Ⅰーⅱ

 地面の色を写し取ったような小汚い服装、どこか陰気な顔つきに垢じみた髪を垂らし、見るからに浪人といった風情のその腰には、案の定旧式のサムライソードが差されている。

 男はまるで気負う様子もなくゆっくりと歩いて、瞼ほど自然に花の視界に現れた。

 凍りついた世界の矛盾した時間感覚は、無意識が遅まきながらに眼の端で捕らえ掃き捨てようとした光景の重大さに気付き、ようやく頭に届けられた結果なのかもしれない。

 より入り口近くに居た二人の汽兵隊に気取られもせずに、すれ違い様、無造作に剃り込みのサムライソードの柄尻を掌で押し留め、男は触れそうな距離をすり抜けていく。 見事と言う他ない。文字通り死線を横切った形だ。

 北国風の細い鼻筋に、薄い唇。半分寝ぼけたような眼はこちらを見ようともしない。

 気が付けば男を見ていた。

 走馬灯でも始まろうかという花の引き延ばされた意識と命懸けの集中が、そっくりそのまま刃から男の横顔に移し変えられている。

 コマ送りに通り過ぎていく男の、伸びすぎの煤けた頭髪一本一本、ぎっしりとした剛すぎる髪質まで見て取れた。強引に一律に撫で付けられた獣のような毛を、土気色の薄汚れた着物にまるでそぐわぬ鮮やかな赤いリボンが乱雑に結わえている。

 後頭部が、髪の端が、不規則に穴の開いた奇妙で場違いなリボンが、ふらふらとひらめきながら過ぎ抜けて行く。

 男の通った空間丸ごとが熱を失い文字通りに凍りついた。指ひとつ動かせぬ静寂の中、男と男を追う目線だけが不思議なほど滑らかに動く。

 冷や水を浴びせたというのとも違う。

 ほとんど燃え上がりかけていた場の熱狂と高揚を、白熱した鉄の温度を岩塊が吸い上げたように、残らず奪って当の本人は人肌ほどにも熱されていない。

 ただ唯一後姿、その場の全員の視線を釘付けたリボンだけが燃えるように赤い。

 そして、立ち止まる。

 男は気に留めることなど何もなかったというように、事実何ひとつなかった立ち振る舞いで、仕切りの向こう、禿の店主に口を利いた。

 道に迷った。

 まるで迷子の幼子が、癪ではあるが渋々大人に声を掛けたようなぶっきらぼう。そこでようやく、花の隣で時間が溶けた。

「この野郎! 舐めた真似をしてくれるじゃねぇか!!!」

 男のあまりに気の抜けた言葉にようやく呪縛が振りほどけ、剃り込みが固まった身体を軋ませ叫びを上げたらしい。

 リボンの男の首がこちらを見渡した。大して鋭くもない、冷めただけの視線に射竦められ、剃り込みは一歩後退る。

「こっちは三人、三人だ、三人に勝てるとでも思ってんのか! あァ?!」

 剃り込みが虚勢を張った。抑え切れない焦りと畏れが端から一対一という考えを捨てさせていたが、それもまるきり的外れな考えでもない。怒声を合図に、勘定に入れられた後ろの二人が魔法でも掛けられたように呼吸を再開する。


 花の呪縛はまだ解けていない。

 ただ、周りの呪縛が解けていく中で、ようやく自分以外も惚けていたことに思い至る。斬り捨てようとした剃り込みも、斬り捨てられようとした自分も等しく目を奪われた異様さに、今さら気がついて身震いする。

 止めようとする者などいるはずもなく、剃り込みが後ろの二人を従え、半端に抜き掛けたサムライソードの鞘を払い駆け出した。

 花の目には、それがひどく緩慢な動作に見える。

 次の瞬間。

 剃り込みの目前にリボンの男が生えてきた。

 ――ずるり、と。

 花からしてみればそうとしか言いようのないほど唐突な移動で、恐らくは剃り込みにとってもそうだったに違いない。

 見えなかったのは、移動だけではない。構えた刃を振り下ろした剃り込みの腕はいつのまにか徒手空拳と化している。

 掠め取られた自らのサムライソードでこめかみを殴られ、剃り込みが膝から崩れ落ちた。

 続けて抜刀しかけた二人目、関西弁が腕を掴まれ宙を舞い、一回転して頭から剃り込みの上に放られる。

 最後のひとりは、未だサムライソードの柄に手を掛けてすらいない。

 奪った剃り込みのサムライソードを、 男がどかりと床に突き立てる。それを合図に、花を含めた店内の全員の時間が再び動き出した。

 ひとり残され呻きを上げる三人目の三枚目に、リボンの男が関西弁と剃り込みの襟首を掴んで無言で押し付ける。相手は腰を抜かして後退し損ね、尻餅をつく。そのまま首をがくがくと縦に振って外の蒸気馬車まで二人を引きずって行った。

