幸せのメリーバッドエンド

じゃけのそん

第1話

 彼女と別れた。

 相瀬梨乃あいせりの――それが僕の『元カノ』の名前だ。


 梨乃とは幼馴染で、物心ついた時からよく一緒に遊んでいた仲だった。小、中、高と当たり前のように同じ学校へと通い、高校三年の夏ごろから、その関係は恋人へと発展した。


 高校卒業後、同じ東京の大学へと進学した僕たちは、バイトをしながらたくさんの場所を二人で巡った。

 水族館に行った。泊まりで旅行にも行った。人生初の海に行って浜焼きも食べた。二年と一カ月という長いようで短い時間を、僕は恋人となった梨乃と過ごした。


「で、メンヘラに耐えられなくなって、昨日別れを切りだしたと」


 ウーロン茶を呷りながら、すぐるはまるで他人事のように言った。


「はぁ……相変わらず君は他人に興味関心がない」


 僕はそんな薄情な親友を睨み、届いたばかりの生ビールを勢いよく流し込む。


「関心がないわけじゃないよ。ただよく二年も続いたなって」


 傑はとりあえずで頼んだ枝豆に手を伸ばし、


「俺なんて三カ月でギブだったし」


 それを起用に食べながら昔の話を口にする。

 というのも、僕――間宮光まみやこうの元カノ、もとい幼馴染である梨乃には、僕と付き合う以前にも『彼氏』というものが存在した。


 それは梨乃にとって人生初の彼氏であり、彼女の恋愛観を大きく変えるきっかけとなった人物でもある。


「君が梨乃をメンヘラにしたんだろ。この『メンヘラ製造機』め」


「へへっ」


 ちょけるように笑う傑には、どうやら罪の意識がないらしい。

 まあ、その辺のことを意識していないからこそ、こいつは女性にモテるのだろう。事実今日もこの後、マッチングアプリで知り合った女性とドライブするらしい。


 高校の同級生である二階堂傑にかいどうすぐるは、進学せず地元に残った就職組。週末になれば、買ったばかりのレガシーで度々東京までやって来て、名前も知らないような女性と遊ぶ。


