初めての会話
霧峰菜穂は〈黒猫〉を好いたヒロインの一人だ。
教員と生徒、という関係上、表向きラブコメらしい展開は起きない。ちょっとした日常の弾みに〈黒猫〉と心を通わせていく。
いわゆる、クーデレというやつである。表向きはクールであるが、時折零れるデレに魅力を感じるのだ。
最終的に、菜穂は自分から身を引く選択を取る。それが最良の選択であると信じて。決別の時を迎える。
あくまでも、自分たちの関係は生徒と教員であったと。そう言い含めるように。
♡
どうして目の前に菜穂がいるのだろうか。俺は茫然と彼女を眺めていた。
あのクールぶった菜穂はくすりと笑ってみせる。
「体調は悪くなさそうね」
「え、あ」
「中、入らせてもらっていい?」
「えぇっ?」
「失礼します」
菜穂は俺の返答をよそに、どんどんと玄関内に足を踏み入れてしまった。靴を丁寧に脱ぎ、家に上がった。俺は茫然としている。俺の方に振り向くと、こくんと首を傾げた。
「何してるのよ。黒猫君」
「それはこっちの台詞でしょうが……」
ようやく口にできた言葉もどこか弱々しい。混乱の渦に巻き込まれたまま、菜穂をリビングの方に案内した。
菜穂は周囲に視線を向けた。ぽつり、と一言。
「……ひさしぶりね、ここに来るのも」
菜穂はここに来たことがあるのか。
ぼんやりとした思考の中で、そんなことを思った。確かに、『ヤンデレラ』のシナリオではそんなエピソードがあったとしてもおかしくない。
俺自身の記憶に無いだけ。目の前にいる菜穂もまた、〈俺〉ではなく〈黒猫〉を見ているのだ。
「……そうっすねー」
笑みを作り、座るよう促した。俺の答えに菜穂はじっと見ていた。やがて、お互い腰を下ろす。
俺たちは静かに向かい合った。僅かに視線を下げる。菜穂を前にすると萎縮にも似た感情が芽生える。
沈黙が続いた。どうやら、菜穂の方から口を開くつもりはないようだ。……ならば、何故この場所にやって来たのか。目的がわからない。
「何しに来たんですか?」
「教え子の顔を見に来ることが変かしら?」
「こういう、個人間の付き合いって良くないんですよね? 教師的に」
「そうね」
「霧峰先生らしくないじゃないですか」
菜穂はそれには答えなかった。
「もうけっこう休んでいるけれど、体調はどうかしら?」
「まあまあです。頭痛が酷いときがあって――」
なんてことのない会話が始まる。定型文を口にしているかのような違和感が口の中に残る。
定型文には終わりがある。それが通り過ぎると、途端に会話の流れは沈んだ。菜穂は小さく息を吐いた。
早く、帰ればいい。
ふと、そんなことを思った。
「……ねえ、黒猫君」
「はい」
「今のあなた、とても救いを求めているように見えるの。……気のせいかしら?」
すぅーと身体が冷えていくのがわかる。俺はふっ、と息を洩らした。
「それは……、気の迷いですね」
「本当に?」
「本当ですよ」
菜穂は首を振った――ように思えた。
「いつか、約束したの、覚えてる? あなたが私を助けてくれたとき。今度何かあったときは私が助けてあげるって約束」
覚えていないさ。
そんなこと。俺は〈黒猫〉じゃないんだから。
幸い、俺の口は役割を果たしてくれる。〈黒猫〉として振る舞ってくれる。
「そんな約束もしましたね。けどまあ別に俺は――」
「――
俺は息を呑んだ。
反射的に顔を上げていた。視線の先。彼女が、菜穂が微笑んでいる。
「ようやく。顔を見せてくれたね」
捉えられた。
何故か、そんなことを思った。
そんな俺をよそに菜穂は語る。
「ずっと、疑問に思ってたの。私の目の前にいる〈黒猫君〉について。違和感としか言いようがない。けれど、決定的な違和感。私にはわかった。彼は、〈黒猫君〉じゃないのではないか、と」
一体、何を。
「感覚的に過ぎない、自分が変なことを言っている自覚もある。でも、そうなの。あなたは多分、私の知っている〈黒猫君〉じゃない。どこかの、別人なんだと」
「……ち、ちがう」
瞬間的に首を振っている。
だが、菜穂は止まらない。
「〈黒猫君〉は私の顔を見て必ず話す。〈あなた〉はここに来てから一度として私と目を合わせようとしない」
「そんなの、偶然――」
「私が、ここに来るのは初めてよ」
――……ひさしぶりね、ここに来るのも。
――……そうっすねー
彼女は、本当に。
いつから? いつから、俺に。――最初から、なのか?
「〈あなた〉が、どこの誰かはわからない。けど、〈あなた〉が〈黒猫君〉じゃないとしても。それでも。私は〈あなた〉と話してみたかった」
霧峰菜穂は〈俺〉に言い放った。
「はじめまして。私は霧峰菜穂です。――〈あなた〉の名前を教えてくれませんか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます