第2話

 ふわりと、美味しそうな香りが鼻孔をくすぐる。

 重い瞼をあげれば、そこは見慣れた白い天井だった。


「うぅ……」


 目覚めた僕を真っ先に襲ったのは頭痛。

 そういえば昨日は、傑と二人で飯に行ったんだ。それでベロベロに酔っ払って、傑に車で送ってもらったところまでは、何となく覚えている。


「さすがに飲み過ぎた……」


 梨乃と別れた反動で、昨日は完全に自制心を見失っていた。頭が割れるように痛い。それと寝る前に歯を磨かなかったせいで、口の中が気持ち悪い。


「ようやく起きたのね」


 未だベッドから身体を起こせないでいる僕。すると視界の外から聞こえるはずのない人の声が。しかも聞き覚えのある声。重い身体を無理やりに起こせば――


「なんで君が……」


 台所に立っていたのは、一昨日に別れたはずの元カノだった。


「人の家で何してるんだ……」


「何って、味噌汁を作っているのよ」


「味噌汁……?」


 この美味しそうな香りの正体はそれか……じゃなくて。


「なんで僕の家で勝手に味噌汁作ってるんだよ!」


「間宮くん相当酔っていたようだから、今朝材料を買って来たの」


 戸惑う僕に対し平静を貫く梨乃は、一口味見するなり小さく頷いた。


「二日酔いにいいかと思って」


「だからってこんな……」


 別れたばかりの、ましてや自分を振った相手の家に勝手に上がり込んで味噌汁を作るなんて……一体何を考えてるというんだ。


「とりあえず、歯を磨いてきたらどうかしら」


 加えて口調も全くの別人だ。

 さては別れたショックで気でも狂ったのか?


「それとも、あまりお腹は空いていない?」


「どうして君は――」


 どうして君はそんなにも平然としていられるんだ。

 言いかけたその時、僕の腹の中に住んでいる虫が大声で鳴いた。


「十一時半……」


 もうこんな時間……思えば昨夜はお酒を飲むばかりで、食べ物をほとんど口にしていなかった。丸一日食事をしていないともなれば、腹が鳴るのも当然ではある。


「歯、磨いてくる」


 僕はそう言って、覚束ない足取りで洗面所へと向かった。

 歯を磨き、顔を洗い、味噌汁の良い香りに引き寄せられるように居間へと戻る。


「お箸、これでいいかしら」


 台所を横切る時、梨乃は持ち手が赤い箸を掲げながら言った。


「それは君のだろ。僕のはこっちだ」


 さては僕をからかっているのだろうか。

 困惑と苛立ちが混在する中、僕は自分の箸を取りテーブル横へと腰を下ろした。


「お茶碗って――」


「その棚の下の段」


 やっぱり僕をからかっているようだ。

 理由は分からない。なぜか梨乃は僕の家に慣れていないフリ・・・・・・・・をしていた。


 と、ここで――『ブー』と、僕のスマホに着信が。

 画面を見れば、そこには『相瀬愛乃』と表示されていた。


「なんで愛乃さんが」


 相瀬愛乃あいせあいの――梨乃の母親である。

 実の母親でありながら、梨乃の事をまるで他人の子のように扱う畜生。というよりも、単に娘よりも男遊びに夢中になっているクズ。

 言ってしまえばダメな母親である。


「はい」


『あ、光? 久しぶりー』


 電話に出るなり、愛乃さんは相変わらずの砕けた口調で言った。


「お久しぶりです。それで、ご用件は」


『ああー、それなんだけどさー』


 何やら電話口の向こうから、男の声が聞こえてくる。

 梨乃に父親はいない。となればおそらくは愛人か何かだろう。

 それにこの波のような音……さては海にでもいるのだろうか。


『今カレと旅行中ですっかり伝え忘れてたんだけどさ。昨日……いや、一昨日だったかな。東京の病院から電話が来てね。なんかうちの娘、交通事故に遭ったらしいじゃない?』


「は?」


 待て……交通事故……?


