無理ゲー
「――春川さんとわたしが何を話していたのか、気にならないの?」
開口一番に森山和奏はそう尋ねてきた。
彼女の声に俺は意識を向けた。烏の行水よりも早く風呂を終えて、陽菜乃が次の番になった。交代する際、陽菜乃の表情には翳りがあった。前回では気付けなかった変化だ。
俺は前回の自分の鈍さに腹を立てた。もっと早く気付けたかとしれない。いや、気付けたはずだった。……だが、気付けたとして? もう一人の俺が問いかけている。そんなことで、変わるのか? 変わらないだろう?
物語はもう始まっているのだ。
「陽菜乃に何か言ったろ?」
「えぇ。その言い方、わたしが何か言ったことが前提なんだけど」
「したんだろ?」
森山和奏は一瞬、ムッとしたような顔を浮かべた。言葉を遮られたからか。自分のペースを握ることができなかったかためか。不機嫌になるのは俺にとって不利になる。
だが、その事実があっても、俺は苛立ちを隠し切れなかった。
「
話の流れは前回に近寄ってくる。
俺は前回と同じ会話をしようか悩んだ。前回と同じにすれば、同じような展開に進むことができるだろう。しかし、それでは駄目だ。訪れる結末も変わらなくなってしまう。
どこか、ヒントが欲しい。この物語を通過するための材料が。
「森山は、陽菜乃のこと、嫌いなのか?」
「……ん?」
森山和奏は目を細めた。それはどういう意味? と言外に尋ねていた。俺は答えない。森山和奏の応えを待っている。
「嫌いだよ」
森山和奏の答えははっきりとしていた。
ある意味、純粋だった。百%負の感情であっても、濁りが無いことは変わりない。
俺は森山和奏の瞳を見た。そこにいるのは確かに森山和奏であったが、俺には別人のように見えた。もはや、別人なのではないかとすら思った。
闇に呑み込まれた後の、少女の成れ果て。
「ああいうの見てると、すごくムカつくんだ。最初から与えられているような人間。そこにあることを理解してくるくせに、あえて目を逸らそうとする人間。――そこにある幸福よりも、どこかの、誰かの近くにある幸福を無意識に取っている」
許せなくない?
森山和奏はそう言った。
あまりに抽象的な話だ。が、何か、非常に訴えたい何かがあることはわかった。俺はそれを半ば共感している。話の底が見えないのに、理解できてしまう自分がいる。
「……お前自身が、何かを奪われたわけじゃないだろう?」
「今この瞬間、奪われようとしているんだけどね」
森山和奏は吐き捨てるように言った。そのときの彼女は俺を睨んでいるように映った。どうして気付かない。なんでわからない。そう非難していた。
「幸福は――、あなただよ」
♡
黒猫はヒロイン――陽菜乃たちから必然的に好かれる存在である。
つまり、彼女らの幸福の対象に俺はなり得る。それがたとえ自覚していようとなかろうと。俺は多分、自覚していなかった。自分というキャラクターをよく理解していなかった。俺は〈俺〉ではなく、もう〈黒猫〉だった。〈俺〉はいない。この世界には〈俺〉は求められていないのだ。
じゃあ、俺は誰だよ。
俺はどうすればいいんだよ。
俺は――
そんな泣き言は、許されないのだ。
「――――――――――クロ、」
その夜、陽菜乃はやって来た。
俺は明確な対処法も考えられないままこの時間を迎えてしまっていた。
陽菜乃は潤んだ目を俺に向けていた。ああ、この感覚をつい味わったばかりだった。今回のリトライは期間が恐ろしい短い。――ゆえに、味わう感覚も大きく、複雑だ。
「隣、いい?」
「……ああ」
陽菜乃はソファに座った。
陽菜乃は小さく息を吐いた。今の俺には絶望に浸る空気に思えた。
「なんか、ごめんね」
「……」
「その、森山さんのこともそうだけど。こんな、変なことになっちゃって……」
「いや。別に」
「なんか、不安になっちゃってさ」
「……」
俺は陽菜乃の言葉に耳を傾けていた。あまり、反応らしい反応を見せなかった。
それでも、物語は平常に進んでいく。このストーリー、この台詞は決まったものなのだ。変えなければならない。けれど、変えたくないと思っている自分がいる。
「森山に、何か言われたのか?」
「……それは、」
――幸福は、あなただよ
「特には。あんまり話す内容もなかったし」
――あなたと黒猫くんは幼馴染みというけれど、それって具体的にどういう関係なの?
「……ごめんね」
――幸福は、あなただよ
「だから、別に謝らんでも」
――幸福は、あなただよ
「嘘、なの」
――幸福は、あなただよ
「何が?」
――幸福は、あなただよ
「お父さんの長期出張が」
――幸福は、あなただよ
「……?」
――幸福は、あなただよ
「……本当は、
――こうふくは、あなただよ
「わたし、離れたくないから……」
――コウフクハ、アナタダヨ
「陽菜乃」
一息に、彼女は告げる。
「……クロと、離れたくない」
――俺は、このストーリーのクリア方法を既に
この『ヤンデレラ』の性質を察していれば、すぐに理解できる。とても簡単な答えが見いだされる。俺はただ、それを実行すればいい。
しかし、――できない。
俺は彼女を拒めなかった。
唇に触れる感触。陽菜乃は幼馴染みだ。けれど、幼馴染み以上の何かがある。ゲームであれば、選択肢一つ、ボタンを押せば済む。とても簡単なことだ。現実に入れ替わった瞬間、何もかもが変わった。あのボタンは無い。俺は、ボタンを押せない人間だった。
彼女と俺は向き合っていた。
「……わたし、森山さんにも負けたくない。わたし、わたしは」
「 」
何も出来ない。
「――ねえ、何してるの?」
ぱっと照明が点いた。
カウントダウンは始まる。陽菜乃ははっと離れると、声の主を見た。森山和奏がそこにはいる。陽菜乃に向けて、冷めた視線を向けていた。それはすぐに俺に向けられる。
森山和奏の瞳には軽蔑にも似た色が浮かんでいた。それは、俺に向けてのものだった。
口元が動く。
読み取った。
う そ つ き
爆発。
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