SAMURAI AGE
狂フラフープ
Ⅰ-ⅰ
血が泥の色をしていた――
あるいは泥が血の色をしているのかもしれない。確かなのは、それが流れ出していく自分の命の色であることだ。二度と戻らない血潮の悉くが、底の抜けた桶のように地へと撒かれていく……
どうだってよかった。それよりも、燻る蒸気に憎い仇の影がまだ揺れている!
あの
あるいは
それでも世の中奇矯な物好きは居たもので、死んだ母の胎を裂いて甚衛を取り上げたのが
少なくとも甚衛はそう聞かされている。
円木は
血塗れにぬめる地面を五指で掻いて、無理やりに体を引き起こす。
斬られた胸に、焼けるようにぎらつく痛みが幾度も幾度も重ねて押し寄せる。
居るだけで死に至るような濃密な蒸気に晒されて肺腑が焼ける。怒りに塗り潰されていた心が、呼吸の度に猛烈に痛みに侵される。
風が辺りを抜けていく。
◇
店に入ってくる人間を、客の全員が見張れる造りになっているらしかった。
蒸気茶屋の店内は薄暗い。山と詰まれた酒壜、油の染みた畳敷き、空の器、衝立、そしてこちらを向いた顔顔顔。人足か浪人か、どちらにせよひどく柄の悪い顔がしめて十といくつか。飲みかけの徳利を片手に、揃いも揃って好奇と好色の目をこちらに向けている。
思ったほど広くないと感じるのは、やたらと入り組んだ薄暗い造りか、それとも天井近くまで続く物置棚のせいだろうか。加えておそらくは禁制品のための隠し部屋や非常時用の通路かなにかでもあるのだろう。
「注文は」
片手間に
「
茶屋とは名ばかりの蒸気酒を扱うもぐりの酒場。
店主は一息ついてから、
「――知らねえな」
知っている間の取り方だった。知っている上で、諸々の勘定の末での答えだ。
「立ち寄る場所とか、よく見る場所とか、そういうのでもいいんだけど。注文が必要っていうんなら、何か頼むわ」
姉が攫われてもう半年が経つ。
郷里を離れ手掛かりを追って、ようやくこの街にたどり着いたのが数日前のこと、残る路銀は心許なく探りの成果はなしのつぶて。もう何軒目かも知れぬ聞き込みも一向に甲斐はなく、ここで駄目なら万策尽きたも同然である。
藁にもすがるこちらの気も知らず、客たちにはどこか面白がる雰囲気さえ滲み出ている。
ここに来るまで感じていた一つの懸念が確信に変わった。この街では屯所の位置は周知の事実で、皆が皆知らぬふりをしている。
店主も店主なら客も客だ。協力を名乗り出る気配すらない。
こんなにも可憐な少女が助けを求めているというのに。
「悪いこた言わん。嬢ちゃん、帰ってお針子にでも精を出しな」
背中から掛かった声に振り返る。
「あんたたちは? 知ってる? 知らない?」
酒が入って何もかも面白いらしい。花の手に叩かれた卓の上で音を立てた硝子杯に客たちが忍び笑いを漏らす。
そんな連中に当然まともな言葉は期待できず、返事の代わりはにやついた笑みで、へへへと酒臭い息を吹き付けるおまけつきだった。
もう完全に頭にきた。
客と店主、恐らくどちらも答えを知っていて、店主は損得勘定で黙っているが、こいつらは違う。
要は馬鹿にされているのだ。舐められているから、連中は知っている答えをひた隠しにするのだ。花はそうと結論付けて、酔っぱらいの襟首を掴み上げて宙吊りに椅子から引きはがす。
歓声が上がった。
ぎりりと、襟を掴む手の内を引き絞る。
他の席の客たちが次々に囃し立てる中、慌てているのは酔っぱらい当人も差し置いて店主だけである。その時沸き返る店内に届いた近付く蒸気馬車の車輪の音に、一番初めに気づいたのもまた事の成り行きに聞き耳を立てる店主で、その音が意味することにも無論真っ先に気が付いた。
「……あーあァ、呼んでもねぇのに来ちまったよ」
音は店の前で動きを止め、それから、店主が止める間もなく古桟寺花は「屯所の場所は」と怒鳴りつける。
その言葉に入口からの声が答えてひとつ、
「屯所の場所なら知ってるぜ。連れてってやろうか。猥褻な行為と引き換えにな」
花が振り返る。手が緩んだ隙に酔っぱらいがごきぶりめいて逃げ出した。視線の先の声の主は、今しがた到着した蒸気馬車から降り、店に入ってきた三人組の若い男達のひとりだ。
視界の隅で店主が既に仕切りの向こうの奥の奥まで引き籠っている。三人の腰に佩かれているのは、鋼と歯車と蒸気槽で出来た、武骨で大振りな機械鞘。蒸気刀と呼ばれる新式のサムライソード。
やっと見つけた。
彼らが汽兵隊で間違いない。
考えていた展開とは随分違うが、渡りに船と言えば言えよう。彼らをうまく利用して、その根城まで乗り込んでやろうと思う。
「……止めときこない貧相な女、猥褻したい言うてもよォ、もっと
思ったが、まず連れの男のその言葉に腹が立った。
それから初めに声を掛けてきた剃り込み野郎の下卑た手つきが身体に伸びる。反射的に、気安く触る剃り込みの頬を張り飛ばした。
張られた顔が見る間に歪む。そこから先は、花も剃り込みも言葉はなかった。
鯉口を切られ、今まさに鞘から抜き放たれようとするサムライソードの、ぎらぎらとした真剣の煌めきが目に入ったその瞬間、既に店内の半分が非常口の閂を外して店の外に逃げ出し、残りの半分にもろくなのはいない。新聞で顔を隠したのがひとり、厠々と呟いて席を立ったのがひとり、あろうことか鼻くそをほじっている者すらひとり――、
その男は入り口からやってきた。
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