ハッピーエンドにはなれない

 朝、目が覚めるとひんやりとした空気が俺の身体を通した。まだ冬ではない。それなのに寒さに身震いしてしまった。

 身体の内に満たされるこの空虚感はなんだろうか。俺は小さく息を吐き、起き上がった。

 そのとき、ぱさりと何かが落ちた。ブランケットだった。自分で掛けた覚えはない。誰かが掛けたのだろうか。

 遅れて、俺は気付く。

 陽菜乃だ。彼女が俺に掛けた。

 何故か、昨日の出来事がぷつりと途切れて、記憶が曖昧になっていた。俺は周囲を見渡す。陽菜乃の姿が見えない。俺が陽菜乃の告白を受けた後、俺が彼女の言葉を拒絶した後。――その後、何があった? 俺はどう過ごしたのか。

 思い出せない。

 机に、一通の手紙が置いてあった。俺はそれを手に取った。それは陽菜乃からだった。彼女の丸みのある字が目に映る。その内容を読み終えると、俺は息を呑んだ。また、身体が震えた。


 お父さんのところに行こうと思います。

 ちゃんと決心がつきました。

 またいつか会いましょう。


               陽菜乃


「……違う」

 ――知っていたではないか?

『ヤンデレラ』にはの山場がある。メインストーリーが終わるごとに、主人公は彼女らと別れることになる。俺はそれをよく知っていた。なにせ、やり込んだゲームだったから。切り捨てた彼女らの気持ちなんて考えたこともなかった。

「……違うッ!」

 ひらひらと手紙は落ちた。

 俺は頭を抱えた。俺はこんな終わり方を望んでいなかった。春川陽菜乃には幸せになってもらいたかった。彼女は〈黒猫〉を好いていた。俺を好いているわけではなかった。だから、〈俺〉は拒絶するべきだと思った。

 そんなの、言い訳だろう?

 俺は『ヤンデレラ』に失望したのだ。

 この世界で俺を好いてくれる人間なんていない。それを知っているから。

 誰にも愛されることのない世界。そんな世界にどこに希望があるというのだろう。

「黒猫くん?」

 声の方に振り向く気力もなかった。しかし、俺は振り向いていた。森山和奏が立っていた。俺のジャージを着て、俺の方を見ている。一瞬、彼女がしゃがんだ。何かに向かって手を伸ばしていた。それが陽菜乃の手紙であることに遅れて気付く。

 森山和奏は手紙を読んでいた。

 その表情が徐々に明るくなっていく。……ああ、そうだよな。この女にとってはむしろ都合の良いことだろうな。この世界は彼女にとっての都合の良い場所だから。

「……そっか、あの子はいなくなったんだ」

「……違う。俺が、拒絶したんだ」

 俺はそれを口にしなければならなかった。これは俺の罪だ。俺がしてしまった罰だ。

 森山和奏は首を横に振った。何を言っているのだと言わんばかりに目を丸くしている。

「それは違うよ。黒猫くん。あなたは正しい答えを選んだんだよ」

「正しい? これが? こんな、胸糞悪い結果が? ――正しいって、なんだよ? なぁ?」

「わたしたちの未来のことだよ。わたしたちの幸福こそが、正しさだよ」

「それは、……」

 俺は言葉を飲み込んだ。その先を言ってはいけない、と。森山和奏の心を揺らす言葉だと知っているから。――それは、お前の幸福だろう? 俺はお前といることに、幸福とは思えない。

 森山和奏は俺に近づいてきた。

 俺は抵抗しなかった。彼女は俺を抱き締めていた。皮肉にも、彼女の抱擁には温もりがあった。俺は彼女に身を委ねていた。

「泣いてもいいよ?」

「馬鹿じゃねえの?」

 彼女の鼓動を耳にした。肌で感じた。


「わたしは、あなたから離れないよ」


 俺はもしかすると。もう駄目なのかもしれない。この世界の絶望を知ってしまったから。誰も幸福に出来ないから。

 俺はこれからどうすればいいのだろう。


 

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