第15話 異常の兄
普通区と闘争区の違いとは何か。
闘争区は武器屋や闇市場が存在し、罵詈雑言に満ちた闇の都市だ。対照的に普通区では雑貨店や飲食店が展開されており、誰もが来たる【血闘】に怯えながらも、活気に満ち溢れた光の都市。
闘争は禁じられている、完全無欠の平和の都市。
そんな光の都市でも、陰の部分はある。
犯罪と同じだ。規則を破る罰則は存在するが、そもそもの罪状を防ぐ機構はない。
普通区に居住する【
例えば、闘争厳禁の規則を破ってまでも、恩讐の炎に焼かれる者とか。
『お前たちが【闘威三黎】の家族かぁぁぁ!!』
『ッ、フィロス、アガロス、逃げろッ!』
憔悴した女は、少年と双子を見た瞬間、
少年は反射的に護身用の短剣を取り出し、女の剣を受け止める。短剣越しに伝わる鈍い衝撃に吹き飛ばされそうになるが、背後の守るべき存在の前で無様は見せられない。
突然の強襲に腰を抜かしている双子に怒鳴り声に近い声を上げる。
『で、でもレイキ兄さんが……!』
『俺は大丈夫だ! いいから早く行け!』
『……行くよ、アガロス』
『姉さん!』
『レイにぃ、絶対プテにぃかお母さん連れてくるから! 負けちゃダメだよ!!』
『ま、待って! 離して姉さん!』
兄を案じる片割れの手を無理やり引っ張り、涙を溜めるフィロスはある方角めがけて疾駆する。何とかしてくれるもう一人の兄と養母を連れてくるために。
それで良いと少年は口角を上げ、相対する女に向き直った。
狂気に血走る眼が、まだ12歳の少年に突き刺さる。
『あああああああ! わたしが、あの人を殺した【闘威三黎】の大切を潰す!! あは、あははははは!』
『……言葉は通じないみたいだな』
真正面から打ち合う。
闘争義務のない少年にとって、【血闘】経験済みの女は脅威だったが、彼は一歩も引かずに対応してみせた。
もちろん無傷とはいかない。
防ぎきれなかった剣閃が衣服を切り裂くが、致命傷だけは回避していた。
『なんで、こんな事するんだ』
『決まってるわ! 【闘威三黎】はあの人を殺したの、だから私も
『人を傷つけるのに、道理もクソもあるか、よッ!』
狂気に魅入られた女の胴体に回し蹴りを放つ。
闘争義務のない一回りも下の子供に一撃入れられるとは思わなかったのか、女は瞠目し、くの字型に吹っ飛んだ。
壁に突っ込み、瓦礫の山から這い上がった女は頭を掻き毟り、悲鳴に近い怒号を上げる。
『なん、でよ……! 私からあの人を奪ったんだから、私も奪わせてよ!!』
瞳から涙を溢す女を見ても、少年は何も言わない。
女は嘆き疲れ、嫌になる程の晴天を見上げてから、赤い石を取り出した。
『あは、もういいや』
『……』
『――貴方だけでも、道連れにしてやる』
『ッ!』
女が持つ赤い石……異国では『爆裂石』と呼ばれるそれは、魔力を込めるだけで爆発を起こす代物だった。
少年には学がなく、明細な知識は無い。しかし、あの石はまずいという曖昧な危機感だけが彼を突き動かす。
『【闘威三黎】に呪いあれ』
爆裂石に魔力を流し込み、女は少年を巻き込んで自爆しようと画策する。
赤い光を放ち、内包された神秘が暴発する間際、少年はあろうことか女へと突っ込んだ。
目を見開く女の懐に潜り、爆発寸前の爆裂石を掴み取る。
『ッ!』
『【圧縮】』
瞬間訪れた小規模の爆発。
橙の衝撃が拳を起点に発生し、少なくない爆風を生んだ。
少年の拳のみで展開された爆発は、女と少年の命を奪う威力を持たず、少年の掌に重傷を負わせるのが精々だった。
思わぬ展開に女は歯をガチガチと鳴らし、身体が痙攣し始める。
『なん、で……』
『反省しろ』
『か、はッ……』
少年は重傷の拳を強く握り、女の胴に重い殴打をくらわせる。少年の強打に耐えきれず、女はその場で気絶した。
女が完全に気絶したことを確認し、少年は掌を開いて顔を顰めた。夥しい火傷に多数の裂傷、回復痛がきつくなるとげんなりしている。
そして、落ち込む少年に近づく一人の影がいた。
『れ、レイキ……』
『おっ、プテロン。聞いてくれよ、襲ってきた奴を倒せた』
少年は兄に向けて親指を立てる。異国ではぐっじょぶと呼ばれる指の組み方らしい。
双子を守り抜き、強そうな女を倒した。
いつも褒めてくれる優しい兄は、諸手を挙げて称賛し、頭を撫でてくれる。
そう、思っていたんだ。
『あれ……?』
『レイキ、お前は――――』
『レイにぃ!!!!!』
『レイキ兄さん!!!!!』
兄の言葉を遮るよう、泣き腫らした双子が少年に飛びつく。
弾丸のような抱擁を真っ向から受け止め、少年は顔を綻ばせた。プテロンを呼んで、そのまま付いて来たようだ。両腕から伝わる双子の体温が、二人の生の鼓動を感じさせ、胸が暖かくなった。
身を賭して双子を守った、その事実に喜ぶ
なぁ、プテロン。
――どうしてあの時、泣きそうな顔したんだ?
