第2話 洞窟の少年からもらった茸をめぐるひと騒動 🍄



 釣瓶井戸の滑車の向こうから、鋭い光線が飛んで来る。色づき始めた木洩れ日? それもあるだろうけれど、もっと別の、意志を持っていそうな真っ直ぐなもの……。汲み上げた水で野沢菜を洗おうとしていた千代がふと顔を上げてみると、その光線が大きく揺らいで、なにかが身を隠すようにした。え、なに? 猿、猪、まさか熊?


 ふいに逆光が割れて人影のシルエットが浮き彫りになったので、あっと叫びそうになった。季節はずれの半袖半ズボンから枯枝のような手足が突き出ている。細い全身がねずみとも茶とも言いがたい色に汚れきっていて、バサバサに伸び放題の髪の下にとんでもなく明朗な双眸が瞬いていなければ人間と見なせないような男子だった。



      *



 父親と洞窟に住んでいるという山の子にちがいない。千代は直観するが、われながら不思議なほど怖くはなかった。人は生まれついて境遇を選べないのです、たまたまそこに生まれて来たというだけに過ぎず、もしかしたら、きみがその子で、その子がきみだったかも知れないのですよ。川上先生の言葉が、卒業後も千代を支えている。


 崖の上から自分を見ている少年がもうひとりの自分かも知れないという発想は、むしろ少女を楽しくさせた。あんなに勉強したかった気持ちを封じこめて野良仕事に家事手伝いにと働きづめだった日常をワクワクさせる冒険心が湧き起こって来る。もしも少年と入れ替わったら、どんな珍しいよろこびや当惑を体験できるのだろう。


 ――この家に生まれたが運のつきで、近所の子どもたちと同じように、家のために精いっぱい働かされて年ごろになったら同じような貧しい農家に嫁に行かされて、腹のあく間もなく子どもを産まされ、村の外に出ることもなく雑巾のような一生を送るのだと諦めていたけど、もしかしたら、まったく別の生き方があったかも……。


 そう想像するとぶかぶかの半ズボンを荒縄で縛っている少年がヒーローに思われて来て、千代は自分でも思いがけない行動に出る。ちらっと目で合図しておいてから、洗いかけの野沢菜の束を放り上げてやった。山暮らしの機敏さでキャッチした少年は水のしたたる野沢菜を高々と掲げてみせ、つぎの瞬間には木洩れ日に消え去った。


 

      *



 千代と少年のひそかな交流はだれにも知られなかった。人の心に敏感な上の弟は念願どおりの高等小学校通いで不在がちだったし、ほかの妹弟たちは歳の近い者同士の競い合いやふざけ合いに忙しくて歳の離れた姉の行動に興味を持つ者はいなかった。同い年の少年少女がいつの間にか親しくなっていたことを大人たちも知らずにいた。


 その状態に安心した千代は、井戸端のジャガイモやネギを少年に分けてやった。施しのつもりではなく、大家族の食材のほんの一部をお裾分けする気持ちだった。季節の野菜を少年も素直に受け取った。かといって物欲しげというふうではなくて、そこだけ別の生き物のように澄んだ双眸を、心からうれしそうに細めるのだった。



      *


 

 秋も深まったある日、少年は驚くほどたくさんの茸を入れた破れ駕籠を携えて釣瓶井戸の向こうにあらわれた。いつもどおりの身振りで、いままでのお礼だと告げる。ムラサキシメジやリコボウなど美味な茸がどっさり入った駕籠を受け取ると、千代も身振りでありがとうを表わし、薄紫の口を開けた木通の実をいくつか投げてやった。


 この何気ない親交が思いもよらぬ結果を招くことになった。夕飯のとき問われて茸の出所を告げた千代は、いきなり父親に怒鳴られた「家族を危険にさらす気か?!」え、どういうこと? あの子、なにもしやしないと思うよ。そうじゃなくて、病気のことだ。家族のだれかが罹ったらこの村に住めなくなるんだぞ、分かっているのか?!


 感染すると皮膚がただれたり関節に瘤ができたりして身体の随所がくずれて来る。少年の父親はそんな宿病に罹ったので集落から追われて山の洞窟に住んでいるのだ。それを聞いた千代は恐ろしさにふるえた。父親や感染症への、ではなく、自分を守るためにどんな薄情も恥じない人間への……。川上先生に是非を訊ねてみたかった。


 

      *



 少年はそれきりすがたを見せなくなった。山の洞窟を警官がおそって、父子は遠い南国の施設に移送されたと千代は風のうわさで知った。自分のむすめと少年の交流をどう思っているのか、父親も母親もその話題を口にすることはなかった。高等小学校へ通っている弟だけはもの問いたげだったが、千代子は黙って目を逸らせつづけた。


 この件は千代に大人への根強い不信を植えつけた。川上先生の言う「たまたま」を両親や村人たちはどう思っているのか。もしかしたら自分だったかも知れない他者の苦しみをどうして放っておけるのか。密告者が父親だったら(たぶん、そうだろう)自分は生涯あの人を許さない。貝のように気持ちを閉ざした千代はかたく誓った。




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