東雲千代の場合/リミットの青春 🪻

上月くるを

第1話 白樺派教育の余韻のなかの尋常小学校 🌳




 意外に強い二月の陽光に泰山木の肉厚の葉がてらてら油のように光っている。密生して日陰になっている枝や瘤状になった幹にはまだ雪が残っていて、日向の葉とその裏と残雪の対照が日本画のように美しい。寄り添い合って地面から天空に伸びた二本の幹を連理と呼ぶと、五年生から担任になった新卒の川上先生が教えてくれたっけ。


 この大木に真っ白い大きな花が咲く初夏のころ、自分はどうなっているのだろう。尋常小学校を出たら上の学校に進みたいが、八人姉妹兄弟の総領にそんなわがままが許されるはずがないことを承知しているので、両親には希望を告げたことがない。でも、勉強が好きで本が好きな性質なので、どうしようもなく上の学校に憧れる。


 姉の気持ちを知っているのは年子の弟だけだが、その達治も同じく勉強好きゆえ、なんとか上の学校へ進めるように三反百姓の父母にとりなしてやりたい。そのためにも自分の進学は諦めねばならないが、そう思いきるには十二歳はあまりにも未熟に過ぎ、日々、なんとも言えぬもやもやが嵩じていくのをどうしようもできていない。



      *



 鹿窪という地名が示すとおり城下町の外れの窪地にある千代の家は、敵の侵入を防ぐため複雑に入り組んで構成された集落のなかでも最も奥地に位置し、そこから先は行き止まりになっている。懸崖がそそり立つ場所に掘られた釣瓶井戸には背後の山から伸びて来た木通の蔓が絡まり、秋には薄紫に熟した実が蠱惑の口を開ける。


 真冬のいまはあたり一面の冬景色で、山中の洞穴に住むと聞く物乞いの父子は、この寒さをどう凌いでいるだろう、からからと釣瓶を操って井戸水を汲み上げながらその暮らしを想像してみる。末子を産んだ母の産後の肥立ちがよくないので、おしめの洗濯は総領の役目になっていた。もっとも、いまに始まったことではないが……。


 ――洞窟の入口は狸の巣穴のそれのように目立たないが奥ゆきはかなり広くて、床は平らに踏みならされ、林檎の木箱を利用した机やちよっとした棚もあって、生活に必要なものはたいてい揃っている。夜はいい匂いがする枯葉の布団にもぐりこむ。外は真っ暗で、母さんの星を中心に数多の星座が父と子の暮らしを見守っている。


 作文が好きな千代は、心にかかる題材を見つけると頭のなかで文章を組み立てる習慣が身についていた。実際には見たことがない物乞いの父子の生活も絵のようにあざやかに思い浮かんで来て、少女の心を甘酸っぱいものでいっぱいにする。母親はいつ星になったんだろう。こういうのを不条理というんだと川上先生が言っていた。


 ちなみに、大正時代の長野県の教育界を席捲した白樺派教育(武者小路実篤らが創刊した文学同人誌『白樺』から派生し、児童の自発性を重視する斬新な教育)は教科書を使わない独自の授業が行政や保護者の不安を招いて呆気なく衰退し、昭和二年入学の千代は直接の影響を受けていないが、その余韻は随所にのこっていた。



      *



「姉ちゃん、それが終わったら風呂の水汲みしろって~、とうちゃんが」二番目の弟が家のなかから叫ぶのへ「水はおまえが汲みなって言われたんだろう、わたしは薪を焚くよ」答えておいて千代は真っ赤になった両手に息を吹きかける。どういうわけか要領がいいのだ、あれは。それでなきゃ大家族を渡って行けないことを知っている。


「腹が減ったよ~。姉ちゃん、こねつけ作って」三番目の妹の声が聞こえる。この子も長姉に頼って来るのは、臥せりがちな母親に幼いながらに遠慮してのことだろう。所帯やつれした妻につぎつぎに子どもを産ませる父を千代は内心で疎んじていたが、むろん、そんなことは気ぶりにも見せない。家父長は絶対的な権力者なのだから。


「ちょっと待ってな。おしめを干してからな」うしろも振り返らずに答えておいて、濯いだ布きれを絞りかけるが、あまりの冷たさに手が悴んで力が入らない。そのうえ指の関節のアカギレから血が滲んで泣きたくなるが、唇を結び、ぐっと堪える。春が近いし、母の床上げもそう遠いことではないだろう。ひと筋の希望にすがる。




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