 おそらく傑の中の最優先事項は女遊び。高校三年間同じクラスだった僕との食事なんて、ただのおまけ程度にしか考えていない。そういう男なのだ、こいつは。


「なんでこんなクズ男が」


「男はクズなくらいがちょうどいいんだって。あ、俺やきとり食いたいや」


 メニュー表を見ていた傑は、その裏からチラリと僕を見る。


「光は塩とタレどっち派?」


「僕は……」


 圧倒的に塩派である。なぜなら塩の方がお酒に合うから。


「傑の好きな方でいいよ」


「ならタレで。あとこの白子ポン酢も食いたいわ」


「いちいち僕に言わなくても……好きなの頼みなよ。僕は独りで勝手に飲んでるから」


「言っとくが、もし光が潰れても面倒見ないからなぁ」


 なんて言うけど、きっと傑は僕が潰れたらちゃんと面倒を見てくれると思う。

 その優しさとクズさの緩急に、梨乃はまんまとやられてしまったのだ。僕は男だからよかったけど、同性の僕から見ても二階堂傑という男は魅力的に見える。


 もちろん、変な意味とかではなく。


 それから僕たちは、二時間ほど他愛もない話を続けた。

 まあ、そのほとんどが、梨乃に対する僕の愚痴だったのだけど。


 こうして好き放題吐き出して初めて気づいた。僕が抱えていた不満の多さに。お酒の力も相まって、ついつい口が悪くなってしまう瞬間もあった気がする。


 それでも傑は嫌な顔一つせず、僕の話を聞いてくれていた。こういう聞き上手なところがこいつの良さなんだと思うと、何だかちょっぴりムカついた。


「まあ、何。光はさ、色々と我慢し過ぎなんだと思うわ」


「片方が我慢しないと、余計に事が拗れたりするだろ」


「それはそうなんだけどさ。光の場合はその片方になり過ぎなんだよな」


 そう言うと傑は、残り少ないウーロン茶を呷った。


「たまには吐き出さないと。ストレスでどうにかなっちまうぞ」


「そうなりたくなかったから、僕は梨乃と別れたんだ」


 負けじと僕は、今さっき届いたばかりのビールを流し込む。

 これで何杯目だろう。

 憶えていないぐらいにはビールを飲んだ。


「とにかく、もう一回話し合ってみたらどうだ」


「話し合う? 今さら何を」


「話聞いてて思ったんだけど、別に光は梨乃のことが嫌いで振ったわけじゃないだろ? むしろまだ好きなんじゃねぇのって俺は思ったんだが。そこんとこどうなの」


「僕たちは腐れ縁だ。たった二年ごときの交際で嫌いになるわけないだろ」


「それを言えるメンタルがあるならさ、話し合う余地はあると思うけどな」


 僕は別に梨乃を嫌っているわけじゃない。

 傑の言う通り色々と未練はある。

 それでも僕は彼女を振った。その理由は一つ。


 付き合うことに疲れた。

 何かとすぐに拗ね機嫌を悪くする梨乃を面倒な相手だと思ってしまった。だから僕は別れを切り出し、彼女と距離を置くことにしたのだ。


「傑の言いたいことはわかる。でも、今すぐには無理だ」


「そりゃ焦る必要はないけどさ。彼女と一緒に幼馴染まで失いました、なんてことにならないようにな。今のまま梨乃に新しい彼氏ができたら、それこそただのバッドエンドだ」


「わかってるよ」


 僕は一つ返事をして、半分ほどあったビールを空にした。


 ◇


 そこからの僕は、ひたすらにビールを飲みまくる機械だった。

 食べ物はほとんど口にしていないはずなのに、それでもお腹はパンパン。なんなら帰り際に店のトイレで嘔吐した。

 おかげで僕は今、傑の車の後部座席に横たわっている。


『言っとくが、もし光が潰れても面倒見ないからなぁ』


 あの時はそんなことを言っていたけど、やっぱり傑は僕を放置したりはしなかった。


『家まで送ってやる』


 その一言に甘え、僕はほんのり煙草臭いレガシーに乗り込んだ。

 加えて傑は、僕がトイレで吐いているあいだに会計を済ませていた。


 その後に飲み代を請求されることもなかったし、店を出てからここまで会計の事を話題にすら出さなかった。こういう男なのだ、こいつは。


「じゃ、また飯誘うわ」


「お、おう……今日は色々とありがとうな」


「いいんだよ。俺は光に会いに来てるんだから」


 煙草をふかしながら爽やかな笑顔を浮かべた傑。ひょいと小さく指を振ると、渋いマフラー音を鳴らしながら夜の街に消えて行った。


「カッコ良すぎるだろ……ちくしょう……」


 人間としても男としても敗北しているという悔しさを噛みしめながら、僕は二階建てアパートの階段を上る。

 転ばないように注意しながら二階へと上がれば、ぼんやりとした視界の中にとある人物が飛び込んできた。


「誰だよこんな時間に」


 白のTシャツに黒のデニム。見た感じ多分女性。

 どうやら誰かの帰りを待っているらしい。僕の部屋の前で。


「まさかな……」


 嫌な予感を覚えながら、僕は覚束ない足取りで部屋を目指した。

 そして、壁に寄りかかる彼女の横顔を見たその瞬間――今までの酔いが嘘だったかのように視界が晴れ、うつらうつらとしていた意識が覚醒した。


「どうして君が……」


 ため息にも近い声で言えば、彼女はその黒く透き通った瞳をこちらに向ける。


「随分と遅いお帰りね。間宮光くん」


 それは想定していたよりも何倍も早い再会だった。

 短く整えられた茶髪。切れ長ながらも愛嬌を感じさせる目。美人と可愛いのちょうど中間に位置するその顔は、間違いなく僕の幼馴染であり元カノ――相瀬梨乃だった。


「今日はもう帰らないのかと思ったわ」


 このまさか過ぎる状況……当然僕は困惑した。

 なぜ昨日別れたばかりの相手の家に、こうも平気な顔して来れるんだ。

 しかも、こんな夜遅くに。


「何しに来た……」


「間宮くんに会いに来たのよ」


 僕が細い目で睨めば、梨乃はさも当たり前かのようにそう言った。


「最寄り駅が同じなのね、ワタシたち」


 それにしても、梨乃の口調が明らかにおかしい。

 今までの梨乃は、もっとフランクで今どきの若者らしい口調だったはずだ。加えて僕のことを『間宮くん』って……まるで梨乃の姿をした別人と会話している気分だった。


「顔が赤いけれど。お酒でも飲んできたのかしら」


 妙に物腰柔らかいこの感じ……さては態度を改めたフリをして、復縁を迫りに来たな。


「帰れ」


 もしそうだとするなら、僕の取るべき選択は一つ。


「君と話すことはない」


 距離を置くと、そう決めた。ずっとずっと悩んで、ようやく決断できたんだ。いくら家に突撃して来たところで、話を聞くつもりは――


「ワタシはあなたと話すことがある」


 話を聞くつもりはない。

 そう決めているはずなのに……どうしてだろう。

 梨乃を前にした僕の気持ちは、情けなくも大きく揺れてしまっていた。


「ワタシを教えてほしい」


 加えて梨乃は、おかしなことを口にする。

 無駄に上品な口調とか、私を教えてほしいとか……本当に意味が分からない。


 僕たちは幼馴染だ。

 人生のほとんどを共に過ごした仲なんだ。


 そんな相手に今さら何を教えることがある? さっき傑にしたような愚痴を溢せば満足なのか? でも君は、僕が愚痴ればすぐに機嫌を損ねるのだろう?


「はぁ……」


 梨乃の考えが何一つとして読めない。

 読めないからモヤモヤする。モヤモヤするからイライラもする。


「今日はもう寝る。それが嫌なら帰れ」


 お酒を飲んだ後の脳にこの状況は重荷でしかない。一瞬冷めたと思われた酔いもすっかり元通り。僕は今、倒れそうなぐらいには眠い。


「それは泊めてくれるということかしら」


「勘違いするな。夜遅いから家にあげるだけだ」


 僕はそう言って、左ポケットから長財布を取った。


「ベッドは僕一人で使うからな。絶対に添い寝とかやめてくれよ」


「ええ。わかったわ」


 小銭に混じる家の鍵を探しながら、今のうちに釘を刺しておく。

 酔っているのと手元が暗いせいで、なかなか見つからない。ジャラジャラと小銭を漁りようやく鍵を見つけた頃には、僕は余計にイライラしていた。


「言っておくけど、汚いからな」


「大丈夫。気にしないから」


 玄関を開けば、そこには今朝出し忘れたゴミ袋が鎮座していた。

 僕は適当に靴を脱ぎ捨て、服を着たまま居間のベッドに倒れ込んだ。


「ほんと、何なんだ……」


 ボソッと呟いた独り言が、真っ暗な静寂の中に消える。

 そこから僕の意識が途切れるまで、あっという間だった。

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