これが、レイキにとっての初めての戦闘の記憶。
プテロンが一週間帰宅しなかった頃から、少し経った時の記憶だ。
何故いま思い出したかは分からない。ただ、苦痛に歪んだ兄の表情が鮮明に記憶に刻まれている。
「ふふっ、気合いは十分のようだね」
「……先生。気配を消して話しかけるのはやめてくれ」
「え、やだよ。こっちの方が君の反応、面白いし」
「うっわ……」
長いレイキの回想を中断したのは、賢者の声だった。
場所は
本気で引いているレイキ見て、賢者は妖艶に微笑んだ。
「酷いなぁ、可愛い弟子のためにアドバイスをしようと思ったのに……」
「……」
「全く信用してないね! これでも僕は師匠なんだけど!?」
「【
プテロンの十八番、常時身体強化魔術【
もちろん、【漆黒】や身体強化を含む無魔術は使用可能だが、プテロンの代名詞とも言える技を制限するのは、大きな利点だろう。
勝つためには【
「まぁ、間違ってはないけど正解でもないね」
「よく分からない」
「ありのままの自分をぶつけなさい。それがプテロンにとって、何よりも精神攻撃になる」
またそれかよ、とレイキはジト目で賢者を見つめる。詳細を聞いても、変に意識しない方が効果があるとしか言われない。
弟子の訝しげな視線を受け流し、賢者はレイキの頬に美しい色白の手を添える。
「僕から言えることはただ一つだけ」
「ちょ、こんな時までふざけないで、」
「――見極めろ」
「……ッ」
力強い囁きが大気に溶ける。
神秘的な賢者の瞳に呑み込まれる。
「君が本当に斬るべきものを見誤るな」
斬るべきもの。
これから相対するのはプテロンのみであり、己が剣を振るう対象たれば彼に他ならない。しかし、賢者が言いたいのはそんな単純な事ではなく、もっと根本的なようなものに思えた。
助言の意図を汲み取れず、賢者に視線を向けると、彼は華麗にウインクをしている。
「この意味を本当に理解できた時、君とプテロンは真の意味で共に戦うことができる」
「共に、戦う……」
放たれた言葉を、舌の上で転がす。
思えば、プテロンに支えてもらったことは沢山あるが、直接的に共に戦ったことはない。
「ふふふ、精一杯悩みなさい。悩むことは若者の権利で、悩む時間を作ることは大人の責務だ」
「……」
「さぁて! 僕は観客席に戻るとしよう! 最高の兄弟喧嘩、楽しみしているよ」
アレスはいないから普通に見れるよ〜、と気の抜けた様子で賢者はレイキから離れ、闘技場とは別の、観客席への道に進んでいった。
真紅の瞳の追及をすっと躱し、緩やかに流れる川のように立ち去る。
「ふぅ……」
軽くため息をつき、静寂が支配する一本道を歩く。
コツコツと小気味良く鳴り響く足音が、通路に木霊する。
心臓の鼓動が、足先の末端まで通じている。
兄の気持ちも、師の真意も、学のない矮小の頭では分からない。
「だけど」
術器の双剣を顕現させ、柄を強く握りしめる。
「俺は【下剋上】の褒美を取り下げる気はない」
視界は良好。
身体の傷みはない。
呼吸も安定している。
チラリと観客席に視線を向ければ、笑顔で手を振る賢者と、その隣でウザったるそうに顔を歪めるイコル。おそらくダル絡みされているのだろうと思い、そっと目を逸らす。
反対側の北門に意識を向けると、気だるげに戦場へ歩みを進める、黒い外套を纏った兄の姿。
「負ける気はないぞ、プテロン」
「……おいおい、まじかよ」
「なんだい、せっかく来てやったんだ。嬉しい顔の一つくらいしろ」
「生憎、感情表現が下手くそなもんでな。育ての親に似ちまったんだろうなぁ」
「捻くれたところまで継がなくていいんだよ、バカ息子」
南門にてレイキが賢者に助言を貰っていた頃、プテロンは驚きの人物と相対していた。
いつもの如く軽薄な笑みを浮かべるプテロンは、有無を言わせぬ口調で言った。
「どういう風の吹き回しだ、ヘリオス」
片頬をニヤリと釣り上げる赤髪の女――ヘリオスは気分が良さそうに返答する。
「レイキの先生から誘いを受けたのさ。『兄弟喧嘩を見る気はないかい!?』ってね」
「あの真っ白クソローブ野郎……!」
