あなたがほしい

 俺と森山和奏が向かった先は、水族館だった。デート――いや、だからデートではない――の定番である。

 U町にある水族館は大人から子供まで老若男女問わず時間を潰すことができる雰囲気があった。名物はイルカショー。しかし、今日はそのイルカショーは行われないらしい。


「ふぅん。間が悪いなぁ……」


 森山和奏はイルカショーが無いことに少しだけ残念がる声音を洩らした。俺もまた、微かながら同感を抱いた。――いやいやいや、何で残念がった? 問題ないはずだ。俺は森山和奏の機嫌を取るだけだ。そのはずだ。

 上手く整理のつかない感情を持ちつつ、俺たちは入場チケットを購入し、水族館に足を踏み入れた。

 水族館に入って早速、目の前に現れたのは亀である。亀のコーナーがお出迎えになっており、幼い子供が硝子張りに引っ付いていた。

 水族館の中は薄暗い。自然と俺と森山和奏は逸れないように近づくことになった。


「水族館をチョイスするあたり、センスありますよ。クロネコくん」

「はぁ?」


 森山和奏は調子を取り戻してきたのか、俺の手を繋ぎながら言った。


「なにが?」

「場所の選択です。水族館って、初デートにはかなりポイント高めの場所だと思うんですよね。水族館は魚介類を見る場所ですから、会話を無理に続ける必要もありませんし、薄暗いから、逸れないようにを口実に手も繋ぎやすく、人目もつきにくい」

「……少なくとも俺が言えることは、魚を魚介類と言うのはやめとけ」

「初デート、楽しみましょうね」

「ソウダネ」


 棒読みを返した。森山和奏は一瞬だけムッとしたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの表情に戻る。俺の手を引っ張り、水族館の奥へ進んでいった。


  ♡


 先に森山和奏が発言した水族館初デート有利論を実行しているのか、俺たちの間に会話らしい言葉は少なかった。

 森山和奏は魚に夢中だったからだ。展示される魚たちを一つ一つ眺めながら時間が過ぎていく。最初こそ森山和奏の不機嫌さに身構えていた俺は拍子抜けした気分だった。

 彼女が魚を眺める間、俺は彼女を観察していた。

 何故か、彼女を見ている時間の方が長いように思えた。

 森山和奏は『ヤンデレラ』のメインヒロインであり、現在進行形で俺を悩ませる原因そのものである。リアルで爆発し、その度に俺は死ななければならない。

 それなのに。

 俺は今、この少女をどこにでもいる普通の少女に見えてしまっている。この瞬間だけ、確かにそう見えた。

 とても、

 その平凡さはまるで、『俺』を見ているようで――


「クロネコくん?」

「ん、ああ。いや。なんでも」

「……? ふぅん。まあ、いいけど」


 俺と森山和奏は新しいエリアに移動する。

 狭い道とは一変、広いホールのような場所に来ていた。空間全体が水に覆われており、壁から硝子張りを通して魚を見ることができる。一際大きい魚が目についた。――巨大なジンベエザメであった。龍宮城を彷彿とさせるような、幻想的な青。俺はその景色に目を奪われた。

『俺』はこれまで水族館に行ったことがなかった。行く機械はいくらでもあった。おそらく、行こうと思えば行けたのだろう。しかし、行かなかった。その選択肢すら浮かばなかった。

 俺はもしかしたら、本当はもっとありふれた何かを享受することができたのではないだろうか。そんなふうに思えてしまう。

 前世を、悔やんでいる。

 俺は。


「クロネコくん、楽しんでる?」

「ん? ……ああ、まあ」

「そう? その割りには芋虫でも噛み締めたかのような顔をしてるけど」


 俺は本気で顔を顰めた。想像できてしまった。


「それを言うならば苦虫を、だろ。ちょっと頭に浮かんだじゃねえか」

「ああ、そうとも言いますね」

「そうとしか言わねえ」

「でも、本当でしょう?」


 俺は僅かに言葉が詰まった。

 この時間を楽しんでいるのか、と問われると、楽しいと本気では思えない。但し、つまらないとも言えない。複雑な感情で揺れている。


「森山はどうなんだ?」


 それは逃げ口上に他ならない。しかし、それ以外の言葉が思いつかなかった。


「楽しいよ、もちろん」 


 即答だった。迷いの無い答えと言えた。


「……そうか」

「わたしは、クロネコくんのこと、好きだから」


 次こそ俺は息を呑んだ。飛んだ不意打ちだった。反射的に森山和奏を見ていた。彼女はずっと前から俺を見ていた。水族館の硝子張りから差し掛かる青色の光が俺たちを照らしている。

 彼女の瞳には濁った青が妖しく光っていた。俺はその瞳に呑まれようとしている。


「けど、クロネコくんはわたしのこと、好きじゃないでしょ?」

「……いや、それは」

「別にいいよ。それでも」


 俺はその言葉にすっと肩透かしを喰らった気分になった。別にいいよ。その言葉を徐々に理解していく。別にいいのなら。俺は森山和奏から解放される? そういうことになるのだろうか。


「それはつまり――?」


 俺はそう問いかけている。

 彼女は笑った。……いや、嗤った。


「だって、最終的にはわたしとクロネコくんは結ばれるんだから。今はまだ、許してあげられるもの」


 頬が引き攣った。ゾッとした。

 それなのに目が離せない。逃れられない。


「わたしは、あなたがほしい」


 ――俺は、この女から逃げないといけない。

 どうに逃げるのか。それはわからない。

 ただ彼女から逃げるためならば、俺は何度でも繰り返すだろう。何度も、何度でも。

 この世界を生き抜くために。


  ♡


「これで、チュートリアルは終わり――」


 U町の水族館。その青色の光を放つ空間の中で少女は一人呟く。その視線の先に、彼と彼女は向かい合っていた。彼と彼女の思惑を少女は容易に読み取ることができた。

 彼はおそらく、彼女から逃げることに必死だろう。そして、心の何処かで思っているに違いない。自分は逃げ切ることができる、と。


「けれど、■■君。あなた、しているよ。今のままだと、きっと痛い目見ることになる……」


 少女はくすりと笑った。


           エピソードⅠ 完

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