少女の悲鳴

 三条ゆえが立ち去った後、俺は生徒会室に足を踏み入れた。

 百合はぽつんと、その場で仕事をしている。この部屋は俺が入ったことで僅かながらも綺麗になった。

 だが、その分、空虚になった気がした。

 俺は、何故か薄気味悪さを感じた。


「――ああ、黒猫クン? 終わったの?」


 なんてことのない調子で彼女は言った。

「……」

 俺は答えず、百合を見ていた。


 ――女王様。それが橋口百合の井名らしい。


 才原音子が話した言葉を思い出している。

「橋口先輩」

「なに?」

「――悩んでること、ありませんか?」

 百合は目を細めた。それだけで彼女は透明な壁を敷いた。これ以上踏み込むなと警告するように映った。

 俺は小さく息を呑んだ。――自分の心は退いていた。この女王の威圧に押されている。

「何か変なことでも聞いた?」

「……」


 ――多分、かなり酷いいじめが横行しているんじゃないかな。


 それが才原音子から聞いた話だった。

 才原音子が言うならば、橋口百合は元々、女王としてこの学園に君臨していたらしい。そのカリスマ、実際の美貌、持ち合わせた能力。それらが彼女を持ち上げた。本人の意志なのかどうか。それはさておき。

 だが、徐々に女王の世界は崩壊を見せ始めた。彼女は色褪せていく。今では女王の席から抜け出そうとしている。

 いつの間にか、彼女は独りになった。

 影から弾圧されるようになった。

 表側の百合は、とても毅然としている。だが、その裏側では、チラシの裏側にあった罵詈雑言のように、傷つき果てている。

「――俺は、橋口先輩の力になりたいんですよ」

「菜穂ちゃんに誘われたからでしょう? その使命感、嘘でしょう?」

 からかうような口調だった。

 あくまでも、百合は女王として振る舞う。弱さを見せない。見せたら終わりだと知っているから。

「熱がついた感じです。他になんか手伝うこと、ありますか?」

「うん。じゃあ、そうね――」


 ――オトくん。あまり、深入りしないでよ? 森山さんのことも考えるんだよ


 耳元にこびりつく才原音子の声。

 その声を俺は意図的に無視している。


  ♡


 ふとした拍子で俺は菜穂のもとを訪れた。

 職員室で彼女の名を呼んだとき、菜穂はそれほど驚いた様子を見せなかった。俺が来訪することをどこかで予感していたかに見えた。

 菜穂は俺を別室に連れて行った。

 別室、とは言っても職員室の横――、バリケードが引かれた場所だ。これでは周りに話が聞かれてしまうのではないか?

 そんな俺の疑問を察したのだろう、菜穂は苦情を浮かべる。

「最近は世間の目も厳しいのよ。生徒と教師が二人っきりの状況を無くすようにしないといけないから」

「それじゃあ秘密話もできないでしょう?」

「そんな事態に陥らないようにするのが前提なの」

 つまり、今はイレギュラーというわけだ。


「――橋口さんのことね」


 俺は頷いた。

「学校側では認知していないんですか?」

「しているとは言い難いわ」

「どういうことです?」

「本人が認めていないのよ。何よりも、他の教員は橋口百合ともあろう者がそんな惨めな状況に陥っているとは思っていない」

「――なんだそれ」

 思わず声が洩れた。

 なんだそれ。

 もう一度、同じような声が洩れる。


 ――この世界はどうしようもない、現実の一つだよ。そこにいる人も、彼らもまた、生きた人間なんだ。キャラクターなんかじゃないんだよ


 これは、キャラクターだ。

 橋口百合は、〈橋口百合〉として見られていない。ある種の偶像だ。完璧という、生徒会長・橋口百合と認識されてしまっている。彼女は誰からも認識されない。誰も、彼女自身を見てくれない。

 まるで、〈俺〉のように――


「俺を応援演説にしたのは……?」

「あなたが、橋口さんから好かれているからよ」

「いや、俺は――」

「いいえ。あなたはわかっていないだけ」

 知っている? 問いかけるように菜穂は言う。


「あなただけだよ。橋口さんがあなたに仕事を託すのは――」


 ――このプリントをそれぞれの掲示板に貼りに行ってもらってもいいかしら?


 ああ。俺は身体が震えた。

 偶像は壊れかけている。偶像を作り上げた彼らが、自ら偶像を壊そうとしているのだ。そんな中、俺は仕事を頼まれた。あのとき既に。

 俺は彼女の救いの叫びを聞いていたのだ。

「黒猫君」

 菜穂は、俺を見据える。

 瞳が震えている。

「私は、あなただから、頼もうとしたの」

 そこに何かを言い含めて。

「――橋口さんを、助けてあげて」

「……はい」

 俺は橋口百合を救わないといけない。


 たとえ、これがメインイベントであったとしても。

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