さすがに二人は留守番だけどね、とヘリオスは添えた。
レイキの褒美が施行され一週間、【血闘】の恐怖から一時解放されたトラキアは、一歩ずつではあるが平穏を享受している。それこそ、普通区ともなればわざわざ
余計な事をしてくれた賢者に殺意を覚える。
脳内で頭にコツンと手を当てながら舌を出すロクでなしが浮かんできたので、
「俺のところよりも、レイキの方に行けよ。あいつこそ、お前が接するべき相手だと思うがな」
「家出息子と違って、レイキとはしっかり話をしてあるんだ。それに、私よりも適任がいるだろうからね」
「そいつは用意周到なことで。俺はいつもと変わらんから、さっさと客席にィッ!?」
「まだ私も衰えていないようだね」
しっしっ、と追い払うように手を振るプテロンの腹部に、無言のコークスクリューパンチが襲う。
慮外の一撃にお腹を抑え、橙髪の下手人を睨むが、ヘリオスに気にした様子はない。むしろ、自身のキレの良さに感心している。
「何すんだよこの野郎」
「無断家出にかける慈悲ないね。それより、その外套、本気でレイキと戦うつもりかい?」
「……ああ。あいつの心を折る、叛逆なんて考えられないほど潰してやる」
灰の前髪の隙間から、幽々たる眼光が垣間見える。
この六日間、イコルの家を襲う過激派を撃退する傍ら、弟をどう折らせるかずっと考えていた。
悪辣な手段で弟の心を折る、理想を壊す。この選択は悪いものだ、だけど間違えではない。
濡鳥の外套は決意の現れ。【
「アレスに叛逆なんて馬鹿なことは、俺だけで充分だ」
あの苦しみを味わうのは自分だけでいい。決して大事な弟を地獄に行かせはしない。
「アンタは本当に馬鹿だね」
「……理解されるとは思ってない」
「理解されようと努力しないで、最初から諦めてる奴が何言ってんだい」
ヘリオスは大きなため息を吐き、目を逸らす子供の頬を掴んで無理やり正面を向かせた。
抗議の視線を真っ向から受け止め、燻んだ灰髪を雑に撫で回しながら口を開く。
「親として言わせてもらうよ。しっかり今のレイキ《あの子》を見な」
「……見えてるよ。破滅の道に突っ走る弟がな」
話は平行線だった。プテロンの決意は固く、養母の言葉程度では揺らぐ気配がない。
しつこく言及する養母に対し、眦を開き冷酷な口調で言い放つ。
「――何を言われようと、俺はあいつを潰す」
「アンタ、もう正気が……ッ」
狂気の眼光にヘリオスは目を見開く。そして思う――ここまで来てしまったか。
変わらない息子の姿にもう一度大きなため息を吐き、最後に頭を優しく叩いて背を向ける。
もはや尽くす言葉はない。
彼にかけるべき言葉は、きっともう一人のバカ息子が言ってくれる。
「存分に喧嘩してきな」
背中越しに言葉を投げる。
僅かに悲しい笑みを纏って、ヘリオスは観客席に繋がる通路へと消えていった。
残されたプテロンには、養母の言葉の真意は分からない。己に出来ることは、いつも通り実力を発揮して、弟を潰すだけだ。
沼にハマったかのように重い足を上げ、
中央には、一足先に着いていた弟の姿。
「負ける気はないぞ、プテロン」
口元が歪んだ。
――あぁ、俺もだよ、レイキ。
「ヘリオス殿、こっちこっち〜」
「席取っといてもらって悪いね」
「お安い御用さ!」
「席取ってたの私なんだけど」
イコルが調子のいい賢者を軽く睨みをきかせていると、ヘリオスの身体がその睨みを遮る。彼女は賢者とイコルの間に座ったのだ。
イコルが数分前にやって来た賢者と微妙に距離を取っていたため、一人分入れるスペースが空いていた。
「イコルも悪いね、助かったよ」
「……別に大した労力ではありませんので」
「敬語なんて使わなくていいって何度言ったら分かるんだい」
このやり取りも慣れたものだ。
イコルはレイキを含む子供組に加え賢者に対しては普通の口調だが、ヘリオスにはちゃんと敬語を使っていた。
「ヘリオスさんは目上の人ですから」
「あれれー、僕も歳上なんだけどなぁ」
「……」
「無視!?」
無論、賢者に払う敬意はない。
この者が成してきた偉業は歴史に語り継がれる程のものだが、それはそれ。普段の残念さと煩わしさが圧勝である。
