〈俺〉≠〈主人公〉

 初めて〈俺〉は菜穂を見据えた。

 これが、この世界における最初の対話だった。固まる俺に対して、彼女は語り続ける。

「貴方の、名前です。あるいは、ないんですか?」

「い、いや……」

 俺は一瞬、躊躇った。

 だが、その上で、俺は言った。

「ある。名前は、

 菜穂はふっ、と頬を緩ませ、首を振った。

「その表現は的確じゃないでしょう? 〈黒猫君〉である前に、貴方は貴方であるのだから。本来の名前をあるのはおかしくありません」

「…………どうして、なんだ?」

 声は震えていた。〈黒猫〉というキャラクターを剥がされた〈俺〉は酷く気弱だった。これ以上にないほど弱い存在に成り果てていた。

 この世界で振る舞えていた俺は俺ではなかった。俺らしさなんてなかった。黒猫の威を借りていただけだった。そうすることで、俺は〈黒猫〉であろうとした。

「貴方は、何者なんですか?」

「俺は……、俺は、」

 生まれ変わった存在だ。

 ぽつり、ぽつりと。

 俺は自分の境遇を話し始めた。一度始めてしまえば止まらなかった。それほど、俺はどこかに溜めていた。自分でも気づかない量を押し殺していた。

 自分でも止まれない。俺は話している。この世界の秘密とも言えることを。この世界が『ヤンデレラ』というゲームであることを。〈俺〉は〈黒猫〉ではなく、あくまでも転生した存在に過ぎないこと。メインヒロイン・森山和奏の爆発。何もかもを終えてしまった世界。

 繰り返されてきた、悲劇。

 菜穂は黙って、最後まで聞いていた。

 この荒唐無稽とも呼べる話を最後まで聞いてくれた。


「……それじゃあ」


 全てを話し終えた後、菜穂は口を開いた。

「私もまた、ゲームの登場人物である、ということなんですね?」

「……いや、」

 才原音子の言葉を思い出す。

 この世界は確かにゲームだ。その設定が。しかし、それだけではない。ここはゲームでありながら、一つの世界でもあるのだ。これまで出逢ってきた人達。その一人ひとりは、決して登場人物なんかではなかった。たった一人しかいない人間だった。


 大切な人達だった。


「……〈黒猫〉なら、どうにかできた」


 俺は、吐き捨てるように呟いた。

なら、どうにかできたんだ。この状況も、物語も、変えることができた。アイツは、主人公なんだから」

「それは、違いますよ」

 ――貴方は〈黒猫君〉を美化し過ぎてますよ、と彼女は苦笑を浮かべた。

「貴方は知らないかもしれない。けどね、〈黒猫君〉だって。貴方と変わらない」

 間違いもある。失敗もする。見栄もある。人間らしい、醜い一面もあった。

「私はね、〈黒猫君〉に対して一つだけ許せなかったことがあるの」

 言葉遣いも変わっていく。それは生徒と教師という枠組みから、一人の人間として、〈俺〉という人として。彼女が認識してくれたことを証明していた。

「〈黒猫〉に、ですか……?」

「そう、他ならなぬ、〈黒猫君〉に」

 あの子はね、モテるよ。

「すごくモテる。……まあ、私もその一人だったわけだけど」

「……はぁ」

「彼はね、誰に対しても同じように接したわ。どんな子にも優しく接した。それが正しいと信じていた。……ねえ、誰にも優しいって、確かに言葉だけは聞こえが良いよ。でも、それはきっと、本当に優しいとは言えないと思わない?」

 私たちにとって残酷なやり口だったよ。――懐かしむように菜穂は言った。

「彼は完璧だった。きっと、彼こそは主人公であり、求められたものを全てやり遂げてみせる能力があったのだと思う……。けれど、ハッピーエンドにしたからと言って、誰しも が救われるなんて限らないんだよ」


 本当に人と向き合いたいのなら。

 本当に優しくしたいと思いたいのなら。

 傷つくことを覚悟するべきだ。

 失敗しても、間違ってもいい。

 醜く、足掻いてもいい。



「ただ、誠実であるべきよ」



 だらりと下がる俺の手を菜穂は握った。

 伝う温もりに俺は涙が出そうになった。

「貴方は春川さんと向き合ったのでしょう? ちゃんと、向き合えたのでしょう? それは他の誰でもない。〈黒猫君〉でもない。〈貴方〉だからできたことなの」

「俺、が……?」

「そうよ。貴方よ」

 視界がぼやけた。

 俺は首を振ろうとしてやめた。口を開こうとして失敗した。口から洩れた嗚咽を隠し切ることができなかった。


「……俺は、この世界で、生きていいのか?」


「当たり前でしょう? ――もっと、自信を持って。貴方は貴方らしく。この世界で生きて」

 きっと。

 俺は誰かに認められたかった。

〈黒猫〉としてではなく、〈俺〉という存在を見て欲しかった。

「それにね、」

 菜穂は俺に言った。


「時折、貴方の方が主人公らしく見えるよ。――誰かを幸せにするために必死になる貴方は、立派な主人公よ」

 俺らしく。

 この世界で生きないと。

 だって、俺はこの世界に生まれてきてしまったのだから。

 彼女を、――彼女を、救いたいと思ってしまったのだから。

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