エピソードⅡ

幼馴染み

 陽菜乃とはお隣同士の幼馴染みである。

 彼女との出逢いはおよそ五歳の頃まで遡る。――当時、陽菜乃はこの街に引っ越してきたばかりであった。そんな彼女と同世代であった〈黒猫〉が出逢うことになる。


『――あら、同い年かしら?』


〈黒猫〉の母は、母親の背に隠れる陽菜乃を見て、そう声を上げる。同士を見つけたときのような、嬉しさが含まれていた。


『そうなんですか? 今年で五歳なんですけども』

『あら、そうなの? ウチのも五歳なの。ほら、。挨拶しなさい』


 こうして黒猫は彼女たちの前に強制的に立たされた。五歳。幼児と変わらない年齢。通常であれば人見知りを発揮してもおかしくないが、この〈黒猫〉は違う。

 主人公補正のある彼は、五歳の陽菜乃を前に慈愛の笑顔を浮かべながら言う。


『はじめまして。ぼくは。きみの名前は?』

『……え、あっと』


 陽菜乃は顔を真っ赤にさせた。頬が林檎のように熟された。母親に促されながら、陽菜乃は躊躇うような口調で応えた。


『ひ、ひなの、です』

『ヒナノちゃん! うん、よろしくね』


〈黒猫〉は手を伸ばし、彼女に握手を求める。その自然な動作に陽菜乃は目を丸くした。母親らは彼らの成り行きを微笑ましそうに眺めていた。

 これは茶番イベントだ。幼馴染みという関係を作る第一歩。そのための儀式。

 陽菜乃は徐々に〈黒猫〉に手を伸ばしていく。やがて、その手をゆっくりと握った。すっぽりと収まるほどの小さな手で、弱々しい力だった。――これが、彼らの出逢いだった。


 そして、俺はこの出逢いを覚えていない。


  ♡


「クロー、起きなさーいッ」


 響き渡るような陽菜乃の声に俺は目を覚ました。遅れて、目覚まし時計が鳴り響く。殆ど同時だ。俺は布団に潜り込みながら、目覚まし時計の位置を探る。音の気配を探り、音を止める。これが朝の戦いだ。この布団を守り抜くために俺は目を瞑り、闇を藻掻き――


「横着しないッ!」


 ――布団を引き剥がされた。

 窓から差し掛かる陽光が一斉に俺の身体を浴びさせる。


「ひ、光が――ッ」

「ゾンビか」


 ベッドから逃げたくない一心で俺は暴れまわるが、陽菜乃は冷めた視線を向けてくるばかりだった。まるでゴミを見るかのような眼。人間に向けていい目ではない。

 俺は潔く諦めて、ベッドから起き上がる。陽菜乃は「顔を洗ってきなよ」との一言に促され、洗面台に向かっていく。

 洗面台に着き、冷水を顔にぶつける。ぼんやりとしていた意識は徐々に覚醒していく。鏡に映る俺は寝癖が盛大に立っていた。猫の耳のようだ。――黒猫とかけて、悪くないのかもしれない。

 ……もちろん、普通の髪型に整える。

 支度を整えると、俺は陽菜乃とともに朝食を食べた。

 我が家では――そういえば、『ヤンデレラ』の主人公は名字が無い――母子家庭だ。母子家庭であることに裏設定は存在しない。ただ、〈黒猫〉の母親は仕事に出ていることが多く、そのために陽菜乃が母親代わりになっているというワケだ。


「そういえば、森山さん。最近来ないね」

「……ああ」


 平和な日常に浸かっていたがゆえに、その名前は俺を微かに動揺させた。

 森山和奏。『ヤンデレラ』のメインヒロイン。そして、現在進行形で俺を苦しめる元凶だ。不機嫌になると文字通り爆発する。容赦なく俺を殺す。

 俺が森山和奏とデート――否、デートではないが――をして二周間が経過した。

 ひとまず、俺と森山和奏の間は保留状態が続いている。あくまでも周りの人間にとっては、親友という関係となっているはずだ。

 この関係性を疑っている人間は多くいる。陽菜乃もその一人であった。

 この二周間は爆発せずに済んでおり、俺の家に無理やり襲来するようなことも起きていない。


「クロと森山さんって。親友なんだっけ?」

「ああ、そうだな」

「いつから?」

「前も言ったろうに」

「だって」


 陽菜乃は何か言いたげに口元をもごもごとさせた。言いたいことはわかる。だが、気取られるわけにもいかない。

 俺はご飯を口の中に運んでいく。朝食に意識を向けて、さも陽菜乃の会話を切ったように振る舞った。陽菜乃は不満そうな表情を見せていたが、朝食に視線を落とした。

 この保留も、限界が想像以上に近いのかもしれない――……。俺は密かに迫る危機から目を背けようとした。


  ♡


 メインイベントは起きる。

『ヤンデレラ』は構成上、大きな山場、というものが存在する。その大きな山場を全て超えることによって、『ヤンデレラ』はクリアとなる。

 その山場は『ヤンデレラ』の性質上、森山和奏の爆発衝動を掻き立てるものに他ならない。

 俺は現実に浸かっていた。そのつもりでいた。それゆえに、気付くことに遅れた。既にメインイベントは始まっていたのだ。


「――ねえ、クロ。わたしをこの家に住ませて。お願いッ!」


 その日、俺は陽菜乃からそう頼まれた。

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