抗議する賢者を華麗にスルーして、女二人は会話を始める。
「戦闘はからっきしだから分かんないけど、レイキの勝ち目は薄いのかい?」
「はい。決してアイツが弱いわけでなく、プテロン様が強すぎるんです」
「てことは、イコルはレイキが負けると思ってるってことかい?」
「……勝って欲しいとは思いますけど、可能性はゼロに等しいかと」
勝って欲しいという気持ちに嘘はない。
未だレイキへの悪感情は消えないが、愛する人に救われて欲しい想いの方が強い。
難しそうに顔を顰めるイコルに、ヘリオスはニンマリとした笑みを向ける。
「じゃあ、アタシと賭けをしよう」
「賭け、ですか……?」
「レイキが勝ったらアタシに敬語を使わない、どうだい?」
イコルは一瞬身体を強張らせる。
注視しなければ分からない咄嗟の反応であり、隣のヘリオスにさえ気づかせなかった。
イコルとてヘリオスが嫌いなわけでも苦手なわけでもない。
ただ、ヘリオスが余りにも『母親』らしいからだ。母親という存在を無意識に求めると同時に、再び裏切られるかもしれないという恐怖に怯えている。
過去に二人の母親を殺害した咎は、絶えず彼女の心を苦しみ続けているのだ。
だから、ヘリオスとは距離を置きたい。敬語の使用は、心理的距離の表れでもある。
「ありがたい話ですけど、それは……」
「――大丈夫。アタシは裏切らないよ」
「――――ッ!?」
愛想笑いが、動揺と慄きに変わる。
「アタシは、色々と視えちまうからね」
「それは、どういう……!」
「おっ、そろそろ始まるみたいだね」
賢者の声が二人の会話に割って入った。
声に釣られて中央を見れば、口上を唱え終えて変界魔術の巨大魔術陣が空中に展開されている。
こうなってしまえば、ヘリオスに追及することは不可能だろう。来たる死闘は、目を離す暇もないだろうから。
「さっきの賭けの話。敬語免除が難しいか」
「……ごめんなさい」
「なら、アタシが勝ったら、正式に天照院に住みな」
「……えっ、ちょ――」
約束だよ、と鼻を鳴らしヘリオスは視線を切った。
一瞬言葉に詰まったイコルは反論しようとして、視界の端に変界魔術の終了が見える。
緑生い茂る戦場にて始まった闘いは、イコルから抗議の機を奪ったのだった。
「なぁ、レイキ。本当に叛逆の意志を変える気はないんだな?」
「ああ。俺は、トラキアを変えたい」
「……そっか――なら、これ以上の言葉は不要だな」
戦場に出て来たプテロンは即座に首輪に触れる。互いの意志は固く、言葉で揺らぐ程度のものではない。
ならば、万の理論よりも一の闘争で語るのみ。それがトラキアの作法である。
プテロンに倣い、レイキも首輪に触れた。淡白い光が繋がり、聞き慣れた機械音声が響く。
「コレヨリ、レイキトプテロンノ【血闘】ヲハジメル――――――双方、構え」
レイキは短剣型の術器を握り締めるが、プテロンは武器を顕現させず丸腰で口上を述べる。
「我が身はトラキアの縁、闘争は選別の機構」
外套の下に武器を仕込んでいるのかと不思議に思いながら、レイキも口上の続きを述べた。
「遍くを糧に一が強者生み出さん」
変界魔術が展開される。
大空に浮かぶ魔術陣が、雌雄を決する戦場を作りだす。
「「いざ、尋常に勝負」」
最後の口上は、酷く淡白だった。
活気の薄い兄の姿に微かに動揺する間に、変界魔術は終わりを迎えようとする。
魔術発動の白光が一面を照らし、闘争領域が完成する、
「あぁ、そうだ。今のうちにお兄ちゃんの格好、しっかり目に焼けつけておけよ」
その直前。
気軽に話しかけてくる兄に、集中を削がれる。
「――始まったら、見えねえからな」
どういうこと、と問う前に白き光によって互いの姿は視界から消える。
兄の漆黒の外套を塗り替える眩しさに、思わず目を瞑った。
次いで、嗅覚に届いた樹木の香り。足元に伝わる先刻よりも湿気に富んだ地面。目を開くと、一面に広がる深緑の木々。
「これは、森林……?」
すなわち炎魔術使い《レイキ》に有利な戦場。
数ある候補の中で当たりを引いたと思った後に、ある違和感に気づく。
プテロンは、どこだ?
