Ⅺ-ⅰ

 天守閣へと続く隧道は、進むほど空気に蒸気を濃密に孕んでゆく。

 両側で揺らめく蒸気松明の熱気に炙られながら歩を進めながら、僅か数歩先さえ見通せぬ濃密な蒸気の中で甚衛はそれを聞いた。

 遥か地の底から届くような、低く、掠れた悲鳴にも似た音。

 風音ではない。蒸気だ。

 隧道の天井の凹凸を覆う幾万もの致命の雫が、風で揺らぐ度に互いにぶつかり合い、潰れては雫の群となって地に滴り落ちる。肺腑が爛れるほどの蒸気の出所がようやくに知れた。隧道の奥、遥か地下深くに蠢く何か。

 少し先で岩壁は左右に広がり、隧道は広間とも呼べるような開けた場所へと行き着いている。

 広間の半ばまで足を踏み入れたところで、甚衛は足を止めた。奈落へと続くような巨大な亀裂が行く手を遮り、蒸気はその奥から這い出て天蓋へと上っている。

 見えずとも音の反響で頭上の空間が閉じることなく夜天まで続いていることは知れた。同様に、足元の亀裂もまた奈落へと落ち込む断崖めいてどこまで続くかも知れぬ大口を晒している。

 蒸気断層だ。蒸脈の切れ目から轟々と蒸気を吹き出し、地の底深くを流れ爆ぜ煮え滾る血の大河から熱風を汲み上げている。

 ――ここはさながら、地血の大釜だ。


「三百年前の蒸気断層だ」


 口に出さぬ甚衛の独白に応えるように声が響く。

 その声を聞きながら、甚衛は左腰の得物に這わせた指に僅かに力を込める。先程から首筋を焼き切るように炙っていた殺気は、巨大な亀裂の向こう岸から届いていた。

「なぜこのような場所にこんなものがあるか不思議だろう。三百年の永きに渡って太平の世を築いた幕府の中枢、本拠たるこの穢土城のよりにもよってまさに最深部に、冥府へ繋がる地獄門の如き大穴が」

 滔々と語る声、分厚い蒸気の帳越し、あの日と同様に冷たくぎらついた輝きが、その人影の左腕を満たしている。

 蒸気松明の光が揺らめかせる蒸気越しの影と甚衛の視線とを、噴き上がり続ける白煙のわずか一瞬の間欠が交錯させた。

 機腕の男。

 師を殺した憎き仇敵。


「逆なのだ。この巨大な天守、ひいては城自体がそもそも蒸脈を蓋するために建てられた存在なのだ。この穢土城は将軍の居城でも幕府の威光を示す宮殿でもない。蒸気を恐れ、蒸気から逃れるために築かれた姑息な瘡蓋カサブタに過ぎない」 

 彼我の距離を測る。

 一跳躍を以て斬り込めるか。地裂を越えて機腕の首を刎ねる手筋を頭のうちに組み立てる。

 機腕の男は岩盤に深く穿たれた亀裂の縁へと歩み出す。一歩、また一歩と近付く足音を、甚衛はその度にただ黙然と待ち受けた。届く。そう確信した無数の踏み込みは、しかし何れも己の死という結末をも幻視させている。

「三世紀の昔、この城を建てた家康公はこの地に存在する蒸気断層に触れ、来たるべき蒸気革命を、そしてその先にあるものを予見していたのだろう。公は停滞による統治を選んだ。国を閉ざし、諸将の発展を防ぎ、しかしもはや地を覆い空を汚し、星をも喰い尽くす貪欲な蒸気の力に抗いきれず滅んだ。この廃城こそ、人の進歩を否定した愚かな文明の末路だ」

 跳躍。機腕の半歩後ろから逆袈裟の斬り上げ。抜き身の刀が応じるのが早い。

 ならば着地に先んじて中空からの刺突。致命に至らぬまま前蹴りで奈落行き。

 刀の投擲。言うに及ばずそれで仕留めきれるほど容易い敵ではない。

 機腕の男が左腕を掲げる。いくつかの蒸気筒シリンダが精緻に稼働し、歯車と鋼鉄の指が岩肌の一角を指した。

「乗れ。つまらん小細工はしていない」

 示された先にあるのは此岸にひとつ、彼岸にひとつ、一対の蒸気式の昇降機だ。壁面に張り付く軌条レールと、噛み合う歯車。蒸気に燻る頭上へと、見えなくなるまで続いている。

 甚衛は言葉に従い、鉄の鳥籠めいた昇降機に足を踏み入れ、断層越しに向かい合ってふたりはふたつの檻に己を閉じ込める。

 機腕が操作棒を引き下ろすと、機構が蒸気を吐き歯車が回る。二つの檻はゆっくりと上昇を始めた。昇降機の発する騒音の隙間から、不思議と良く通る声が語り掛けてくる。機腕の男が頭上を仰ぎ見、釣られるように甚衛も天井へと視線を向けた。

「この場所、天守閣の直下は巨大な蒸溜室だ。地の底深くから溢れ出た蒸気を城内外にくまなく行き渡らせるため、つまり蒸気の圧力を常に一定に保つための設備。よく出来た仕組みではあったが、それはあくまでも人の造った仕組みにしてはの話だった」

 昇降機の檻が上昇し天井の岩盤へと達する。近くで見れば、それは地下へ続く亀裂と同じく膨大な内圧によって破断し、砕き抉られた巨大な傷痕であると知れた。

「話をしようか。人の進歩を受け入れきれぬ、愚かな男の話だ」

「要らん」

 甚衛はにべもなく言い放って、機腕の男が苦笑を浮かべるのが気配で知れた。

「上まではまだある。そう言わず聞け」

 昇降機の機構が重々しい唸りを上げる。岩壁に刻まれた軌条を噛みながら、ふたりは地上へ昇っていく。

 檻は斬れるか。斬れる。檻ごと斬れるか。否。

 足場が足りない。自分の檻を蹴開けて壁に一足、向こうの檻の隙間にもう一足。踏み込んだ出足を斬られ、こちらの一刀は檻で遅れて届かない。

「男が居た。名を松平まつだいら元康もとやす、血を血で洗う戦国の世において比類無き武で名を馳せた男だ。その生涯五十を超える戦場で、ただ一つの手傷も負うことのなかった無双の士。長く続いた戦国の世の趨勢が決して、将軍の座についた男は七人の子と、さらにその子供らを幕閣に招く。そして、ある大命を下すのだ。そしてその指には小さな刀傷があった。数多の戦場で刀傷はおろか矢傷さえ負ったことのない無双の武人が戯れに振るった小刀で血を流した。その意味する処を理解したものが、子孫らの内に一人だけ居た。故に男は命じたのだ。西へ向かえと。国を閉ざした家康公の、百年の大計の要として七つに満たぬうちに一廉ひとかどの将器と認められし子は海を越え異国の地に足を踏み入れた。その子、その孫、現地の者と血を交えながら尚も西へ、海を越え大陸をも往き来しながら、数えて十と三代に渡ってその子孫は一族に与えられた密命を果たし続けてきた」

 真上は。

 檻を脱して後、昇降機を追い越して上昇。あちらの檻の上蓋を斬り捨てて、――迂遠すぎる。不可。では真下。流石に分が悪い。

 話を聞く気はなかった。

 ただその命脈を断つ手筋の裡にだけ、甚衛は耳を澄ましている。

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