第3話
あれから三日が過ぎた。
でも、依然として気持ちの整理は出来ていない。あの日以来、梨乃と顔を合わせることはなく、僕は久しぶりに梨乃がいない日常を過ごすことになった。
僕は今、大学は別館、古びた建物の休憩スペースにいる。今さっき本日最後の倫理学の授業が終わって、家には帰らずこの場所へとやって来た。
というのも、ここは人がいないかつ空調が効いていて、家にいるよりも段違いに落ち着くのだ。なかなか終わらない夏のせいで暑苦しい。でも、クーラーはつけたくない。そんな日でも、ストレスなく作業ができる穴場である。
「絵、上手いのね」
このスポットを知っているのは僕だけ……のはずが。
不意に背中から声を掛けられた。
振り向けばそこには、三日ぶりの見知った顔があった。
「間宮くんは絵を描くのが好きなの?」
続けて話しかけられるが、僕は何も答えなかった。
話すつもりがない……というのもあるけど、何より僕は、絵を描いている時に他の何かに干渉されるのが嫌いなのだ。
この性格のせいで、梨乃とは頻繁に衝突した。
もちろん梨乃は、僕のこの性格を認知していた。それでも「なんで無視するの」とか、「私がいるのに絵ばっかり」と言って、機嫌を損ねることが常だった。
今回もそうなるのだろうと身構えていたけど……どういうわけか、今の彼女は違った。僕の気持ちを察してなのか、何一つとして文句を口にすることはなかった。静かに向かい側の椅子に腰を下ろしては、僕の手元をじっと眺めている。
「味噌汁、美味かった」
観念した……というのもおかしな表現な気がするけど。しばらくの静寂を跨いだ末に、僕は自ら彼女に干渉してみた。
「そう。ならよかった」
すると彼女は、必要最低限の返事だけを口にする。
いつもなら気が散って絵を描くのをやめるところだけど、今日に限っては平気だった。僕は変わらず手を動かしながら、気になっていた問いを彼女に投げる。
「どうして僕なんだ」
「どうして?」
「君は言っただろ。梨乃の事を教えてほしいって」
五秒。いや、十秒ほど待っただろうか。
カリカリというペンの音を上書きするように、彼女は言った。
「どうやら相瀬梨乃は、あなたと幼馴染関係にあるらしいじゃない」
「まあ、腐れ縁ではあるな」
「それに彼女は、あなたを心から愛していた」
続けて出たのは胸の辺りが痒くなりそうな一言。
ここで僕は初めて絵を描くのを止めて彼女を見る。
「だから僕を頼ろうとしたと」
「ええ。それがワタシを知る一番の近道だと思うから」
ここまで聞いて、彼女の目的は何となくわかった。
とはいえ、僕にだって都合というものがある。例え人格が変わったからって、別れて間もない相手と必要以上に関わるのはごめんだ。
「僕以外に頼る宛は……まあ無いか」
「ええ。母親に連絡してみたけど、返信の一つすらなかったわ」
悲しいことに、僕と梨乃には大学の友人というものがいない。
となると頼るべきは家族だが、母である愛乃さんは、娘が交通事故に遭ったという事実を電話一本で片付けようとした畜生だ。記憶喪失のことも、あの人は知らないのだろう。
「今のワタシが頼れるのは間宮くんだけなのよ」
元カノとはいえ、これはいくら何でも梨乃が不憫だ。
お互いに依存していたツケが、今になって回って来たのである。
「はぁ……わかったよ」
全くもって気乗りしないけど、ここで彼女の頼みを断るのはもっと気乗りしない。
「僕が教えてやる。梨乃のこと」
「本当にいいの?」
「他に頼る宛が無いんだ。仕方ない」
そこまで言って、僕は手にしていたペン先を彼女に向けた。
「でも、一つ言っておく」
そして今のうちに釘を刺しておく。
「僕に君と復縁する気はないからな」
「安心して。今のワタシはあなたを愛してはいないから」
「……っ」
寸分の迷いもなく求めていたはずの返事が来た。
でも、なぜだろう。
それは僕の心にチクリという痛みを残した。
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