眼前にいた兄が消えた。続いて襲い来るは、死闘は既に始まっているという認識が遅れたことへの焦り。
兎にも角にも、消えた兄の姿を特定するまで防御に徹しようと思った次の瞬間――――足の甲に銀のナイフが突き刺さる。
「ッ!」
鮮血溢れる足の甲が激しく発熱する。これで機動性は大きく低下した、片足では速く動けず、徹底した『守』の闘い方にせざるを得ない。
だが、それよりも看過出来ないことがあった。
「どこ、だ。どこにいる!」
「言うわけねーだろ」
何処を見渡しても、プテロンの姿が見つからない。
いつも通りの軽薄な声は聞こえるのに、奴の姿が見えない。視界は樹木に埋め尽くされており、人影は皆無だ。
周りを警戒しつつ、
「おっと、回復はさせないぜ」
薄っぺらい声が耳に届く。
馬鹿にするような、嘲笑うような声が。
伸ばした手に再び投げナイフが突き刺さった。投擲してきたと思われる地点に双眼を向けるが、そこには木々があるだけ。
【漆黒】を使い木々に紛れている?
なら、根こそぎ焼き払ってやる。
「【暴れ果てろ、選伐せしは――――ッ!」
「おいおい、敵地のど真ん中で詠唱すんなよ。ガラ空きだぞ」
一帯を焼き尽くす紅蓮の円撃が、背の衝撃によって阻まれる。
「蹴られた……?」
肺の空気を全て吐き出させた一撃は、投げナイフではなく脚撃だった。ナイフ程度に詠唱を止められる威力はなく、与えられた衝撃は間違えなく脚によるものだ。
すぐさま振り向き、背後を確認するが依然としてプテロンの姿はない。……いや、細く黒い線が別の方向へと伝っている。
「そこだ……
「へぇ」
炎の魔弾が、黒閃の着地点に着弾する――直前に黒閃は理外の機動をもって別の方向に移動した。
「少しだけ捉えられたご褒美に一つ教えてやるよ。俺は【漆黒】で身を隠してるんじゃなく、単に木々の合間を高速移動してるだけだよ」
「は……?」
耳を疑う。
プテロンは何らかの魔術を行使しているのではない。ただ、速く動いてるだけ。
イコルと先生によって鍛えられた動体視力を歯牙にもかけず、知覚を振り切られている。
「言ったろ? 見えねえって」
木々を凝視する。
目を凝らせば絶えず高速で飛び交う黒閃に、僅かに枝を踏む音が聞こえる。
稲妻のごとき出鱈目な動き。
弾丸のごとき荒唐無稽な速さ。
絶望的な実力差を思い知らされる。
これが、【闘威三黎】……!
「【絶望を糧に轟け、縦横無尽の剣戟よ】」
刹那。
プテロンの実力に戦慄した時の狭間にて、詠唱が響き渡る。
「――――ッ!」
脳内で警鐘が鳴り響く。
プテロンの詠唱魔術、絶対に受けてはいけない。逃げなければならない。
でも、何処に?
