笑顔の代価
慎重な足取りで図書室に踏み入れた。
宇佐見美夕はすぐに俺のことに気づいた。パッと咲いたかのような笑顔を向けてくれた。その瞬間、俺は安らぎに心が癒やされるのを感じた。この時間を、とても愛おしく思えたのだ。
「黒猫君」
「よっ」
俺は笑みを作りながら、美夕の隣りに座った。
「遅れて悪いな」
「い、いえ……。わたしが早く来ただけですから」
会話イベントというのは、ある種の惰性が生まれる。ゲームの画面上では、スキップボタンがあるのなら飛ばしてしまいたい、と思うときがあるほど、典型的で、どこか白々しい。この会話でこの選択肢を使えばこんなに好感度が上がる。はいはいワタシはわかっております。――そんな流れが自然と出来上がる。
しかし、現実の美夕を前にすると、そんな感情は吹き飛んだ。俺は二度目の会話であったとしても、惰性を感じなかった。
「それ、面白いか?」
本に視線を向ける。彼女は目を輝かせ、ここぞとばかり話し始めた。
俺はそれをどこか懐かしく思いながら耳を傾けている。
俺が美夕を特別視するのには、〈俺〉が落ちぶれた、日陰者だったことが大きいのかもしれない。特別なスキルを持っているわけでもない。何か誇れる信念があるわけでもない。好きなことになると口が止まらなくなる。そんな、
何よりも〈俺〉の劣等感を膨らませていたのは、自身の物語性の無さだったと思う。
俺は特別な物語を持っていない。
いじめを受けたこともないし、両親が特別仲が悪いこともない。誰かと恋愛をしたこともなかったし、親友がいたこともない。ただし、ぼっちでもない。そんな、本当の意味でありふれてしまっている日常を生きてきた。俺は、幸不幸に限らず、物語を持っている人間に憧れてしまった。どこまでも自分は憧れる側の人間であると、理解していた。
美夕もまた、自分に自身を持てない。持つことが、キャラクターの性質上許されない。おそらく、これまでも様々な人間に憧れてきたに違いない。それこそ、〈俺〉のように。
だから俺は宇佐見美夕に。
「――黒猫君?」
美夕は怪訝そうな顔をした。しまった、と思うが遅い。反応が遅れた。
「なんだ?」
「……やっぱり。大丈夫ですか?」
「……
「その……、黒猫君の。――噂が」
「噂……」
もしかすると。
「森山とのことか?」
案の定、美夕は頷いた。思わずため息を洩らした。まさか、他学年にまで広がっているとは。噂の速度がインターネット級の速さだ。
「その、森山先輩と、黒猫君はお付き合いをされている……とか」
「ああ、それな……」
俺は苦笑した。なんだろうか。自分の中の警戒心が、すぅと解れていく感覚は。
「別に。付き合ってるわけじゃねえんだよ」
「えっ?」
美夕は目を見開く。
「お、お付き合い、されて、ない?」
再度確認してくる。その声音がどこか嬉しそうに聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「そうそう」
「……そうですか。そっか」
よかった、と口元が動いた気がした。
俺は美夕から視線を離した。疲れ切った。森山和奏から逃げられるのか。怖くもある。彼女の表情を、俺は窺い続けることになるのか。
「あの、黒猫君。お疲れですか?」
目敏く美夕は言ってきた。
「まあ、そうだな」
質問攻めだったし。
美夕は何か考えるような素振りを見せて、覚悟したように頷いた。読んでいた本を置くと、ぽんぽんと、自分の膝を叩いた。
「……ど、どうぞ」
「……?」
なにが?
「だから、その。膝枕を――、どうぞ」
美夕は自分で言って頬を赤くし始めた。
膝枕。俺も言葉の意味に、彼女の意図に気づくと、鼓動が高鳴るのを感じた。えと、いや、なんて情けない反応をしてしまう。しかし、ここで断るのも惜しい。すごく惜しい。
「で、では……」
「は、はい……」
俺はおそるおそる、彼女の膝に頭を置いた。……おぉ。……おお。
語彙がそのとき、確かに消えた。
ただ安らぎの化身がそこにいた。
寝れる。もう寝れます。
「その、どうです、か?」
「――最高です」
そ、そうですか、と美夕の顔は赤くなる。ふっと、彼女は笑う。笑顔に俺も笑い返そうとして。
「クロネコくん? なにしてるのかな?」
森山和奏が、そこにいた。
いつの間に。そう思う暇もなく、森山和奏は続ける。
「だれよ、あなた?」
美夕の顔が引き攣る。森山和奏の威圧に押されているようでもあった。しかし、次の瞬間、きっと真剣な顔つきに変わった。
「あ、あなたこそ、誰ですか?」
「はぁ?」
思わぬ切り返しに森山和奏はたじろいだ様子だった。美夕は続ける。
「わたし、知ってます。黒猫君は、あなたと付き合ってるわけじゃ、ないんですよね。黒猫君に迷惑を……、か、彼にまとわりつくのを、やめてください」
「は、はぁ? わたしが? あなた。わたしはね――」
「わたし。あなたのやり方、とても、卑しいと思います」
森山和奏の表情がくしゃりと歪んだ。ヒビが、入ったように見えた。俺はそのとき、息を呑んだ。森山和奏の姿が、あまりにも。
あまりにも〈俺〉に、そっくりで。
「いやだ。いやだいやだいやだ――」
光る。彼女の身体が。そして。
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