√08
無能者
何も変わらない。変えられない。
もう、俺は諦めた。
♡
「――あなた、
現実と夢の境界線が明確に分かたれる。
その瞬間、俺は意識を取り戻した。目の前にいる才原音子の顔。吹き抜ける風に身震いした。何も風の冷たさだけではなかった。肌に伝う汗や、緊張した雰囲気が俺をそうさせていた。
才原音子の問いに俺は答えなかった。小さく息を吐いた。
才原音子は突然、目を見開いた。嘘、と声が洩れる。
「――
俺は才原音子から背を向けた。
そのまま、ゆっくりと歩き始める。才原音子からの動揺が伝わった。
「ね、ねえッ! あと何回なのッ!」
振り向かない。
「ねえ、■■ッ!」
俺はもう、死んだも同然なのだから。
♡
その日から、俺は学校に行かなくなった。
名目上、学校側には体調不良と伝えている。殆どの時間、部屋に閉じこもり、一日を過ごしている。何度かインターホンが鳴った。おそらく、才原音子だろう。あの少女の目的はあくまでも森山和奏と俺を結びつけることだ。それが少女の原動力なのだ。
その不可解な理由も、今はどうでもいい。
わざわざ知りたいとも思わない。
そうして、一日。一日と。時間は過ぎ去っていく。
リビングに向かい、俺は茫然と座り込んでいた。ぽつんと、一人。
今更ながら、俺は〈黒猫〉の母親というものに会ったことがないことに気付いた。こいいった部分は非常にゲーム的だ。
真っ黒な、なにもない空間。
〈黒猫〉は、ここで生きてきた。
「……お前は、完璧だ」
〈黒猫〉。
ゲームの主人公。
ヒロインに好かれ、奔走し、やり遂げてみせる。そんな、ヒーローのような存在。それに比べて俺は平々凡々。凡庸コンプレックスを抱えたような人間だった。
俺は目を瞑った。黒い闇が世界を閉ざし、俺自身をさらに奥底へ連れて行ってくれる。無能者に過ぎない自分をどこまでも貶めてくれる。
――それでも。わたしにとって。あなたはたった一人の人なのに?
森山和奏の声。
彼女の、叫び。
違う。違うよ、森山和奏。
「俺は、どこにでもいる人に過ぎないよ。ありふれた人間なんだ」
♡
夢を見た。
俺の、前世の頃の夢だ。
教室で何人かの友人たちとケラケラと笑い合っている。何も変わらない。どこにでもある、ありふれた日常。この日常から抜け出す力を持たない俺が持つ、唯一無二のもの。
ガラッ、と教室の扉が開く。
その瞬間、騒々しいはずの空気が一瞬消えた。俺もまた口を閉ざした。中からひっそりと女子生徒が一人入ってくる。名前は忘れた。ただ、いつも教室で一人でいるような、存在すらも忘れてしまうような少女だった。
「――なあ、■■」
「んー?」
「アレ、なんかやばいことしたらしいぜ?」
アレ、と呼ばれたのは、あの少女の存在だった。
「ふーん、どんなこと?」
特別興味を持ったわけでもない。
ただ、なんとなく。会話の流れを切ることを俺は恐れていた。
「おっさんと一緒にホテルに行ったことを見たって言ってる奴がいてさ」
「……へぇ」
「あの感じ、マジなのかな?」
「さあ……?」
ああは、なりたくないよな。
友人の言葉に俺は引っ掛かりを覚えた。ああはなりたくない。そう口にする俺たちは、何者にもなれない自分なのに。そんな者の口から、なりたくない希望を口にできるほど、自分たちは偉かったのだろうか。
それほど、傲慢だったのか。
「ああは、なりたくないよなぁ……」
そんな疑問をよそに。
俺は友人の言葉に頷いている。
♡
インターホンの音に目を覚ました。
夜になっていた。目を瞑っていたつもりが本当に寝てしまったらしい。何もしない自分に嫌気が差した。
インターホンはまだ続く。
才原音子あたりだろうか。随分としつこい。俺はため息を付いた。ここで一つ、明確な拒絶を見せておいた方がいいかもしれない。
玄関に近づき、インターホンが止まった。俺の気配に気づいたのだろう。俺はゆっくりと扉を開いた。その先に、才原音子が――
「お邪魔します。黒猫君」
「……はっ?」
――いない。
そこにいるのは、予想外の人物。
霧峰菜穂。彼女が訪ねてきた。
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