#3 市川のお母さん

亜矢は酎ハイのグラスを見つめながら話し始めた。

「市川が事故ったのは、あんたがシンガポールに引越すからって最後に学校に挨拶に来た日なの。亡くなったのはそれから数日後なんだけどね。

あんたがお母さんと校門の外で待ってる車まで戻って行く間、あたしたち窓からみんなで手を振ってたでしょ」

 そうだった、外国になんか行きたくない気持ち、このまま残りたい気持ちの一方で、みんなに窓から声をかけられて、なんだか晴れがましくてアイドルになったような浮き立つ気持ち、あの時の捉えどころのない十五歳の自分を思い出した。

「市川はさ、ちょっとお調子もんだったから、きっと奈緒の事賑やかに送ってやりたかったんだろうね。運動会の応援団旗を持ち出して屋上に行ったんだ。そこで振ってたら怒られるだけで済んだのに、もっと目立とうとしたのか給水塔のはしごを昇り始めて、その時に風に団旗が煽られて絡まって…… 」

「落ちたのね」

「もう奈緒の車は出た後だったと思う。市川の葬式の後、担任が皆を集めてさ、古山にはかかわりのない事だが聞けば気にするだろうから、市川が事故で亡くなった以上の事は、決して古山には聞かせるなって」

「奈緒ちゃん日本にいなかったし、次に会った時は3年以上すぎてたから、私たち秘密にしてたっていうより忘れてたのよ。奈緒ちゃんをのけ者にしたなんて、思わないで」

 ゆかりはとうとう泣き出した。

「分かった分かった。こっちこそごめん。キツイ事言ったり、嫌な話をさせたりして。さっ、もうこの話はお終い。飲も飲も」


 部屋に戻ってドアを開けようとしたら、部屋のドアノブが驚く程冷たかった。

市川が来てるんだ。

ドアを開けると冷蔵庫を開けた時のような冷気が外に向かって流れて来た。部屋の中は霧がかかったようになっていて、ベッドの所に一段と濃い霧が溜まっている。

「市川? 聞いてたのね? あんたも忘れてたんだ? 」

 濃い霧がはっきりと人の形になって、ベッドに腰かけてうなだれている市川が姿を現した。

「全然覚えてなかった。いや記憶が消えてたのかな。ごめんな、知らなくてもいい

いやな事聞かせて」

「いいよ、こっちこそなんかごめんね。辛い事思い出させて」

 と言いながら気配を探った。この件を私に知っておいて欲しいというのが〝心残り〟だったら、市川に何かしらの変化があるかと思ったから。

でも、この事ではなかったみたい。

 市川が沈み込んでいるせいか、部屋がめちゃくちゃ寒い。コートを着たままパソコンチェアに座っていたが、眠くてたまらない。いかん、凍死する。寝たら、寝たら死ぬぞ……


 閉めてなかったカーテンの間から朝日に顔を直撃されて目が覚めた。市川は私を道連れにする前に気が付いて帰ってくれたらしい。

体の上にティッシュペーパーがいっぱい乗っていた。あいつには毛布を動かして私にかけるほどのパワーはなかったんだろうな、それでも自分にも動かせるものを一生懸命探して、ティッシュペーパーを一枚ずつ運んで、私にかけてくれたんだ。

そう思ったら、たった一人でこの世とあの世の間にいる十五歳の少年が急に不憫になって涙が出て来た。


 再婚したと聞いていたから無理かなと思ったけど、検索したら市川由美子、市川のお母さんの名前がヒットした。アレンジフラワー会社のメンバーとして写真が載っていた。間違いない、市川にそっくりだ。

 十八年もたって、新しい人生も軌道に乗っている人に、直接知っている訳でもない自分が会いに行ってもいいものだろうかとの迷いはあった。けどもし市川がこのまま浮遊霊にでもなったら、と思うと何かせずにはいられなかった。

 由美子さんの会社宛てに、中学校の卒業二十周年文集の企画担当だが亡くなった方のエピソードも取り上げたい。差し支えなければお電話頂きたい。と書いたメールを送ってみた。

 今の気持や状況が分からないから、本人の気持に任せる事にしたのだが、程なく、年齢を感じさせない明るく可愛らしい声で電話があった。

「陽介を忘れずにいてくれる人がいて、すごく嬉しいです。陽介の事いくらでもお話したいわ。一度うちにいらっしゃいません? 」

 願ってもない。由美子さんは平日が休みだという事で、有休を取って訪ねていこうと届けを出したら、

「珍しいな、大丈夫か? 実家で何かあったのか?」

「え~っ! どうしたんですか? まさかお見合いとか? まだまだ恋愛だってギリいけると思いますよ」

「ひょっとしてこの前の健診で何か引っかかりましたか?」

「わぁ~ 古山ロボでもお休みするんだ」

 と驚かれて驚いた。私、そんな風に見られてたんだ。そういえばここしばらく有休取った事ないかもなあ。

ここ数年の私が急に不憫になった。女ざかり三十三歳、これでいいのか。


 市川由美子さん、今は香田由美子さんの家はこじんまりとした一戸建てだった。さすが庭はよく手入れされて季節の花が競い合って咲いている。市川が言ってた通り、今は幸せそうだ。


 簡単な自己紹介で事故当日シンガポールに転校したのは自分で、事故の遠因は自分だったと知ったのはつい先日の事だと話した。

「あなただったのね」 由美子さんは一瞬息を飲んだ が、すぐに

「全然あなたのせいじゃないんだから、陽介がまぬけだったんだから、気にしないでね」と言った。

 それでもあの時、市川の身に大変な事が起こっているのも知らず、私はその場所からどんどん離れて行っていた、その時間の流れを思うと、もどかしさ切なさでいたたまれない。亜矢に話を聞いた時からずっと胸に抱えていた思いを打ち明けた。

そして由美子さんが立ち直っているのを見て少しだけ救われた事も正直に話した。


「そうね…… 」と由美子さんは語り始めた。

 夫を病気で亡くして八年間、頑張って育てて来た息子にまで先立たれた時は生きる意味さえ見失い、何か自分の持っている業や呪いのせいで夫や息子に災難が降りかかったのではないかとまで思ったという。

「でもね、親が死んでも水は飲むっていうでしょ。哀しいけど人って、泣いてばかりじゃ生きていけないのよ」

 陽介の為にダブルワークをこなし、貯金もして将来の学費に備えていたけど、それも全部必要なくなったから、自分だけなら食べていければいいんだからと仕事を減らし、好きだったフラワーアレンジメントの学校に通ってその世界に没頭し、今の職に就いたという。

そしてそこで今の夫と出会った。

「三回忌を終えた後、再婚を前提に…… と言われたんだけど。私が香田になってしまったら陽介の戻る場所がなくなるからとお断りしたの。そしたら 」

 由美子さんはふいに立ち上がって廊下へ歩き出した。後を付いて行くとドアを開けて見せてくれたところは三畳ほどの狭い部屋、市川の部屋だった。今帰って来てベッドにゴロリと横になって、壁に貼ったアイドルの写真を見ていても違和感がない程、市川の部屋だった。

「陽介を忘れて置いて来いなんて思っていない。陽介ごと私を迎え入れ大切に守るつもりだって言って、ここはクローゼットだったみたいなんだけど、こんな風に改装して陽介の部屋にしてくれたの」

 それから十五年、夫は少しも変わらず、陽介の墓参りにもいつも同行してくれるのだという。

「でもね」

 私に学習机の椅子をすすめて、自分はベッドに座り、由美子さんは部屋をもう一度ゆっくりと見回した。

「娘が今年十五になるの。女の子だからいちいち陽介と比較はせずに来たけど、もう陽介と過ごした時間を追い抜いてしまうんだな、って思ってね。私が生きてる限り陽介は私の胸の中にいる。それは家族も認めてくれている。けど、形あるものはこのままでいいんだろうか、私が死んだら娘はどうするんだろうか、顔も知らない兄の荷物…… 困るんだろうなあって」

 言いながら由美子さんはベッドに畳んで置かれた市川のパジャマを撫でた。

「そんな時にあなたからのメールを頂いたの。ああこれは陽介が計らってくれた事じゃないだろうかって思ってね」

(いやああ、それはないですけどね。この部屋の事知ってるようには見えなかったし。そもそもあいつはまんま十五の子供だし)

「こうして古山さんにお逢いしたら、ああ、生きてたらもう陽介はこんなに立派な分別のある大人になっているんだ。私はいつまで子供扱いしてるんだろう、って思ったわ」

(まあ、分別あるかどうかは別として、三十三歳はもうおじさんかも知れませんね)

「あなたのおかげで決心がつきました。この部屋にあるもので何か必要な物があれば写真でも盾でもなんでも持って行って下さい。私は、次のあの子の誕生日までに、使えるものは寄付したり、大切なものはお寺で供養して頂いたりしてこの部屋を空ける事にしたから、何でも遠慮なく」

 ああっ、こうなったら卒業二十周年文集本当に作らんとアカンやん! やっぱり嘘はつくもんじゃないわ。なんて思いはおくびにも出さず市川の写真や作文の載った文集など数点を預かって香田家を辞去した。


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