第2話
焦点の定まらない目で、真奈美はぼんやりと校庭を眺めていた。
ガラスの向こうの世界では、どこかのクラスが体育の授業で野球をしている。ガラス一枚隔てているだけで、外の音は遠く聞こえる。
空は青く澄み切っていて、鳥が円を描いて飛んでいる。ここは山が近い。海は遠い。
あの鳥になりたい、と思う。
この閉鎖された空間から逃げ出したかった。
飛ぶ鳥から目を離して現実世界を見ると、そこはいつもの授業風景だ。黒板には真奈美にとって何の関係もない数式がどんどん増えていく。
黒い高校生の群れから一段高くなったところから、皺くちゃのスーツを着た男性教師は何かをぶつぶつ言っている。そんなスーツを着ているのならジャージにした方がまだマシだ。
机の上には何の意味もなく、教科書が開いて置かれている。隣には一応黒板を書き写しているノート。意味が無いと思っているのに、律儀だと自分でも思う。
だけど、周りもみんなそうしている。同じ方向を見て、黒板とノートに目を往復させて、手を動かす。
あるいは外を見て、あるいはこっそりとスマホをいじり、それぞれに時間を潰して、あるいはまじめに授業を受けて、同じ空間の中の籠もったような空気の中で過ごしている。
いつまで。一体いつまで、こんなことを続けていればいいのだろう。
卒業まで。
死ぬまで。
どこかへ抜け出すまで。
それでも全てを放棄してしまうには、一歩が踏み出せなかった。
音が響く。
真奈美は。ハッと我に返る。漂っていた思考が、一点にまとまる。
ふいに、静寂が破られた。
静かに波打っていた水面が急に荒れ狂ったように、それは突然起こった。
流れ星のように輝く尾を引きながらそれは飛び込んできた。重い音を立てて木の床でバウンドした瞬間、それまで静かだった教室が波立つように騒がしくなった。
続いて外から叫び声が聞こえた。
真奈美は飛び込んできた物に、もう一度目を向ける。流れ星に見えた物はただの使い古された野球ボールだった。その周りに散らばっているのは粉々になったガラスの欠片。輝く尾。
ちょうど誰もいない場所に落ちたのは、きっと幸いなのだろう。
それまで静かだった教室は、一変して別の空気に包まれる。落ち着かない空気の中で、教師だけがそれを静めようと無駄なあがきをしている。
教室に向かって、体育教師が何かを叫んでいるのが聞こえる。ガラスが割れた穴から聞こえるその声は、さっきよりもずっと近くに聞こえた。
閉じられた空間だったガラスの内側に、外の新鮮な空気が流れ込んでくる。
誰もがさっきまでの淀んだ空気を吹き飛ばす瞬間を望んでいたかのように、ざわめく。真奈美は一言も言葉を発せず、身じろぎもしないで、教室内が変貌していくのを見ていた。
やがて外で体育をしていた生徒達がやってきて、謝りながらガラスを片付け始めた。真奈美を含む窓際や落ちたボールの周辺の席の生徒達は、大きな音を立てながら机を移動させた。
ガラスで怪我をした生徒がいなくてよかったと、そんな話が聞こえてくる。ボールは運良くぽっかりと机の無い、教室の前のスペースに飛び込んだ。先生も廊下よりにいた為、怪我は無かった。
誰かが、割れたガラスで血まみれにならなくてよかったと、今更思った。
だが、もっと大切なことがあった。こんなにも簡単にガラスは割れるものなのだ。
その時間は結局、ボールが飛び込んできた後片付けで終わった。穴の開いたガラスは、まだそのまま放置されている。風が外の新鮮な空気を運んでくる。
次の時間、教師の声を遠くで流れる音楽のように聞きながら、真奈美はまた外を見ていた。さっきまで遠いと思っていた外の世界は、割れたガラスのところから繋がっていた。
外から流れてくる空気を吸い込みながら思い出したのは、今朝見た夢のことだった。あの夢のせいで今朝の寝起きは最悪だった。起き上がった時にはどんな夢だったかぼんやりとしか思い出せなかった。それでも、嫌な夢だったことはしっかりと覚えていた。
玄関でボトルシップを見たときに目を留めたのも、きっと夢の名残が残っていたからだ。今ならわかる。
あのボトルシップを作ったのは父だ。
父がボトルシップを作るようになったのは、勤めていた会社をリストラされてからのことだ。もっと詳しくたどれば、その後に母とよく喧嘩をするようになってからのように思う。
父は再就職できなかった。年齢がいってからの就職は難しいと言っていたのを覚えている。それでも最初は頑張っていた。まじめな父だったから。けれど、そのうちに不景気だから仕方ないと、諦めてしまった。それから父はたまに日雇いの仕事をする以外、家の中に籠もるようになった。それまでは飲まなかったはずのお酒を飲むようになった。父の臭いは変わった。
家の中では喧嘩が絶えなくなった。喧嘩といっても、いつも一方的に母が怒るだけで、父は言い返しもせず、ただぼんやりとしているだけだった。
整然としていた家は、段々と荒れ放題になっていった。母も家のことはもう何もやりたくないようだった。
父は家の中だけでは飽き足らず、自分の殻に籠もるように、船を瓶の中に詰めだした。いわゆるボトルシップというやつだ。
すでに組み立てた船を再び解体して、もう一度瓶の中で組み上げる。その姿は父の姿と相まって真奈美の目には滑稽なものに映った。
その作業の一体何の意味があるのか、真奈美には理解できない。
船は閉じ込めておくものなんかじゃない。
頑丈なガラスの瓶の中に閉じ込められて、彼らは本当は船出のときを待っているのではないだろうか。
かわいそうだ。
真奈美がそんな風に思うのは、自分の今置かれている状況と重ね合わせて考えてしまっているからなのかもしれない。
とにかく、何処かへ行きたかった。
それが何処かはわからない。だが、それは確実にここではない。もっと別の、両親からも学校からも解放された何処かだ。
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