第3話

 授業の終わりのチャイムが響いた。教師のつまらない話のおかげで、少しだけ延長して授業は終わった。

 割れたガラスからは相変わらず、外の空気が流れ込んでくる。その風が真奈美の前髪を撫でる。

 空を見る。太陽がある。

 覚悟を決めた。

 真奈美は自分に確認するように頷くと、席を立った。制服のポケットに財布だけを入れて、教室を出た。休み時間の浮ついた雰囲気の廊下を抜け、下駄箱へと向かう。校舎内用のスリッパから革靴に履き替えると、真奈美は学校を抜け出した。

 昼休みでもないのに学校を抜け出す生徒など思っている教師はいないのだろう。外のコンビニに買い食いに出掛ける生徒を監視する為、昼休みには校門に立っているはずの教師も今はいない。やってみれば簡単なことだった。

 校門を抜けたところで、背後から真奈美を追うようにチャイムの音がした。もう次の授業が始まる。真奈美がいないと気付いたら、クラスメイトも教師も真奈美のことを探し始めるだろうか。誰にも何も言わずに出てきた。

 一人いなくなっただけでも大騒ぎになる。一人でも別の行動をしているだけでおかしな人間だと思われる。それがあの場所だ。

 ちらりと一度だけ学校を振り返ってから、真奈美はスキップするように走り出した。いつもは感じることのない、平日の昼間の空気が真奈美を包む。休日とはどこか違う気だるい雰囲気。たまにすれ違うのは買い物へ行く途中か、その帰りの主婦くらいだ。それか、散歩をしているお年寄り。彼らは不思議そうに真奈美を見ている。

 大丈夫、堂々と歩いていれば怪しまれない。そう、自分に言い聞かせる。早退する人だってたまにはいるのだから、おかしくないはずだ。

 休日に比べたら、歩いている人の数は格段に少ない。違う世界を見ている気分だ。

 前を見て昼の町を堂々と歩く。

 学校を抜け出すという非日常的なことをもうしでかしているという事実が、真奈美を大胆にしているのかも知れなかった。

 後ろめたさが無いと言えば嘘になる。だが、行動に移した。今しか無いと思った。今なら出来ると思った。

 ガラスを割ろうと思った。

 抜け出そうと思えばいつでも出来たのだ。こんなに簡単に学校を出られたことに、少し拍子抜けした。

 向かう先はもう決めてある。駅に向かっていた。

 海へ行く。太陽のある海を見てみたいと思った。そうしても、どうにもならないことはわかっているけれど、ただ見てみたいと思ったのだ。

 ちいさな私鉄の駅が見えてくるところまで来て、足を止める。何も持たずに来てしまったけれど、一つだけ持っていくものを思いついた。今の真奈美にとってはとても大切な物だ。

 今来た道を少しだけ引き返す。それから学校とは違う方向へと走り出した。




 ◇ ◇ ◇




 家の鍵は無用心にも開いていた。朝出る時には鍵を掛けたはずだから、きっと父が家を出ていった時に掛け忘れたのだろう。母が知ったらきっとまた怒るに決まっている。

 鞄ごと家の鍵を教室に置いてきてしまったことを思えば、開いていたのは幸いだった。学校を飛び出してきた時は、家に帰ってくるつもりなど全くなかった。

 家の中へ滑り込むようにして入る。母はまだパートから帰ってきていないようだ。父もどこかへ出掛けているのか、家の中には人の気配がない。

 真奈美は足を締め付けている革靴を脱ぎ捨てた。そのまま家の中へは上がらずに、履きなれたスニーカーに履き替える。そして、下駄箱の上のボトルシップに目を向ける。いつものようにそれはそこにあった。

 夢の中で、真奈美はこの船のように囲まれたガラスの中に、小さな瓶の中にいた。それは現実でも同じだ。

 ボトルシップに手を伸ばす。夢の中と同じようにひんやりと硬い感触が指先に触れる。だが、それは今は見えている。恐る恐る手を伸ばす必要は無い。

 真奈美はボトルシップを掴むと、家の外に出た。手に持ったボトルシップは、思ったよりも重かった。

 廊下を抜けて階段に向かう。下の階から人が上がってくる音がした。

 悪い予感がした。

 階段の踊り場に熊のようにのっそりと顔を出したのは、父だった。父はうつむきながらゆっくりと階段を上ってくる。真奈美にはまだ気付いていないようだ。

 皺のついたポロシャツに、よれよれになったズボン。少し白髪交じりの髪にはちらほらとふけが見える。仕事を辞める前に比べて、父は小さくなったように思えた。哀れに見えた。

 今、父には会いたくなかった。

 下に下りるにはこの階段しかない。後ろに下がってもこの狭いアパートの廊下では隠れる場所も無い。唯一あるとすれば、家に戻ることだけだ。それだけはしたくなかった。

 父が顔を上げた。

 真奈美の顔を見て父は顔をしかめる。


「こんな時間にどうした?」


 真奈美は答えなかった。無言のまま階段を駆け下りようとした真奈美の肩に、父の手が置かれる。振り払おうとしたが、無気力に見える父のどこにそんな力があったのか、意外と力強いその手はなかなか離れてくれない。


「学校はどうしたんだ」


 真奈美はぐっと口をつぐんだ。父から話し掛けてきたのは何日ぶりだろう。いや、何週間ぶりか、何ヶ月ぶりか。わからない。

 話す言葉など思いつかなかった。話しても、何かが変わるとも思えなかった。

 それに、言葉が出なかった。何かが喉の奥に詰まったような感じがしていた。真奈美はただ、肩を揺らしてその手を退けようとした。

 父もただ、真奈美の肩を掴んで黙っている。きっと、掛ける言葉も見つからないのだろう。真奈美は目を合わせなかった。

 これまで何も見ずに自分の殻に閉じこもっていたくせに、真奈美のことなど見てもいなかったくせに、こんなときだけ父親面などしようとするからだ。今だって仕事もせずにただぶらぶらと外を歩いてきた帰りなのだろう。その父に真奈美のことを言う資格などない。

 父が部屋の隅でなにもかもあきらめたように、ボトルシップ作りに没頭している姿を思い出すだけでぞっとした。それだって、外に出せるような代物では無い。アルコールのせいで震える手で作った瓶の中の船は、船出したとたんに壊れそうな出来だ。それでも、父はボトルシップを作り続けている。

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