 来た時と同じ蒸気馬車のいななきが遠ざかると、静まり返った店内で店主ひとりがぼそりと呟いた。

「勘弁だ勘弁。くそったれこんな面倒持ち込まれちゃあ堪らんぞ」

 言葉に応じてリボンの男がのろくさと振り向いた。男が謝罪の言葉を口にしかけて、店主は心底面倒そうに手を払う。

「謝る暇が有るならさっさと出てってくれ、そっちの嬢ちゃんもな」 眼鏡越しにこちらを見、溜め息をひとつ、「わかってねえなら教えてやるがな、あんな下っ端共をあしらえるくらいの腕っこきならそれほど珍しかねえさ。奴らが連れ立って暴れてるのが良い証拠だ」

 店主はそう吐き捨ると、作り笑顔の下に隠していた先程の三人組への嫌悪感を顔に浮かばせる。それからずずいと目に力を寄せて、

「――だがな、連中の親玉が直々に集めた古参の汽兵隊は格が違う。あの兄ちゃんが大した腕なのはさっき見た通りかもしれんがな、向こうにもそれと同じことができる化け物が後ろにごまんと控えていて、さっきの連中もじきにそんな化け物を連れて戻ってくるだろうさ。そういう連中がいるから、この街の住人で汽兵隊に喧嘩を売る奴はいやしねえんだ」

 店主は一旦そこで言葉を切ると、仕切台から身を乗り出して声ひそやかに、いかにも恩着せがましく続けてみせた。

「なあ嬢ちゃん、とっとと追いかけたらどうだ。喧嘩に付き合ってくれる強い用心棒を探してるなら、あの兄ちゃんを逃がす手があるもんか。まだ礼も言っちゃいねえだろう」

 体の良い厄介払いなのは目に見えているが、確かに一理も二理もある。 用心棒、そう。確かにそういう考え方もある――

 それにしても、目の前の人間に「あの兄ちゃん」とは随分と遠い呼び方をするものだ。そう思って花が隣のリボンを振り返る、

 誰もいない。

 件の男はとうの昔に店主の言葉に従って、店を出たらしい。店に入った時にはあれほどに目を釘付けて置きながら、去る時は気配すら臭わせないとは如何なる道理か技前か。

 とにかく店を駆けずり出た。あれを相手にしては、たとえ向こうが歩いていようと見失う自信がある。通りの煙さに顔をしかめつつ、右へ左へ首を巡らせる。


 真昼日中に暗い屋内から駆け出ても、この街では目を眩ませる心配はない。空模様の問題ではない。空と住人の間にある物の問題なのだから。

 蒸気灯ネオンのけばけばしい色彩が頭上を閉ざす煤の層にぼんやりと照り返されて、白黒モノクロの街並みにせめてもの色味を付け加えている。

 戊辰戦争の終わり、新政府と旧勢力の衝突により生じた血戦にて、国家開闢以来もっとも多くの血が流れ、もっとも多くの町が焼けた。

 一夜で焼け落ちた木と紙の巨大都市メガロポリスは、都市機能を喪失し打ち捨てられた。これを機と見た夷人が移り住み、海の果てではすべからく用に供されている社会基盤が、また彼の地では受け入れられなかった奇矯な科学に至るまで、流入した新しい技術が元々あった絡繰カラクリ装置と相まって、坩堝と化した廃墟で独特かつ飛躍的な発展を遂げる。

 かくして鉄と煤の実験都市として恐るべき速度で復興したその街を、新政府により改められた正式な名――東墟トウキョと呼ぶ者は一人もいない。

 踏み止まった者、逃げ落ちた者、新しく移り住んだ者、そのことごとくが面影すら残さぬその都市を今なお、昔の名で呼ぶ。

 畏敬と忌避を、あるいは郷愁と自嘲を滲ませて、煤塵と黒雲に閉ざされた灰都、穢土エドの名で。

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