√06

記憶の底にいる君

 ぼんやりとする空間に〈俺〉はいた。

 この感覚を知っている。〈俺〉がリトライするときに起きる一時的な意識の消失だ。この場所において、俺は〈黒猫〉ではなく、〈俺〉になる。

〈俺〉は意識が戻るまで、黒い空間に立ち続けていた。

 その時、一人の人物が前から歩いてくる。男だ。あの、男――。

 俺だ。俺自身が、俺に向けて歩いている。

 その時、記憶が蘇った。


  ♡


『――■■ちゃん、どうしてああなっちゃったのかしらねぇ』


 母親の声には落胆ともドキュメンタリーの感想とも言えるものが込められていた。俺はそれに答えることもなく学校に向かった。母親は無愛想な俺に不満そうな視線を向けていた。

 あの幼馴染み――■■ちゃん、今はもう、そんな風に呼ぶこともない彼女のことを少しだけ思った。

 彼女が高校から退学を受けたのはつい先日のことだ。どうやら例のカレシと共に犯罪に手を染めたようだ。噂では売春斡旋だか、クスリの転売だか。……まあ、詳しい理由はわからない。案外、不純異性交遊で退学したかもしれない。噂は広がり、捻れるものだ。

 どちらにせよ、彼女は退学した。

 これから彼女がどうなるのかはわからないし、わかりたいとも思わない。殆ど他人であったのだから当然だ。


『■■って、あいつと幼馴染みだったのマジ?』

『うん? ああ、そうだけど』

『へえ、じゃあさ。■■も前にそいつから誘われたことあるの? 尻軽女だったらしいじゃん』

『いやないよ。そもそも、幼馴染みって言っても、別にそこまで仲良くないし。他人だよ』

『あー、そうなん? ふぅーん』


 友人からの会話にも彼女の話題はぽつりぽつりと出てきた。

 俺はそのときになっては彼女のことを思い出し、やがて忘れていく。その繰り返し。彼女の顔はぼんやりとシルエットのようになっていき、やがて幼馴染みという関係性すら消滅していく。

 彼女のことを思い出すことになったのは、偶然だった。俺は登下校中、彼女の姿を見た。そのときの彼女は男と一緒ではなかった。様相が殆どかつての原型を留めていない。じゃらじゃらのピアスに金髪、身体を引き摺るようにして歩いている。

 いつから、彼女はあんなふうになってしまったのだろう?

 幼馴染み。たかが、幼馴染み。

 たったそれだけ。まるで希薄な関係性に名前をつけられてしまったから、俺は彼女のことを忘れることができなくなった。呪いそのものだ。

 俺はそういう人間だった。

 幼馴染み? なんだそれ? 美味いの?

 嫉妬でもなく、羨望でもない。

 ただ、仲の良い昔馴染みに、名前をつけたいだけだろう? レッテルを貼られているみたいだ。俺は彼女た幼馴染みなんかではなかった。そのレッテルは、誰かがつけたものだ。


 ――私ねぇ、■■ちゃんと結婚するもんかと思ってたよ。だって二人、昔はよく遊んでたでしょう?


 母の声に俺は顔を顰めた。

 やめろよ、と心底訴えたくなる。

 俺は彼女と目を合わさず、その場を立ち去った。


  ♡


 黒い空間。

 そこに一筋の光が宿る。

 間もなく、リトライが開始される。俺はそれを感覚的に知っていた。目の前にいる俺は、〈俺〉を見ている。

 これから、どうすればいい?

 その答えを、〈俺〉は知っている。

 俺を見た。〈俺〉はようやく、この男の正体に気付けたかもしれない。〈俺〉は前世の〈俺〉であり、現在の黒猫だ。ならば当然、前世の〈黒猫〉だって存在するのではないか。つまり、この男は――

 その男は、ゆっくりと手を伸ばし、指差しをした。俺の後ろに向けて。

 俺は振り向いた。


 そこは、ぷつりと切られた境界線があった。何も無い、黒よりも黒い。何も無い。消滅――?


 俺の意識は白くなっていく。

 その境界線の意味に気付けないまま、俺はリトライを始めた。

 もう、やるべきことは決まっていた。

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