謎の少女

 陽菜乃が海外に行き、半月ほどが経過した。

 陽菜乃が海外へ引っ越したことが学校で告げられた時、クラスメイトの落胆の様は大きかった。それだけ陽菜乃はクラスから信頼され、人気であったという証明である。

 陽菜乃が海外に引っ越すことは俺と森山和奏以外に知らなかったようで、俺は何度か質問をされた。知っていたならどうして教えてくれなかったのか、とも詰られた。俺は何も応えるこたができなかった。

 やがて、俺は陽菜乃の引っ越しを受けて、傷心していると勘違いされるようになった。……まあ、そう勘違いされた方が俺にとっては都合がいい。根掘り葉掘り聞いてくる者はいなくなり、やがて静寂になる。

 薄っすらと、けれど確実に春川陽菜乃という登場人物は人々の記憶が消えていった。

 俺は昼休みの間、美夕のもとを通った。この時間が一番の癒やしでもあった。

 美夕は甲斐甲斐しく俺の話し相手になってくれた。――彼女もまた『ヤンデレラ』のヒロインであることには変わりない。

 しかし、〈俺〉は確実に美夕に依存している。

「……黒猫くん、やっぱりまだ元気ないですね」

「へ?」

 美夕は俺を見ていた。見据えていた。

 心の奥底まで見透かされたような気がして、もたげていた〈俺〉の心はずっと奥まで沈んでいく。

「何が?」

「春川先輩のことです」

「……ああ、陽菜乃な」

 まあ、親父さんの出張っていうなら仕方ないわな。一生会えないってわけじゃないんだし。向こうの両親だって一人、娘を残すことは不安だろうから、あはは。

 俺は心にも無いことを口にしている。そうやって一人から回っている。美夕はそれに気付いているのだろう。憐れむような目を向けていた。

 ぱたん、と美夕は本を閉じた。

「あの、黒猫くん」

「ん、ああ、なに?」

「わたしは、勝手にいなくなったり、しませんから」

「……ん?」

「黒猫くんの側に、わたしはいますから」

 ――だから、泣いたっていいんですよ?

 そう美夕は言っているようでもあった。俺は固まり、言葉を放つことができなかった。涙は出ない。そもそも、流すための涙を持ち合わせていない。仮に涙を流したとして、その涙にはきっと意味なんてない。

「……な、なんか。告白みたいだな」

 俺は無様にも笑うことしかできない。美夕ははっと顔を真っ赤にした。口元が動く。俺は聞き取れず、ん、と聞き返してしまった。


「告白と、受け取ってもいいです」


 俺は目を見開いた。

 美夕は本に手を伸ばし、読み始める。

 しかし、一頁も本は進むことなく、言葉も交わすことなく、俺たちは黙り続けていた。


  ♡


 変化は、まだある。

「――おはよう、黒猫くん」

 陽菜乃の代わりに朝迎えるに来るのは、森山和奏だ。森山和奏はこの機を逃さず、俺との距離感を詰めようとしてくる。俺は森山和奏に冷めた目を向けつつ、しかし拒絶することもできない。

 この矛盾は何なのだろうか。

 陽菜乃を失ってから、自分というものがわからなくなってきている。

〈俺〉と、〈黒猫〉と、俺。

 俺は誰だ?

「今日も良い天気だね」

「そうだな」

 登校中、俺と森山和奏は一人分の距離を空けて歩いている。俺はぼんやりと意識が散漫だった。頭上には烏が飛んでいる。

「そうそう、黒猫くん。今日の誕生日占いでね、新しい出会いがあるでしょうって出てたよ」

「いや、俺。そういうの信じてないから。――つうか、なんで俺の誕生日知ってる」

「でね――」

 聞いちゃいない。

 校門にはいつもの光景ではなくなっていた。百合の他にも数人の生徒が挨拶活動に加わっているのだ。何やらビラ配りもしている。

 俺は百合の姿をさっと探したが見つからなかった。――いないのか。

 そのまま教室まで辿り着いてしまった。俺は教室に入る直前には森山和奏と離れている。

「……?」

 教室は何やら騒然としていた。

 俺に気付いた複数人のクラスメイトが、よぉ、と挨拶をしてくる。

「なんかあったのか?」

「ん、おうおう。なんか転校生が来るらしいぜ」

「転校生……、ふぅん」

 俺は首を傾げた。転校生。口の中で転がす。妙にざらついていた。違和感を覚えた。

 転校生は誰だとクラスは賑やかそうだった。俺は転校生について考える。

 ……いや、

 俺は『ヤンデレラ』を熟知している。ストーリー上、転校生なんて出てきたことは一度もなかった。

 しいていうなら。

 ……謎の少女か。

 この『ヤンデレラ』には五人のヒロインがいる。その最後が隠しキャラとも言われる〈安城直子〉のことだった。それが転校生に分類するのだろうか。

 ただ時期的にはもっと早く登場していたはず。俺は何故か、そのことが記憶から消えていた。――はて?

「はーい、席着けぇ」

 担任の先生が入ってきたことで、ざわめきはむしろ増した。先生に着いてくるように、一人の少女がいたからだ。

 彼女は美少女といって差し支えない容姿をしていた。皆は息を呑み、色めいた。担任の先生は転校生に自己紹介を促した。


「はじめまして、才原さいばら音子ねこといいます」


 俺は衝撃に襲われていた。

 クラスメイトと俺でぷっつりと境界線が引かれたかのように反応に差が生まれた。俺はただ才原音子なる人物を凝視している。

 ――

 見たことがない。聞いたことがない。

『ヤンデレラ』の世界では存在しないはずの登場人物。

 お前は、誰だ――?


「みなさん、よろしくお願いします」


 にこりと、才原音子は微笑んだ。


           エピソードⅡ 完

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