第4話
父はきっと自分自身さえも瓶の中に閉じ込めている。真奈美はまだその中に入るわけにはいかなかった。父のようにはなりたくなかった。
何をすればいいのかわからないけれど、何かをあきらめたくはなかった。
父の手を振り払おうと、真奈美はボトルシップを振り上げた。本当に振り下ろそうとなんかこれっぽっちも思っていなかった、筈だ。
驚いたような顔をして父は真奈美の肩から手を離す。その隙に、真奈美は階段を駆け下りた。
真奈美は小さい頃から、親に反抗することのない子どもだった。それだけに、父は真奈美の行動に驚いたのだろう。
真奈美自身もこの行動には驚いていた。どうしても今止められるわけにはいかなかった。普段ならば絶対にこんなことはしないだろう。それだけこれからしようとしていることが、真奈美にとって大切なことだということだ。
真奈美はボトルシップを持つ手に力を入れた。
「それをどうする気だ!」
我に帰ったような父の声が背中越しに響く。
「待ちなさい! 真奈美!」
久しぶりに聞く父の大声。切迫したような声で父は叫んでいた。真奈美は振り向かなかった。
まだ遠くで父が何か言っている声がする。追ってくる足音が聞こえる。真奈美はそれを振り切るように全力で走った。
父の足音は諦めたのか力尽きたのか、いつの間にか聞こえなくなっていた。
それでも、真奈美は走る速度を緩めない。
◇ ◇ ◇
電車に揺られて海へと向かう。そういえば、昔は両親に海水浴にも連れて行ってもらった記憶がある。もうずっと前のことだ。
潮の香りがする。海が近い。
電車の中で昼間に高校生の制服は目立ったが、もう気にしていない。通報でも何でもすればいい。何があっても逃げ出してみせる。海にさえ着ければいい。
海が見たい。海に行きたい。
◇ ◇ ◇
耳の奥を波の音がくすぐるように響いている。
真奈美は海の空気を大きく吸い込んだ。夢の中よりも鮮明な海の香りだ。
目の前には一面に海が広がっていた。夢の中と違うのは、海がオレンジ色に輝いていることだ。
水平線近くには今にも海の中に落ちそうな夕陽が、海面すれすれに浮かんでいる。昼と夜の境の時間とでも言うべきなのだろうか。
季節外れの誰もいない砂浜に、真奈美は一人たたずんでいた。今が海水浴シーズンで無くてよかった。
真奈美はボトルシップを両の腕でしっかりと抱えていた。振り回されたり、ずっと電車で揺られたりしたにもかかわらず、瓶の中の船はどこも壊れてはいなかった。憎らしいくらい頑丈だ。
真奈美はボトルシップを持って、遠くに見えるテトラポットのほうへ向かった。夕陽に照らされ濃いオレンジに染まっているテトラポットに近づくと、強い風の吹いたような音がした。真奈美の側から逃げるようにたくさんのフナムシが移動している。
太陽はもう、水平線にくっついた。
真奈美はテトラポットに向かってボトルシップを振り上げる。そのままテトラポットに打ちつけようとして、手を止めた。一旦ボトルシップを砂の上に置いて、手近な物を探す。周りは砂ばかり。
しばらく探し回って石を見つけた。波の吹きだまりのようになっているところにあったそれを、瓶に打ちつける。
瓶は意外と頑丈で、なかなか割れてくれなかった。もう少し大きい石が欲しい。が、これ以上探していると暗くなって、周りが見えなくなりそうだ。これでなんとかしたい。
真奈美は根気強く、石を打ち続けた。
力任せにテトラポットに打ち付けたら、間違いなく船も壊れてしまうだろう。船を傷つけたくはなかった。
何度同じことを繰り返したのだろう。ガラスに小さなひびが走った。
太陽はもうすぐ水平線の向こうに姿を隠す。
真奈美はひびの入ったところを懸命に打った。それは卵の殻を懸命に叩いて外の世界へ飛び出そうとする雛鳥に似ていた。やがて卵の殻が割れるように、ガラスは割れた。光のような音を立てて、ガラスの破片は 小さな船へと降りそそぐ。
それは真奈美の目に、流れ星のように映った。
船は土台に接着されていた。船に手を掛けて力を込める。あまり、丁寧に作られていなかったからか、なんとか剥がすことが出来た。船をひっくり返してガラスの破片を落とす。ガラスが光を受けて反射する。
綺麗だ。船はこんなにいびつで汚いのに。
いつの間にか真奈美の指にうっすらと血が滲んでいた。ガラスで切ったのだろう。まったく気付かなかった。不思議と痛みは感じない。ただ、熱い。
真奈美は船を抱えて波打ち際を歩いた。
太陽はもう見えない。夕陽の名残の夕焼けがあるだけだ。
海は一定のリズムを刻むように、真奈美の足元で波を遊ばせる。穏やかだ。
遠く沖を船が通っていく。
真奈美は足を止めた。そして、その場にしゃがみこむ。
波が靴を濡らした。
真奈美は引いていく波に船を乗せた。そっと、船尾を押す。
船出だ。
不安定に左右に揺れながら、船は進んでゆく。波に飲まれて消えそうになりながら、それでも何とかバランスを保って船は海面に顔を出している。ゆっくりゆっくり、危なっかしく揺れながら、船は沖へと進む。
真奈美はその様子を目で追った。
夕焼けの名残は消えかけて、空は濃紺色に変わろうとしている。頭上には星がちらつき始めた。
海に目を戻す。船があった場所を探す。
ほんの少し目を離している隙に、船は見えなくなっていた。どこにも船が浮かんでいた痕跡は無く、ただ波だけがあった。波の音だけが聞こえている。
あの船は波に飲まれたのではない。水平線の向こうに旅立ったのだ。
そう、思いたかった。
海の上に、深い闇が訪れる。先程までのオレンジ色に輝いていた海が幻だったかのように、海は吸い込まれそうな闇の色をしている。
真奈美は長い間、砂浜に立っていた。見つめる先は、船が消えていった方角だ。
足が冷たい。波が迫ってきている。それでも真奈美は動かなかった。寄せては返す波が、足下を洗っていく。その冷たさが心地いい。
真奈美は海から目を離して空を仰いだ。頭上にはガラスの欠片のような星屑が散らばっている。
壁なんてどこにもなかった。
彼女の船出 青樹空良 @aoki-akira
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