√02

リトライ

 世界は暗転する。

 一人、孤独の場所にいた。ここは闇。ここは俺の心。真っ暗で、何も見えない。見通すことができない。その、何も無さが、俺だった。

 ――見たくない。

 いつの間にか、俺の前に男が立っている。……誰、だろうか? 何故か、見覚えがあった。とても、知っている、気がする。遅れて、俺は彼の正体に気づく。


 ――黒猫だ。


 彼は、『ヤンデレラ』の主人公、黒猫である。整った容姿。彼は主人公然とした、必然性を宿している。俺は彼になったのだ。俺は黒猫なのだ。

 ――いや、待てよ。

 今、目の前に〈俺〉がいるというのなら、俺は誰なのだ? 俺は、何者なのだ? どうして黒猫が目の前にいるのだ。ハッとする。自分の手を見ていた。

 身体を見ていた。

 醜く、汚れた、肥えた――


 


  ♡


 ジリジリジリジリ――、と目覚まし時計の鳴る音。

 あと一分、五分、十分――……。俺の意識は目覚まし時計に抗いように沈んでいく。しかし、音は鳴り響く。ベッドから腕だけを這い出し、音のする方へ伸ばしていく。見つけた、と思った瞬間、音が止まった。

 これでまた、一休みすることができる。

「……むにゃむにゃ」

 ベッドの温かさ、柔らかさに身を委ねた。快眠の敵は許さない。これぞ、俺のモットーである。

「――って、おおいッ!」

「きゃあっ!?」

 すべての衝撃から逃れるように起き上がっていた。息苦しく、呼吸を繰り返す。自分は今、息を吸って、吐いている。吸って、吐いて……。

 心臓は動いている。

 鼓動を刻む。とくん、とくん、と血が巡る。問題ない。何も問題ないはずだ。

 記憶が一瞬にして回想する。――

 手で口を押さえていた。叫び声を訴えるためか。感情を押し殺すためだったのか。自分の行動に特別の意味を見出さない。見出したくない。

 ……小さく、息を吐く。

 問題ない。……問題など。

「クロ……?」

「……」

 俺は反射的に声の方に視線を向けていた。身体がびくりと震えていた。視線の先にいたのは、陽菜乃だ。ああ、クソ。間違いない。 「なによ、どうしたの?」

「……いや」

 引き攣りそうになる顔に笑みを作った。

「今日もかわいいじゃん、陽菜乃」

「は、はぁっ?」

 陽菜乃はみるみると顔を赤くした。やがて、ぷるぷると身体を唸らしていき。

「寝ぼけてないで、さっさと起きなさい!」

「サー! イエッサー!」

 掴まれ投げられた枕が、ぽすんと俺の顔にぶつかった。


  ♡


 水を顔面にぶつけるように与える。

 冷たさが俺の意識ははっきりと、目覚めさせていく。

 鏡にいる自分を見る。


「……よぉし、〈黒猫〉だな」


 誰にともなく、俺は呟く。

 俺は俺だ。俺は、――黒猫だ。

 何故、そう言い聞かせるように呟いたのかは、わからない。ただ、あの一瞬の断絶の中、俺はを見た気がする。

 鏡に映る自分の顔は恐ろしく、怯えるような顔になっていた。無理やり笑みを作った。そう、その笑みだ。『ヤンデレラ』の主人公らしい笑顔だ。


『――クロー。いつまで顔洗ってるのー?』


 陽菜乃の声。こうして、俺を待っている人がいる。


「ほーい、いま行くよー」


 鏡から視線を外し、一日を始めた。

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