私の幸せ

 生徒会室の扉は開け放たれていた。

 不用心だなぁ、と思いつつ、俺は足を踏み入れる。部屋の空気もどこか澄んでいる。この回で俺が生徒会室に入るのは初めてのことだった。

 百合は生徒会室の奥に立っていた。俺の足音に気づいたのか、そっと振り向いてくる。


「来たのね、黒猫クン」

「職権乱用ですよ、橋口先輩」

「いいのよ。これが最後なんだし」


 百合はそう言って――、自分でその事実を口にして笑った。


「……まあ、生徒会長の荷も下りたというわけよ」

「お疲れ様です」

「ええ」


 百合は小さく息を吐いた。


「今回は黒猫クンにかなり助けてもらったみたいだし」

「なんのことですか?」

「それね、知らないなら首を傾げるぐらいの方がいいわよ。喋ればボロが出るから」


 どうやら俺たちが影で動いていたことは殆どバレてしまっているらしい。どの程度のレベルまで……、いや、彼女のことだ。おそらく、全部知っているのだろう。

 少しだけ不安でもあった。橋口百合にとって誰かに助けられることは非常に不愉快なことであるはずだ。真実がわかれば、本当の意味で百合が救えたことにはならない。


「顔に出てるわよ」

「え、いや」


 慌てた。その時点で駄目だった。

 やはり喋れば喋るほどボロが出る……。


「あの策は確かに良い手ではあったわ。三条さん自身に矛先を向けて確定させる。うん、悪くない」


 おいおい、なんで知っているんだ。

 相変わらずの超人っぷりに少し鳥肌が立った。


「けど、甘い点もある。これって、先生の力が不可欠よ。いじめというのは十代事案の一つだから、問題を深刻化されやすい。黒猫クン、運が悪ければ退学もありえたわよ?」

「……そりゃあ、まあ運が良かったとしかいいようがないですね」

「ええ、そうね」


 百合は全てお見通しのようだ。思わず苦笑する。こればかりはもう、誤魔化すことは不可能そうだ。


「それで、俺を呼んだのはなぜですか?」

「理由がなければ呼んじゃいけないのかしら?」

「まあ、そういうわけじゃないですけど。俺と橋口先輩の場合は、そうじゃないでしょ?」

「ええ、まあ、そうね。うん、そうね。――私、転校するからさ」

「はぁ、なるほど。――……ん?」


 テンコウ。

 俺はその言葉を上手く変換することができなかった。――転校。やがて、それは確かな意味をもって俺の中で受け止めることになる。


「なんで?」

「そうね。一つはあなたの案をより成功させるため」

「……意味が、ちょっと」

「三条さんの状況、あなたは知ってる?」

「……いえ」

「私がいるなら学校には二度と来ない。いじめを告発する――だそうよ」

「は?」


 馬鹿な。

 なんで、そんな深刻的に……。


「言ったでしょう? いじめは深刻化しやすいのよ。まあ、実際深刻なのだけれど。とにかく穏便に済ませたい。なら、いっそのこと私が転校すればいいって話なのよ」

「それはおかしいですよ。理屈が通って――」

「それに、潮時でしょう?」


 どちらにせよ女王の絶対王政は崩壊している。もはや、修復不可能なほどに。それを俺ではない。百合自身がよくわかっている。よく、わかっているのだ。

 俺のせい。この奇策のせいだろうか。口にするのは簡単だ。ただ、言葉にするからには責任を持たなければならない。つまり、自分は百合を助けようとしたのだと認めなければならない。本末転倒だ。


「ねえ、私。思うことがあるのだけど」

「……」

「物語のハッピーエンドと、なんだと思う?」

「……幸せになることじゃないですかね」

「それって、誰が決めてるの?」

「え?」


 百合の顔をよく見ようとした。彼女は笑みを向けたままだった。それが作り物であるかどうか、俺にはわからない。


「ハッピーエンドって感じるのは、にとってでしょう? 本当にその人が幸せであるかどうかなんて、誰にもわからないじゃない。幸せかどうかを決めるのは、いつだって自分自身でしょう?」

「……」

「黒猫クン。私はどう? これって、ハッピーエンドだと思う?」

「……それは、」


 俺は、救えたのだろうか。

 橋口百合を。このメインストーリーを。

 わからない。


「黒猫クン」


 彼女は俺の名を呼ぶ。


「私は幸せになるよ」


 それは多分、あなたのおかげよ。

 その言葉が、紡がれる。


「私は、幸せになれる。――ありがとう、黒猫クン」

「……は、はは」


 俺は何故か笑っていた。笑みがこぼれてしまう。視界がボヤけた。鼻がツンとした。不覚にも涙が出そうになった。それを堪えるのに必死だった。


「橋口先輩が、そう思えたなら、何よりですよ……」


 一瞬、百合は満足そうに頷きかけ、ふと笑みを作った。それは悪戯を考えついたような……、あるいは、ドS思考が働いた女王様のような顔だった。


「うーん、やっぱりナシね」

「……はぁっ?」

「一つ。これが最後の生徒会長としての命令ね」

「あの、生徒会長って生徒を命令できる権限でもあるんで――」

「ほら、細かいことは気にしないの」


 なんとなく流されているような気がするが、まあ、仕方ない。百合は小さく息を吐いた。何故だろう。彼女が緊張しているように見えた。ふっ、と解れる瞬間。彼女は本当の笑みを向けてくれた気がした。それがとても美しく見えた。


「最後ぐらい、私のことを名前で呼んでくれない?」


 俺は小さく息を呑んだ。

 もしかすると、素っ頓狂な表情をしていたかもしれない。きっと、そうだ。ふふ、ははははっ。やがえ、笑う。笑ってしまう。


「了解です、百合」

「ええ、黒猫クン」


 生徒会長・橋口百合の時代は終わる。

 彼女は颯爽と学校を去る。二度と会うことはないだろう。けれど、もし会うことができたなら。俺は訊いてみたいことがある。



 ――あなたは今、幸せですか?

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