ミラクル番外編 葵・テレジア奇譚 3

〈ウィーンから南に20kmのバーデン〉


「……ぬるい」

「思っていた温泉と違いますね……」

「硫黄のにおいがするから、効果はあると思うけれど」

「硫黄? なんですかそれは? どんな効果があるんですか? うわさに聞く、び、び、美人の湯ですか?!」

「効能は、生活習慣病、消化器系疾患、便秘、痛風、糖尿病、水虫……」

「……早く帰りたいですねえ」


父、リヒテンシュタイン侯に騙されているとも知らず、温泉旅行だとのん気に馬車に揺られて、バーデンまで、葵・テレジアについて来た、紫苑・マルゴは、効能を聞いて、露骨にがっかりしていた。


ローマ時代に発見された温泉バーデンは、『美人の湯』ではなく、本格的な『湯治場』だった。


しかし、そこは、古くから続く湯治場、『塩の洞窟』と呼ばれる薔薇色の岩塩に囲まれた、とっておきのスポットがあると、バーデンでも一、二を争う豪華なヴィラ(別邸)を所有している、超金持ちの父、アダム富裕侯は、なにやら山のようになっている封筒を、次々に封を切り目を通し、床に投げ捨てながら教えてくれた。


薔薇の形に彫刻された岩塩のランプも飾ってあるらしい。


「薔薇色の岩塩のランプ……洞窟……」

「……すてきですねぇ……ああ! 床にパイプを投げ捨てると火事になります!」

「お父さま!!」

「おおおっっ!!」


アダム富裕侯は、続々と帰ってきた『この度は残念ながら、ご縁がなく……ご息女のご多幸をお祈りいたします』そんな、葵・テレジアとの縁談の、まるで就活のお断りのような返答の手紙を、床に投げ捨てていて、ついでにうっかり? イライラしてパイプまで、その上に投げ捨てて、山になった手紙の束は、小さく火がつき、大慌てで葵・テレジアがそのへんの重厚なタペストリーを引っ剥がして、素早く上にかぶせ鎮火させる。


「大丈夫ですか、お父さま?!」

「……う、うん……おしいなぁ……」

「???」

「お前が男であったら……」


のちに生まれる、弘子・テレジアは、父、神聖ローマ帝国皇帝が、その絶大な権力と、譲歩と権威の合わせ技で、『国事詔書』という、女子を跡取りにできる詔書を発令したのとは違い、彼に富はあれど、そこまでの権力はなかった。


(ちなみに、ザヴォイエン・将仁まさひとの本家筋にあたるサルデーニャ王からの返事は全くなく、この時点では、彼はすっかりあきらめていた。)


「まあ……なんだ、せっかくだから、『塩の洞窟』でも行ってきなさい。順番待ちらしいが、貸し切りの手配をしておこう」


アダム富裕侯は、飛んできた召使に後始末をさせながら、葵・テレジアにそう言った。


「……なんだか、申し訳ないわね……」

「平安時代なら、問題なかったのに残念ですね……」

「うん、でも、私は将仁まさひとさまと、また会えないかなって……」

「そうですよね、それが一番ですよね、ヨーロッパは広いって、聞きましたが、どれくらい広いんですか?」

「うー-ん、かなり広いわねえ……」

「しかも外見が分からないですもんね……」


自分の部屋に戻ってから、ふたりは、そんなことを言って、ため息をついていたが、ノックが聞こえた。入るようにというと、うれしそうなアダム富裕侯。


「テレジア! お見合い相手の申し出があった!」

「…………」


彼の手には肖像画、おっそろしいほどの男前であるが、肖像画だけに、7~9割引きをした方がいいだろう。


「お父さま、その方、どこのどなたですか?」

「プロイセンのバイエルン侯の甥御さんでね、数年前に奥様を亡くしたバツイチだけど、まだ30歳だし! お前も18歳 の行き遅……いや、ちょうど年回りも……」

「…………」


そんな良物件、まだ残っているのが怪しい……。冷静な紫苑と葵は思ったが、アダム富裕侯は、ご機嫌で「来週にはここに来るって!」そう言って、肖像画を置いて姿を消した。


「……嫌な予感しかしない……」

「そうですよね、わざわざ自分から出向いて来るなんて……」


ふたりの予感は大当たりで、彼は、飲む打つ買うの三拍子そろった男、そして妻の持参金を使い果たし、衰弱死させた、外ヅラだけは良いDV男であったのである。


「あんまり期待してなかったけど、けっこう美人じゃないか」

「……それはどーも」


数週間後、あとは若いふたりで、そんなことを言って、アダム富裕侯が席を外して、部屋から出た途端、葵・テレジアのまわりを歩きながら、DV男はじろじろと、値踏みをするような目で、見降ろしていたし、ほかのメイドたちと一緒に部屋の隅に控えていた紫苑・マルゴは、「やっぱり訳あり物件だった!! こんなのの相手より、岩塩の洞窟に行きたかった」そう思いながら、唇を尖らせていた。

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