彼女の船出

青樹空良

第1話

 潮の香りがした。耳の奥を波の音がくすぐるように響いていた。

 海の気配を感じる空気の中で、真奈美まなみは目を開けた。

 目の前に広がるのは、どこまでも続く大海原。視界をさえぎる物は、どこにも無い。穏やかに海面を揺らしながら、海はどこまでも続いている。

 遠くへ行くほど、海は薄い青から濃紺、深緑へと色を変える。空と海の境目にはくっきりと水平線が見える。

 真奈美はそんな海の真ん中で、小さな船に乗っていた。真奈美の乗っている船は、どう見ても海にはそぐわない代物だった。

 その船は公園の池でよく目にするような、使い古された手漕ぎボートだった。黄色いペンキの塗装が剥がれ、くすんだ色の木材が顔を出している。波に揺られる度、ボートはその振動に耐えられないとでも言いたそうに、木と木がこすれる鈍い音を響かせた。

 真奈美は、いつの間にか手に持っていた古ぼけた木のオールで重い海面を掻いた。進んでいる手ごたえは感じられない。まるでオールで粘土を捏ねているようだ。

 進めない。どこへも行く当てが無いのに、どこへ行けばいいのかわからないのに、焦りだけがある。

 腕が痺れだした。オールを握る手が赤い。さっきよりも、オールが重い。腕が重い。体が重い。

 それでも真奈美は船を漕ぐのを止めてはいけない気がして、腕を動かし続けた。

 何も目印が無い海の上だ。もしかしたら自分でも気付いていない間に進んでいるのかもしれない。そう、自分に言い聞かせた。

 変わらない景色の中にいると、進もうとしていることが無駄なことのように思えてくる。どこへ行っても同じだと思えてくる。進むことに意味など無いのでは無いかと。

 何度も手を止めようとしたが、結局そうしなかった。諦めてはいけないと思った。一度止まってしまったら、再び手を動かすことは出来なくなる。そんな気がしていた。

 どれくらいそうしていたのだろう。ボートの船首が何かにぶつかった。行く先には何も見えない。あるのは水平線の向こうまで続く海だけだ。

 だが、確かに何かにぶつかったような小さな衝撃を感じた。波に揺られる度に、小刻みに何かが当たっている。

 目の前には、見えない壁がある。あり得ないと思いつつも、そうとしか考えられない動きをしている。

 壁にぶつかったボートは波に押され、船首を軸にして向きを変える。もう一度、軽い衝撃があった。今度は真奈美のすぐ横、ボートの腹が壁に当たったようだ。

 気味が悪くて、壁に当たっていないほうの端に身を寄せる。少しでも得体の知れないものから離れたかった。

 じっと目を凝らしても、視線の先には何も見えない。

 真奈美はそろそろと手を伸ばした。

 震える指先に、硬いひんやりとした物が触れる。


「!?」


 声にならない叫びを上げて、真奈美はさっと手を引いた。

 そこには、確かに壁が存在していた。光の反射も何も見えない。見えない壁。

 理解の範疇を超えたものを前にした不安が胸の中にこみ上げてきて、周りを見渡す。海はこれまでと何の変わりもなく、穏やかに波打っている。頭上には高くへ行くほど濃い色を描くブルーグレーの空がある。

 空を仰ぐとくらり、と眩暈がした。

 違和感があった。

 教室の自分の席が一つだけずれている。そんな妙な気分。

 どこがおかしいのか、もう少しで答えに手が届きそうなのに、触れようとするとするりと逃げられた。

 その原因を確かめるように、もう一度真奈美は壁に触れた。そうしなければいけない気がした。

 恐る恐る手のひら全体を当てると、それがしっかりした壁なのだとわかった。撫でるように手を滑らすと、それは滑らかで、まるでガラスのようだった。ひんやりと冷たかった。

 どうして海にこんなものが存在するのか。これでは、どこにも行けない。

 さっきまで船を漕いできた苦労が全て無駄だと知る。

 何かに救いを求めるように、空を仰ぐ。

 雲一つ無い、どこか暗い空。遮るものは何も無い。殺気感じた違和感の正体にようやく気付く。

 遮るものは何も無い。あるべきものも、何も無い。

 そこには、太陽が無かった。




 ◇ ◇ ◇




 再び真奈美は目を開ける。今度は目の前に海は広がっていなかった。

 あるのは、古い天井。いつもの部屋。毎日抜け出したいと思っている場所。ぼろアパートの二階、その中の狭い一室。

 三人しか住んでいないはずの狭い家の玄関には、乱雑にその倍以上の数の靴がばらばらな方向を向いて散らばっている。靴箱には靴だけじゃなくて、雑多なものが詰め込まれている。

 ばらまかれた靴の中にある、自分の黒い革靴にターゲットを絞ると、軽く飛ぶ。いつものようにつま先で靴底に着地する。お気に入りのスニーカーに比べて格段に履きにくいそれに、足を押し込んだ。他の家族の靴に足を付けるのは嫌だ。

 薄汚れた靴箱の上には、立派な船の模型が入った瓶が飾られている。場違いだ。こういうものは立派な家、綺麗に整えられている家に飾ってこそ栄えるものだ。こんな汚いところに飾ることに何の意味があるというのだろう。

 いつもはそんなものに目を向けたりしない。無視するどころか、見もしない。だが今日は何故か、玄関に立ったとき一番に目に飛び込んできた。見たくも無いのに。


「いってきます」


 呟くような真奈美の言葉に、返事はない。

 一つだけため息を吐くと、真奈美は家を出た。中には一応人がいるはずだが、念のため鍵をかける。

 あんな人は、いてもいなくても変わらない。

 さっき横目で盗み見た父の姿が頭をかすめた。背中を丸めて、所在無さげに畳部屋の隅に座っている父。その周りには小さな木のパーツや、工作に使う道具類が散乱していた。こんなに早くから起きているのなら、仕事にでも行けばいいのに。

 母は早朝からパートに出掛けている。

 朝三人で顔を合わせたことなど、真奈美が高校に上がった一年半前から全く記憶に無い。中学の頃から考えても、そんなことは年に数回しかなかった気がする。

 朝ご飯に限らず、ばらばらに食事をすること。それが習慣になっていた。逆に三人が揃って朝食を摂っているところを想像すると、それはそれで居心地の悪い光景な気がした。というより、気持ちが悪い。

 一体何を話せばいいのか、想像もつかない。

 朝だというのに薄暗いアパートの階段を下りる。似合わない花柄のエプロンをした隣のおばさんとすれ違って、頭を下げる。

 狭い路地に出ると、スーツを着た中年の男性が急ぎ足で歩いていた。父のあんな姿はもうずっと見たことが無い。

 苔がところどころに生えたコンクリート塀の上には、ぽっちゃりとしたトラ猫が悠然と座っている。薄汚れていて可愛いとは言い難い。

 何度学校へ行きたくないと思ったのだろう。明日こそはこの制服を脱ぎ捨てて、何処かへ行こうと何度も思った。

 それでも自然に、足はいつもの歩き慣れた道を辿りだす。徐々に増える同じ制服の群れに飲み込まれて、流れに運ばれるように進む。

 そうしていつの間にか学校の門が見えてくる。そんな毎日。

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