第3話 泰山木の花が咲いて千代の胸は高鳴る 🌼



 泰山木の花が咲いた。純白の手拭いをほぐしたように清楚でいて、どんな花よりも華やかで、見ているだけで胸がどきどき高鳴って来る……ぼうっと仰いでいた千代はふいに義雄に会いたくなった。去年の盆踊りで知り合った、となりの集落の三男坊、小柄な千代子より頭ひとつ大きい筋肉質の偉丈夫だが、細面の横顔がやさしい人。


 父と母になんと言おうか。朝星夕星の野良稼ぎに一所懸命で家中の細かいことに気づかない父親はともかく、病み上がりで日ごろの神経質にいっそう拍車をかけている母親は、年ごろのむすめの上気を見逃すはずがない。でも、会いたい。ひと目会って気持ちをたしかめて安心したい。できれば息を、熱い体温を間近に感じたい。


 ――わたし、どうしちゃったんだろう。一度会っただけの人をこんなに思い詰めるなんて。たしかにあの晩、盆踊りが終わってからも何時間も話しこむほど楽しかったけれど、別に浮ついた話をしたわけではなく、ぽつりぽつりと語ってくれる小説や詩の話が面白くて、学校を卒業してからこういう話に飢えていたことがよく分かった。


 五つの山の向こうの村に住む若者に会いたくて、毎晩、ひとりで山を越える恋するむすめ。小学校の図書館で読んだ土地の民話『躑躅のむすめ』の主人公の気持ちが痛いほど分かるような気がするが、大人のうわさ話で耳年増になっているせいか、想いを口にすることは憚られる。いけないことをするような不純な心根のような……。



      *



 そんな気持ちを汲んでくれたのが弟の達治で「姉ちゃん、行って来なよ。父ちゃん母ちゃんにはうまいこと言っておくからさ。学校を出てから何年も家のために働いて来たんだからお天道さまだって見て見ないふりをしてくれるよ」持ち前のユーモアでそそのかして(笑)くれ、こっそり手筈も整えてくれたので、千代子は思いきった。


 山の洞窟の少年との身振りだけの逢瀬を忘れたわけではなかったが、その思い出だけに縛られるには十八歳は若すぎる。なにより心惹かれるのは川上先生と同じ匂いがする義雄のインテリジェンスだった。長兄の影響でロシア文学に親しみ、難解な哲学や思想関係の書物も読んでいる青年への憧れは、無学な父親への反発でもあった。


 二年前の夏、盧溝橋事件を機に支那事変が勃発してから、世の中には不穏な空気が色濃く立ちこめている。この先、わたしたち若者の未来はどうなるのか、好きな異性に心をときめかせていられなくなる時代が近づいている、そんな気がしてならない。いまのうちに逢いたい人に逢っておきゃなきゃという切羽詰まった思いでもあった。


「義雄さん、押しかけて来てごめんね。でも、わたし、どうしても逢いたくて……」

「おれのほうこそ千代ちゃんの面影が忘れられなくて弱っていたんだ。うれしいよ」

「まさか義雄さんが戦争に取られるなんていうこと、ないよね? わたし、心配で」

「こればかりはなんとも言えないけど、いまのところ兄貴にも来ていないよ、赤紙」



      *



 恋人たちの短い夏が駆け足で通り過ぎ、近くの川原に設えられた舞台で盂蘭盆会の締めとなる盆踊りが始まると、千代は大胆に義雄を誘って踊りの輪に入った。もはや父母に知られても、集落のうわさの種になってもかまいやしなかった。いまこのときを逃せば、自分の青春は二度と巡って来ないような、そんな気がしきりにしていた。


「義雄さん、早くこっちこっち。さあ、ふたりで思いきり楽しく踊りましょうよ」

「そんな大胆な……大丈夫かい? 千代ちゃん。村のうわさになったりしない?」

「うわさぐらい平気よ。好きな人と踊るのがそんなにいけないこと? でしょ?」

「男のおれはいいけど……まあいいか、二度とないかも知れない夜なんだからな」


 果たして、山の洞窟の少年のときのように露骨な反対はしなかったものの、父親が義雄を気に入ってはいないことを千代は肌身で感じ取っていた。「あんなアカが婿とあっては世間さまに申し訳が立たねえぞ」「いまのうちに別れさせたほうがいいね」両親のひそひそ話を知ると、義雄さんはわたしが守る、千代はさらに熱くなった。




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