『命に別状はないらしいから、多分大丈夫だろうけどさ』


 そんな話聞いてない……それに一昨日って……。


『まあそういうことだから、梨乃のことよろしくねー』


「よろしくって……ちょっとま――」


 僕の返事を待たずに、一方的に電話は切られた。


「交通事故……」


 改めて言葉を口にしてもなお、その実感が湧かない。


「何かしら」


 ちょうど味噌汁を運んできた梨乃の顔をまじまじと見たものの、特別変わったところはなかった。見える部分に怪我らしい怪我もない。まるで元気そのものだった。


「交通事故に遭ったって本当か」


「そういえば、まだ間宮くんには伝えてなかったわね」


 そう言うと梨乃は、僕の向かい側に腰を下ろした。

 そして表情一つ変えず、


「どうやらワタシは交通事故に遭ったらしいのよ」


「遭ったらしい……?」


 なぜか曖昧な言い方でそう呟いた。

 それに梨乃らしくないその口調。僕を前にしてもなお落ち着いているその態度……脳裏をよぎったのは、あまりに非現実的な一つの可能性。


「まさかとは思うが……」


「ええ。今のワタシは、あなたの知る相瀬梨乃じゃない」


 途中だった僕の言葉を肯定し、梨乃は続ける。


「彼女は交通事故に遭い記憶喪失になったのよ」


「嘘、だろ……」


 そして語られたのは、僕が予感した通りの事情だった。


「ワタシが目を覚ましたのは昨日の朝。気づいた時には病室のベッドの上だった」


「つまり今の君には、交通事故よりも前の記憶がないと……」


「ええ。だから退院してすぐにあなたの元を尋ねたのよ」


 今までの疑念が一本の線として繋がっていく。

 その最中、梨乃の姿をした彼女は、希薄だった表情に笑みを浮かべた。


「あなたにワタシを教えてもらうために」


 そうだ……思えば昨日の晩、彼女は玄関の前で僕の帰りを待っていたんだ。てっきり復縁交渉に来たのかと思った彼女の口からは、意図の読めない不可解な言葉が発せられた。


「そういうことだったのか……」


 交通事故に遭い記憶喪失になった。

 確かにそれだと、今のこのおかしな状況にもひとまずの説明がつく。


「改めてお願いするわ」


 未だ困惑が拭えない中、彼女は真剣な面持ちで僕を見た。


「間宮光くん。あなたに相瀬梨乃のことを教えてほしい」


 それは冷やかしなどではない。誠意のある頼みなのは確かだった。

 未だまとまらない思考を一度放棄して、僕は尋ねる。


「どうして君は、そんなにも梨乃のことを知りたがる」


「今のワタシは相瀬梨乃。でも今はその実態を何も知らない」


 彼女はその希薄な表情に似合う淡々とした口調で続ける。


「自分が何者であるかを知りたいと思う。それは生物として当然のことだと思うけれど」


 確かに、彼女の言うことはもっともだろう。今の彼女は梨乃であっても梨乃じゃない。知らないはずの肉体に、新たな人格として彼女が宿ったのだ。


 記憶喪失――その一言で全てを片付けてしまうのは簡単だ。

 しかしながらこの状況には、その言葉以上に複雑な何かがある。


 自分を何者かも知らない。どこから来たのかもわからない。そんな彼女の気持ちを察すれば、梨乃を知る僕がその全てを教えてやるのが善なのだろう。


 でもだ――


「わるいが今日は帰ってくれ」


 それは全て彼女の事情であり気持ちだ。僕の事情と気持ちは違う。


「僕たちは別れたばかりなんだ。例え君に記憶が無くとも、僕はそうじゃない」


 一昨日別れたばかりの相手と二人きり。

 普通に考えればこれは異常事態だ。僕の軟弱なメンタルで許容できる状況じゃない。加えて梨乃が記憶喪失だなんて……そんなの簡単に受け入れられるかよ。


「そんなにもあなたは相瀬梨乃を嫌っているのね」


「えっ」


 気持ちを整理する時間が欲しい。

 そういう意図からの言葉だったけど。


「わかったわ。突然お邪魔してごめんなさい」


 何かを察したように微笑した彼女は、おもむろに立ち上がった。


「味噌汁、冷めないうちに」


 最後にそれだけを言い残して、足早に家から出て行ってしまう。ガチャリと締まる玄関を目にした僕からは、ため息とは違う長い息が漏れた。


「何なんだよ、ほんと……」


 交通事故。そして記憶喪失。

 二日酔いの頭には、あまりにも刺激が強すぎる現実だった。


 おまけに味噌汁なんて作りやがって。

 元の僕たちの関係は、そんな気を遣う仲じゃなかったのに……


「……美味い」


 食べないのも悪い。

 そう思って一口啜れば、自然とそんな声が漏れた。


 それはアサリの味噌汁だった。

 ダシが効いていて二日酔いの身体によく染みる。


「はぁ……これから僕はどうすればいい……」


 本来なら気まずいはずの相手に、付き合っていた当時の記憶はない。今の彼女は梨乃とは全くの別人格。でも事実として、相瀬梨乃は一昨日に別れたばかりの元カノ……


「……ダメだ。寝よう」


 考えれば考えるほど頭が痛い。

 おかげで僕は、久しぶりの何もない休日を睡眠だけで消化した。

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