった。

 理性が狂ったその衝動で、僕はありとあらゆる愚痴を吐き出し続けた。


 ◇


 こうして今日も、僕はお酒に呑まれた。

 頭が割れるように痛い。視界が安定しないせいで気分が悪い。しっぽりで済ませるはずだったのに、またしても僕は店のトイレで嘔吐してしまった。


 ひとまず帰路にはついた……けど、乾杯以降の記憶がほとんどない。

 あるとすれば、好き放題に愚痴をぶちまけた記憶くらい。おかげで心も身体もグロッキーな状態である。


「ここから階段だから気をつけて」


 僕は今、情けないことに相瀬の肩を借りている。視界はうねりにうねり、彼女の支えが無ければ、まともに立つことすらままならないだろう。


「どうして怒らない……」


 こんな泥酔男、普通なら店に置き去りにするだろうに。あれだけの醜態を晒した僕に対して、相瀬は文句どころか嫌味の一つも言わなかった。


「僕はろくでもない人間だ。酔った勢いでキツいことをたくさん言った。なのに……どうして君は怒らない。どうして平気な顔をしていられるんだ」


 僕は衝動任せに尋ねた。

 相瀬がくれた優しさの理由がわからなかったから。


「あなたが言っていたのは、相瀬梨乃の愚痴であってワタシの愚痴じゃないから。そもそも、ワタシが相瀬梨乃と違う存在だと言ったのはあなたでしょ?」


「それはそうだけど……」


 少しの間を跨いで、相瀬は続ける。


「それにあなたが話してくれたのは、相瀬梨乃に抱いているあなたの感情そのもの。むしろワタシは、間宮くんの本音が知れてよかったと思ってる」


 僕はお酒に頼り言いたいことを言った。

 我ながら最低な行為だったと思う。


 本来なら突き放されてもおかしくないのに、それでも彼女はこうして肩を貸してくれている。僕の正直な思いを受け止めてくれている。


「君は、変だ……」


 そんな彼女の優しさに、甘えてしまっている自分が情けなくて仕方がない。そう思ったのと同時に、ありのままの自分を受け入れてくれたというこの事実が、僕にとっては新鮮で、心地のいいものに感じられた。


「そういえば……会計ってどうしたっけ」


「それならワタシが払っておいたから、気にしなくていいわ」


 やっぱり、相瀬が立て替えてくれていたようだ。

 本当に僕は……酔うととことんダメだな。


「わるい、今返すから」


 僕は相瀬から身を引いて、近くの電信柱に寄りかかる。


「いいのよ。元々は奢るつもりだったのだから」


「これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかない」


 無事にズボンの左ポケットにあった財布を取り出し、いくらだったかを聞こうとした僕。それよりも先に、「それじゃこうしましょう」と、相瀬は人差し指を立てた。


「今日のお代はワタシが払う。その代わり間宮くんには、これからもワタシ探しの手伝いをしてほしい」


 そして小さく首を傾けては「どうかしら」と、微笑み混じりに僕を見た。

 まるで僕を諭すようなその姿は、街灯のせいもあり妙に艶めかしい。


「君は卑怯だ……こんなの僕に断る余地がないじゃないか」


「ふふっ」


 これだけ迷惑をかけた後で、彼女のお願いにノーを出せるはずがない。そう思ったのと同時に、これからも彼女の傍にいれることが、ほんの少しだけ喜ばしく思えた。


「はぁ……わかったわかった。僕に出来る限りのことはする」


「ありがとう」


 こうして止まっていたはずの時間は、再び動き出した。

 それは元カノの梨乃としてではなく、記憶を亡くした幼馴染――相瀬として。

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