一夜にて終わる
カレーの匂いが鼻腔を突いた。
俺は自分がルーを回していることを認識する。小さく息を吐く。俺は生きている。また。この時間に戻ってきた。視線を彼女ら二人に向けていく。
森山和奏と陽菜乃は火花を散らすように睨み合っていた。この光景もどこか懐かしさすら覚えてしまう自分がいた。――これは重症だな、と思いつつ俺は声を出した。
「おーい、カレーできるぞッ!」
二人はビクリと肩を揺らした。陽菜乃がすぐさま俺を睨みつけた。
「もう、急に大声出さないでよ」
「いやいや、悪い悪い。――まあ、さておき。カレーを装おうぜ。なに、大盛りがいい?」
「なんで大盛り確定なのさ……」
陽菜乃は呆れたようにため息をつき、キッチンの方に歩いていく。俺は陽菜乃をしっかりと見ることができていた。もう、目を逸らすこともなかった。
この結末が正しいと、納得するしかない。
視線を森山和奏の方に向けた。彼女は俺を見て不思議そうにしていた。
ど う し た の ?
口を動かし、俺に伝えようとする。俺は彼女の口の動きを容易に読み取ることができた。首を振るい、俺も答えた。
な ん で も な い
♡
夕食を終えて、風呂の時間になった。順番は変わらず。この回における俺は小細工をすることもなく、風呂に入った。少しだけゆっくりと入った。
鏡面に映る自分を見た。そこにいるのは〈俺〉ではなく、〈黒猫〉だ。
あの、誰からも好かれる完璧人間だ。
俺はすっと自分を見た。――否、自分とは異なる誰かを見つめていた。視線が交錯する。
――覚悟はできているのか?
――……わからない。
俺は風呂を出た。ちょうど陽菜乃が出てくるところだった。それを見計らって俺は小さく彼女に呟く。陽菜乃は俯いていた顔を上げて。
「……えっ?」
「んじゃ」
俺は陽菜乃から離れた。
陽菜乃は暫く呆然としていたが、やがて風呂場に向かっていった。根回しは済んだ。後は、森山和奏だ。
森山和奏は相変わらず寛いでいる。俺はあえて、その隣に座り込んだ。おっ、と森山和奏は目を丸くした。
「どうしたの、黒猫くん?」
「なにが?」
「なんか、腹括ったような顔してるよ?」
「まあな」
やれるだけのことをやろう。
俺は今、そう決めた。
「なあ、森山は前に俺のこと好きだか何だか言ったよな」
「……本当にどうしたの?」
「いや確認だ。ただの確認」
「……ふぅん」
疑うような視線は消えない。
俺はそれから目を逸らした。何だか虚しかった。これから自分がしていることに今更疑問はない。
「好きだよ、ずっと」
「……それって、誰にだ?」
「……?」
「いや、なんでもない」
俺ははぁ、と息を吐いた。今度こそ森山和奏は怪訝そうな目を向ける。俺は天井に視線を逃げた。
ゆらゆらと、光が揺らめいている。微かな点滅が眩しい。俺はじっと眺めていた。
「――よく、人をそう好きになれるよなぁ」
「……はぁ?」
「お前の、それだよ」
「うーん、よくわからないけど。わたし、あなたのためなら何でもやるよ。どんなことをしても、手に入れたしね」
「……だから、それだっての」
「ふぅん……、よくわからない」
「俺もだ」
天井から視線を戻し、俺は森山和奏を見た。森山和奏は俺を見ている。――本当に? その視線の先にいるのは確かな〈俺〉なのか?
……多分、違うんじゃないか。
「それは多分、恋じゃないよ」
森山和奏は目を見開いた。
何かを口にしようとする。だが、俺はそれよりも早く言った。――俺、夜に陽菜乃と話すから。邪魔しないでくれ。
森山和奏の表情がさっと変わる。それは不機嫌の予兆だった。俺は笑った。こいつは感情がもろに出る。
「俺も多分、恋じゃない」
その言葉に森山和奏の勢いは失せた。
♡
夜になる。
俺は眠りにつかず、陽菜乃を待っていた。陽菜乃が風呂場に行く直前、俺は彼女を呼び止めた。一度、話をしようと持ちかけたのだ。陽菜乃は呆然としていたが、了承もした。
この物語は間もなく終わる。
足音が聞こえてきた。俺は音の方に振り向いた。陽菜乃は、――春川陽菜乃は立っていた。
「クロ」
「おう」
俺達は夜の下、こうして話し合う。
この選択はきっと間違いだ。
けれど、世界は正しいと言ってくれる。
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