この笑顔、守りたくて

 この世界の不可思議な点はまだある。


 それは俺自身にも影響を与えていた。一つ、授業で行われている内容をほとんど容易に理解することができる、という点だ。

 これはひどく不可思議な状況と言える。俺は高校レベルの学力に本来達していなかった。

 それがなぜか、学力が上昇しているということだ。

 しかも、感覚的に、上昇している、と思えないのだ。俺はもとから、学力が高い生徒だった。そう思える納得がある。

 その他の能力も向上している。

 コミュニケーション能力、身体能力、反射神経――……。これらは、ゲームの主人公の基本パラメータが俺の魂に刻み込まれた、と解釈するしかない。

 陽菜乃と同じクラスでないのは幸いと言えた。流石にずっと引っ付かれても困りものだ。


 授業風景を、俺は眺めている。

 これもまた、懐かしさがこみ上げる。ゲームの画面上でしかなかった感覚が、目の前にあるのだ。面白いのが、画面外に存在していたであろう、モブキャラたちだ。


 名前も、顔も知らない。彼らは生きて、現実をともにしている。一人ひとりの顔は量産的で、なんだか白紙を見ている気分になる。……俺は、彼らを知らない。しかし、彼らは俺を知っている。このギャップに首をひねる。現実とゲームの違い。上手く受け入れられない。


 昼休みになると俺は席を立った。

 この現実の前提が『ヤンデレラ』であるのならば、俺にある設定が付随されているはずだった。昼ご飯を手にしながら、ある場所へ向かっていく。

 廊下を歩いていると、自分に視線が突き刺さるのがわかった。その視線に羨望が含まれていた。確かな愉悦感を覚えた。


 たどり着いた場所――、そこは図書室であった。図書室の扉を開く。


 図書室に入って右手。カウンターが備えられている。既にいた彼女は音に気づき、びくりと身体を震わす。視線が俺の方に向いた。


「あ、黒猫君……」


 儚き、小さな声。

 凛とした、隠れるような美しき蕾。

 主人公と同じ図書委員に所属する後輩、宇佐見うさみ美夕みゆ。『ヤンデレラ』のキャラクターの中で、最もかわいいと自認している。


 小柄、小動物のような動き、引っ込み思案、そして、微かな笑顔。彼女が笑顔を浮かべるとき、ぱっと花が咲く。この笑顔、守りたい。そう思わせる。癒やし系キャラクターとも言えた。


「よっ、遅れて悪いな」

「い、いえ……。わたしが早く来ただけですから」


 ぎこちなく笑う顔に俺は惹かれた。

 ゆっくりと彼女の隣に座った。この時間、図書委員としての仕事をすることはない。なにせ、『ヤンデレラ』のときも実際は二人の会話がメインなのだから。

 俺は視線を美夕の手に向けた。そこに分厚い本がある。


「それ、面白いか?」


 次の瞬間、よくぞ言ってくれたと訴えるばかりに美夕は瞳を輝かせた。はいっ、と俺に近寄る。一気に二人の距離が縮まった。


「この小説は林檎先生の新刊なんですっ。なんといっても彼女のジャンルは恋愛小説なんですけど、今回はひときわ生々しく、痛々しい小説を目指して書いた、いわゆるチャレンジ本みたいなもので。ジャンルでいうと、ヤンデレ? というのでしょうか? このヒロインの愛情表現がとてもすごいんです。愛されたくて仕方がない――その説得力が特にすごくて――がつんと思わされた――衝撃の作品で――」


 好きなことになると語りが止まらない。

 俺はそれをどこか共感しながら聞いていた。美夕は正気を取り戻したとき、ハッと息を呑む。自分のしてしまったことを恥じるように顔を赤くした。


「す、すみません……。急に語って……。キモいですよね?」

「いやいや。好きなことを好きと言えるのは、すげえことじゃん」


 


 俺は、彼女との距離感が一番近くにいるように思える。その在り方も、理解できてしまう。好きなことを好きと言いたい。その、自己主張の不器用さを、上手くできないもどかしさを、わかることができる。



 ――■■って、急に喋るな。ちょっとな。



「そういうの、すごくいいと思う」


 記憶の底から蘇りそうになった闇を押し殺す。徹底的に潰して、目を逸らして、消してしまう。

 俺の言葉に美夕は目を見開いた。頬が上気し、うっとりとした顔になる。もしこれが『ヤンデレラ』の世界でなかったなら。この子となら、俺は――……。


「ありがとう、黒猫君」


 微笑む彼女を、俺は美しく思う。

 守りたいと思ってしまう。

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