抱っこの領分

そうざ

Territory of Cuddles

 小学三年生、八歳だった。

 元来が内弁慶の僕は、目立たない生徒だったと思う。成績は先ず先ず、駆けっこはまあまあだった。

 担任は男性で、年齢は二十代だったろう。両親よりは若そうに見えた。後にも先にも僕が懐いた唯一の教師だった。

 名前をNと言った。


 Nが人気者だったのは、よく一緒に遊んでくれたからだ。休み時間や放課後は勿論、しばしば授業を潰し、教え子を引き連れて校庭へ繰り出したものだった。鬼ごっこやドッジボール、リレー等に興じる僕達に、他の教室から羨ましそうな視線が降り注いだ。その光景はいつも僕に優越感を与えた。

 Nの人気振りは保護者の間にも周知されていた。子供に人気があるというだけで暗黙の信頼を寄せていた事だろう。


 その頃、クラスで将棋が流行った。火付け役はNだった。僕も生まれて初めて将棋の面白さを知り、その手の本を買い込んで強くなろうと努めた。

 Nは毎日のように生徒と将棋盤を囲んだ。給食の配膳中まで対戦時間に当てる程だった。Nは子供相手でも決して手を抜かなかった。単に大人気おとなげがなかったのか、教育の一環だったのか、そこまではよく分からない。

 その日の対戦相手に選ばれたのは僕だった。配膳が終わり、給食当番が戴きますの号令を掛けると、楽しい給食の時間が始まった。

 当然、対戦は一旦お預けになると思っていた。ところが、Nは盤面に食い入っていて一向にめようとしない。

 僕は何も言い出せなかった。僕が内弁慶である事以上に、Nの鬼気迫る真剣さが中断を許さない空気を作っていた。

 給食の時間が刻々と終了に近付く。子供達の中には僕達の様子を訝し気に見ている者も居た。それでもNはまるで意に返さなかった。

 結局、僕は負けた。わざと負けるように駒を動かしたような気もする。漸く解放された僕が急いで給食を掻き込んだ事は言うまでもない。

 Nは何処か得体の知れないところがある、と感じた出来事だった。


 将棋の他にもう一つ、深く記憶に残っている事柄がある。

 Nは窓際の自分のデスクで生徒を膝に乗せる習慣があった。その対象に男女の区別はなかったが、誰彼だれかれ構わずでもなかった。毎回どんな誘い文句であんな事を可能にしていたのか、不思議と嫌がる子供は居なかったように思う。

 実際、僕も抵抗しなかった。それでも人形のように膝に乗せられた途端、見る見る体が熱くなるのが分かった。同級生の誰かに顔が真っ赤なのを指摘され、余計に恥ずかしくて堪らなかった記憶もある。

 肌の凹凸と髭の剃り跡、手の体毛と筋と血管、煙草の臭い、そして温もり、解放されるのを待つまでの硬直した一時ひととき

 でも、Nのこの行為を親の耳に入れる生徒は居なかったに違いない。生徒は望んではいないけれど、これはNなりのスキンシップで、何よりもNを上機嫌にさせる。これくらい担任教師と生徒との距離が近いのはうちのクラスだけ――そんな優越感が働いていた。

 僕はNに気に入られてる、クラスメートの中でも特に好かれてるんだ――そう素直に解釈していた。


 やがて学年が上がり、クラス替えが行われた。僕はNの保護下から解き放たれてしまった。

 Nは新たなクラスの担任になっても変わらず授業を潰して遊んでいた。僕は窓辺の席で校庭を眺めながら、自分がもう優越の側に居ない事を悟った。

 或る時、Nと校内で鉢合わせる場面があった。Nは僕の顔を憶えていたものの、やけに他人行儀だった。新たな教え子達に見せる笑顔を僕に向ける事はもうなかった。

 僕はもうNのお気に入りじゃないんだ、あれは偶々担任だった期間だけのお愛想だったんだ――僕は自分を納得させても尚、一抹の寂しさに暮れていた。


 僕が小学生でも子供でもなくなってから随分と時が流れた。

 新居へ越す際に見付けた卒業アルバムには、Nが別のクラス担任として写っている。二十代の若々しさは感じられず、銀縁眼鏡越しの眼光は威圧的な程に鋭い。

 Nが存命だとしても、とっくに引退している筈だ。果たして何事もなく教師生活を全う出来たのかと要らぬ想像をしてしまう僕が居る。

 校内で偶さか相見あいまみえた時のNの素っ気なさ。僅か一歳でも大人に近付いた僕に、Nはもうという事だろうか。

 僕は今、戸惑っている。

 内縁の妻の子はすっかり僕に懐いた。微塵の警戒心もない。その子を膝に抱え、その温もりを感じる度に、僕はNの心性に仄暗ほのぐらちかしさを覚えている。

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抱っこの領分 そうざ @so-za

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