立候補者、黒猫

 俺は生徒会室の前に立っていた。

 小さく息を吸い、ノックをする。数秒遅れて、返答があった。俺は扉を開けた。

 物に溢れた部屋だった。机は四つ、奥に一つ。書類が散らばり、掲示板が不規則に壁という壁に貼られている。

 その中心に、この部屋の主――橋口百合はいた。

 百合は俺に気づくと、ん、と顔を上げた。

「あれ、黒猫クン? 何か用?」

「ども。手伝いに来ました」

「手伝い……?」

「――応援演説ですよ」

 俺は昨日の菜穂との会話を思い出していた。 

 最初に、その言葉を投げかけられたとき、俺は目を丸くしていただろう。いかにも気の抜けた反応だったに違いない。

 菜穂は自分の言葉が足りなかったことに気付いたのか、ああ、と苦笑する。

『あなたが生徒会になるのではなくて、そ、応援演説を頼みたいの』

『応援演説って?』

『今、生徒会選挙が行われようとしているのは知っているよね?』

『もちろんです』

『今年は会長候補が三人いるの。こういった候補が集まったとき、それぞれの候補者に対して、応援演説者を募る。この人こそが生徒会長であるべき、と他己紹介をしてもらうのね』

『それ、とんでもなく責任が重くないですか?』

『いいえ。応援演説はそこまで選挙に影響が出るものじゃないわ。そうね、しいて言うなら、儀式的な面が強い――……』

 なら、俺がする必要はないのではないか? 

 いや、もっと単純な疑問がある。応援演説に、何故俺が選ばれたのか、ということだ。

『ちなみに、誰を応援するんですか?』

 菜穂の表情に一瞬、陰りのようなものが映ったのが見えた。だが、それは本当に一瞬のことだ。そんな反応が無かったかのように、彼女は言った。

『――橋口百合さんよ』


  ♡


「……へぇ、黒猫クンが、わたしの応援演説ねぇ」

「霧峰先生に頼まれたんですよ。俺の意思じゃありません」

「へぇ、ふぅん……」

 わかっているだろうか。

「それよか。橋口先輩。生徒会長立候補するんですか? 三年生なのに?」

 基本的に生徒会長というものは、世代交代をしていくものだ。百合のような行動は少々イレギュラーと言える。

「うん、まあね」

 百合はなんともなしに言う。

「それにしても。黒猫クンねぇ。戦力として見込めるかしら……?」

「俺だって役に立つとは思ってませんよ。やるだけやるつもりです」

「うん、そのくらいの気持ちで頑張って」


 橋口百合は、先輩キャラクターだ。

 そういえば、俺は彼女が〈黒猫〉に好意を持った経緯を知らない。ゲーム上の設定では、そういった背景はなく、気付いたときから好きだったという基本情報しかない。

 これは案外、おかしなことなのかもしれない。背景のない好意。ゲームという奥行きのない恋愛。

 俺は、百合に対して、何かを思うことはできない。


 ――俺は生徒会室を見渡す。

 それにしても、と思う。百合以外、この場所には誰もいなかった。そのことを尋ねるとなんてことのない調子の答えが返ってきた。

「私以外、殆ど出入りはないわ」

「え、は?」

 それならば。

「……仕事も一人で、やってるんですか?」

「ええ」

「いや……、いやいやいや」

 俺は恐ろしいものを見る目をした。

「あの信者――、じゃなくて、従者……、でもなくて、あの付き人みたいな奴らはどうしたんです?」

「彼ら、生徒会メンバーじゃないから」

 今度こそ戸惑った。

 では、実質的な運営は一人なのだ。たった一人で、百合は仕事をしている。


 この違和感は、なんだろうか――?


「……俺も手伝いますよ」

「そう?」

 目を向けてきた百合の瞳に、微かな期待の光が見えた。――俺の知らない橋口百合がそこにはいるような気がした。


  ♡


 翌日、森山和奏の調子は最大級に悪かった。

 そこで俺は伝家の宝刀――お出かけの誘いを口にすることにした。週末にデートに出掛ける。これでフラストレーション回避を行おうとした。

「ふ〜ん、ふんふ〜ん♪」

 森山和奏の鼻歌が響く。

 週末のデートにより、僅かに機嫌が良くなっている。俺はそれを尻目に、図書室に向かおうとした。

 その直前、放送室から声がかかった。


『――黒猫クン、生徒会室に呼び出しがかかっております。至急、生徒会室まで着てください』


 がっつり百合の声が聞こえた。

 俺は反射的に森山和奏を見ていた。森山和奏は暗い瞳で放送を睨みつけている。その口元が動く。――泥棒猫め。

 おいおい、洒落になんねぇぞ。

 俺は慌てて立ち上がり、生徒会室に向かおうとする。その寸前、才原音子の横を通り抜けることになった。


「オトくん。気をつけないと死ぬよ?」


 だから、冗談じゃない。

 生徒会室まで直行。ノックを忘れ、俺は扉を抜けた。そこに満面の笑みを浮かべた百合がいる。

「急に呼び出して、なんですか?」

「黒猫クン。あなた、私の応援演説者なんでしょう? そのためにはまず、私自身のことを知る必要があると思うの」

「は、はぁ……」


「――だから、あなた。これから生徒会選挙が終わるまで。私と一緒にいなさい」


 それは女王からの命令だった。

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