陽菜乃はじっと俺を見ていた。

 暗がりの中で佇む彼女はどこか幽霊的に見えた。ぼんやりとした輪郭が、存在感を希薄にしていた。――ほんの一瞬だけ。俺は目の前の彼女がここから消えてしまうのではないかと危うんだ。


「……クロ、」


 陽菜乃は俺の名を呼んだ。

 俺はソファから起き上がり、おお、となんとも言えない返事をする。


「な、なんだ? 寝付けなかったか?」

「え、あ。うん……。まあ」


 陽菜乃にしては珍しくぎこちない返事だった。――珍しく? 俺はその表現に違和感を覚えた。珍しいと思うほど、俺は春川陽菜乃を知っているのだろうか。

 俺はそう考えた自分に動揺した。かつての俺はそんななことを考えようともしなかった。それなのに、どうしてこの場面において俺はそう思った?

 ――森山和奏だ。あの女の台詞が頭から離れないのだ。


「隣、いい?」

「……え、あ、ああ」


 俺もぎこちない返事で、陽菜乃の言葉に頷く。俺たちは少し間を開けて、ソファに座った。

 陽菜乃は小さく息を吐いた。その吐息が艶かしく見えた。


「なんか、ごめんね」

「……は?」

「その、森山さんのこともそうだけど。こんな、変なことになっちゃって……」

「い、いや。別に――……」

「なんか、不安になっちゃってさ」

「……」


 俺は陽菜乃を見た。

 らしくない。やはり、そう思う。

 しかし、その俺が思う『陽菜乃らしさ』もまた、不安定だった。俺の方こそ不安だった。それを誤魔化すために俺は口を動かす。そうしていないのと、俺自身が崩れてしまいそうだった。


「……森山に、何か言われたのか?」

「……それは、」


 陽菜乃の表情がくしゃりと歪んだ。

 俺はそれをはっきりと見た。だが、見たと確信した瞬間には陽菜乃の表情は元に戻ってしまっている。


「特には。あんまり話す内容もなかったし」


 ――あなたと黒猫くんは幼馴染みというけれど、それって具体的にどういう関係なの?


 俺は口を閉ざした。

 暫くの間、俺と陽菜乃は黙り込んだ。それは居心地の悪い沈黙だった。陽菜乃との沈黙で初めて感じたものであった。俺たちの間に生まれる沈黙で、こんな感覚を覚えるようになるとは。そんなことが訪れるなんて。

 沈黙を破ったのは陽菜乃だった。


「……ごめんね」

「だから、別に謝らんでも」 

「嘘、なの」

「何が?」

「お父さんの長期出張が」

「……っ?」

「……本当は、向こう海外に住まないかって言われたの。今日は――家出してるんだ」


 だって嫌だったから。――陽菜乃はそう言って笑った。くしゃりと紙を丸めたような、歪んだ笑顔。


「わたし、離れたくないから……」

「陽菜乃」


 俺は思い出す。

 メインイベント。その意味を。


「……


 陽菜乃が近づく。

 俺は抵抗できなかった。いつの間にか彼女に覆い被さられていた。――陽菜乃、と俺の口は動く……はずだった。

 その唇は奪われていた。気付いたときには潤んだ彼女の目と俺は向き合っていた。


「……わたし、森山さんにも負けたくない。わたし、わたしは」

「陽菜乃、俺は――」



「――ねえ、何してるの?」



 ぱっと照明が点いた。

 俺たちは固まる。はっと離れた。陽菜乃は反射的に声の方に振り向いていた。その声の主が誰であるのか。それは推測するまでもなかった。

 森山和奏が暗い瞳で俺たち二人を見ていた。じっと、眺めていた。


「なに、してるの? 春川さん」

「わ、わたしは――」


 陽菜乃は一瞬、森山和奏の威光に震えた。が、すぐに立ち直る。わたしはっ、と声を荒げた。


「――あなたにだけは、負けたくない」

「はっ、なにそれ」


 森山和奏は俺に目を向けた。俺は咄嗟に目を逸らそうとした。逸らそうとする自分からも意識を逸らしたかった。


「黒猫くん、なにしてるわけ?」


 ねえ、何してるのさ?

 わたしだけを差し置いて。

 これって、ルール違反なんじゃないの?


「どうして、どうしてさ――」


 森山和奏の身体が光り始める。陽菜乃は息を呑んだ。一方、俺は張り詰めた空気を緩ませるように息を吐いていた。ああ、やっぱり。逃れられない。

 俺は森山和奏を見た。この状況下で彼女を直視するのは初めてのことだった。

 森山和奏は、泣きそうな顔をしていた。酷く傷ついた顔をしていた。


 ――けど、クロネコくんはわたしのこと、好きじゃないでしょ?


 そして、爆発する。

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