#4 市川の心残り

 帰り道、どこかに市川がいないかと職質ギリギリの挙動不審で歩いていたら

家の近所の公園のベンチにいたっ!

 思わず駆け寄ろうとした足が止まった。泣いてる? 泣くのか幽霊?

何が、どこが悲しい?

 ベンチの端にゆっくり座った。

「泣くなよ」    「泣いてねえし」

「泣いてんだろが」 「うっせえ!」

「聞いてたんだよな」 「……」

「いいお母さんだねぇ」 「嘘ついたろ」 

「文集作れば嘘じゃない」 「でた、オバハンの発想」

 聞いてたんなら特に話す事はない。

そのまま消えるなと念じながら、市川の次の言葉を待った。

ずいぶん長く市川は黙っていた。でも消えない

消えない以上そばにいてやりたい。


 ベンチの影が少し伸びた頃、市川の声が聞こえた。

「はっきり思い出したんだよ、おれ 何が心残りでここに戻って来たのか」

 大きく息をついて次の言葉を待った。市川、それがどんなに困難な事でも協力する全力で協力する。  だって私……

「〝ごめん〟て母さんに言おうとしてた…… 」

 えっ! 普通じゃん、言えるじゃんそんなん。なんで思い出せなかったんだよ。


「父さんの記憶は病院のベッドの上にいた姿しかないんだ。初めは一杯話していた…… まあそれって周りから散々聞かされたからそう思ってるのか、本当の自分の記憶なのかよくわからないけどな。はっきり自分の記憶と分かっている父さんは、もう声も出なくて、でもおれが行くと優しい目で見てくれてたな。小学校の低学年で父さんが死んだ時も、なんかよくない事が起こったのは分かってたけど、寂しいとかはなかった。とっくにうちでは母さんが働いていたし、家はばあちゃんが面倒みてて、父さんがいなくなっても病院に行かなくなった以外おれの暮らしは何も変わらなかったから」

 急に自分の父親の事を思った。そう、もう長い事話してない、思い出してすらいなかった。いつか、必ず、別れが来るというのに。

「中学に入ってすぐに、制服姿を喜んでくれてたばあちゃんが死んだ。楽しそうに晩飯食ってて、話が途切れたなと思ったらもう…… 幸せだの大往生だのって人は言ったけど、命の尽きるギリギリまで娘と孫のために力を使い切って、電池が切れたんだとおれは思ったよ。ばあちゃんのいない家に帰ると、夏は暑い、冬は寒い、部屋は片付いていない、朝の食器は出しっぱなし。いつもテーブルに座ってテレビ見ながら「お帰り」と言ってるだけみたいだったばあちゃんがしてくれてた沢山の事に初めて気が付いたんだ。遅すぎるけどな」

 それ分かる。私も一人暮らしを始めてどれだけ母さんを手伝ってなかったのか思い知ったよ。市川は中学の時には気付いてたんだね。

「おれ、ばあちゃんと父さんに約束した。必ずおれが母さんに家を建ててやるって、だから心配せずに任しとけってな」

 市川の部屋で由美子さんが見せてくれたものを思い出した。

ダンボールと薄板で作った〝家〟 

屋根を外すと細かな細工で各部屋が作られている。周囲の庭?にも部屋の中にも男子の工作には不似合いなほど花があふれていた。どこかの工作展に出品したのだろう、金賞と書かれた金色のシールが貼られていて、それが年月を経てはがれそうになるのを、テープでとめてあった。


「だから、おれまで母さんを置いて行ってごめんて、一人ぼっちにしてしまってごめんて、家を建ててあげられなくてごめんて、そんなごめんの一言さえ言えないまま死んじゃってごめんて、言わなきゃって」

 市川は膝におでこが付くほど深く体を折って沈み込んでしまった。

 この「ごめん」は深い、重い、取り返しがつかない。でも…… いや だからこそ、忘れることなんてあるんだろうか?

「それでおれ、戻ってしまったんだよ、母さんのところに。母さんは新しい家族と三人で庭の花の世話をしていた。新しい父さんはとっても元気そうで優しそうで、新しい… 子供は俺よりずっと母さんとベタベタしてた、女の子だもんな。」

「なによ、それでひがんですねちゃったの? 十八年もたってんだよ。その間、ずっとお母さんが泣いてた方がよかったと思ってるの? 」

「違うよっ! 母さんが幸せな方がいいに決まってる。だけど… あれっておれが生きてたら手に入らなかった幸せだろ」

「なにそれ? 意味わかんないんだけど」


 意味は、分かってた。本当は。

 市川がいたら、由美子さんはフラワーアレンジメントを習わない、今のご主人にも会わない、もちろん娘も生まれないし、あの家にも住んでいない。ひたすら働いて市川を一人前にした頃にはもう新しい事にチャレンジする気力も失せていたかもしれない。

 だけどそんな事分かるのは辛すぎる。断固拒否する。

「今頃になって、おれが現れてごめんて言うの、なんか変じゃないか? 母さん幸せにしてごめん、か?」

「馬鹿じゃないの! 子供みたいなこと言って。それで全部忘れちゃったっていうの!」

「ああガキだよ! おれは元々ガキだからな。その瞬間〝言えないよ、もう忘れたいよ〟と思ったら頭真っ白になって、忘れてたのに…… 思い出しちまった! 」

 私か? 私のせいで思い出したのか? だってこのままでいい訳ないじゃない。

「見たんでしょ、あんたの部屋」

「見たよ、みっともない工作置いててさ、あの家の中であの部屋だけが陰気でじめじめしてて哀しいと思わなかったか? おれのせいで……」

「あたしは哀しいなんて思わなかったよ。感動したよ。由美子さんも旦那さんもみんな優しいと思ったよ」

「でも、もう捨てるって、全部捨てるって……」

「もおっ! どうしたいのよ! 陰気だって言ったり、捨てるってすねたり」

「だからっ、おれは戻っちゃいけなかった、いや、そもそも生まれてこなきゃよかったんだ」

「ばかっ!」


 思わず出た手はひんやりとした空気を切っただけだった。

「そんな事… そんなこと言わないでよ!」

 自分でも驚くほど涙が溢れ出した。止められなかった。頭の片隅で公園にいる人驚いてるんだろうな、と思ったけど涙は止まらなかった。

空を切った時の冷たさが手のひらにずっと残っていた。たった十五年しか生きることが出来なかった少年が、生まれてこなければよかったなんて思っちゃいけない。思わせちゃいけない。


「行こう」立ち上がってそう言った。

「えっ?」

「もう一度、由美子さんと話してみる。ついといで、逃げんじゃないよ」

「に、逃げるかよ!」

 何の勝算もなかった。そもそも信じてもらえるかどうかも分からない。でもじっとしているのは耐えられなかった。全部ぶつけても、いい事なんか何もない。とささやく自分もいた。でもこのままではダメなんだ。由美子さんにかけた携帯の呼出音を聞きながら、わっ、化粧がぐちゃぐちゃだ。と思った。

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