彼を捉えられない限り、見渡す全てが彼の手中だ。
焦燥に駆られる内に、漆黒の外套が上空を翻った。上を見れば、漆黒の剣を構えた兄の姿。
「【
「がぁぁぁぁ!!」
己の身体を含め、周囲一体の木々が切り刻まれた上空からの不可避の魔術に片膝をつく。
【漆黒】を纏った無数の斬撃。黒き剣は無差別に対象範囲へと剣閃を放つ。絶死の領域にて、未だ四肢が絶たれていないのを不思議に思う。
横たわる切り拓かれた土地に、一人の影が降り立った。
「三分か。まっ、こんなもんだろ」
三分。それが、俺が抵抗を許された時間だった。
「ぷて、ろん……!」
ようやく見えた兄の姿。
黒い外套に身を包む、さながら御伽話の死神だ。
「なん、だよ。今のは……!」
「何って魔術だよ。予め斬撃を溜めて、一気に解放する魔術」
「そうじゃない、あんなの、ここ一年で一回も使ってないだろ!」
イコル戦と同様、プテロンの
だが、あれは無かった。
剣戟の地獄を構成する魔術など、使ってなかった。
「俺の【漆黒】はな、クソ異能なんだよ。適正魔術は使えねえし、燃費悪いし」
「……」
「だけど、最大の強みがあるんだ。それはな――死の淵から生還すると、全能力が向上するんだ。死に近づけば近づく程、【漆黒】は進化を遂げる」
息を呑んだのは誰だったか。
苦しむほど、纏う黒は濃くなる。身命を賭した激戦を経れば、確実に成長できる。生還すればという条件が付くが、戦闘力が物を言うトラキアでは破格の異能。
では、プテロンが最後に死にかけたのは?
「一年前、アレスに負けてからずっと力を隠してた。いざという時のためにな、まさかお前に使うとは思わなかったよ」
「ふざけるなよ。じゃあ、今のお前は……!」
「一年前より、倍は強くなってると思ってくれ」
会場は静まり返る。集まった者達はほぼ全員レイキ目当てだ。
【闘威四黎】を破った新星が【闘威三黎】に打ち勝つ。まさに成り上がりの物語。どん底から頂点に登り詰める展開が観れると思った結果がこれだ。
「決着方法が気絶とか場外なら良いんだけどな、生憎降参してもらわねえといけねぇ」
「しないぞ……!」
「だよなぁ。だからしっかり考えんたんだぞ、『参った』って言わせる方法」
プテロンは懐から瓶を取り出す。中には明るい緑色の液体が入っていた。
薬屋で見たことのあるそれを、プテロンは俺の身体にかける。
「
身体の隅々まで癒えていく。傷跡一つ残さず、完全体まで復活した。
疑惑の視線を向けると、いつもの軽薄な笑みが目に入る。
「出した結論は何度もお前を潰す、だ。今みたいに倒しては癒すの繰り返し。お前の心が折れるまで何度でも倒して癒してやるよ」
「――ッ」
――なんだ、これは。
違和感という言葉では表しきれない異常さ。
苦痛に悶えながら、掠れた頭で思考を回す。
眼前の男は、平常だ。
軽口を言う口調で、俺を潰す算段を話してる。
わがままを受け入れる態度で、俺の心を折ろうとしている。
平常でありながら、異常で塗り固められている。
ここまで平然と戦闘に臨める者を、俺は見たことがない。
「一周目は終わりだ。二周目いくぞ、今度は反撃できるといいな」
これは、本当にプテロンなのか?
「あれは外のプテロンの姿。あの様子だと、レイキは初めて見るようですね」
観客席の最上階、柱に寄りかかりながら、試合を眺める二人の闘威持ち。
うち一人、狂信者のデイモスは青年の様子を冷静に述べた。
言葉を返すは泥酔の麗人。
「見せたくなかっただろうなァ。一年前からのあいつの戦闘スタイルは心を殺すこと、ただでさえツギハギなのに、今は行動原理の家族の守護の前提が崩れちまったァ」
アレスに潰されてから、プテロンは変わった。……いや、狂気が増した。
前のプテロンは、闘争に勤しむ身でありながら、義勇に富んだ人物だった。それこそ、路地裏の泣き喚く少女を助けるくらいには。
だが、アレスの蹂躙を経て、彼は何も動じなくなった。勝利の喜びも、殺害の苦しみも感じない、ただ家族を守るための闘争機構。
助けられた者達は、未だプテロンを慕っているというようのに、その思いさえ気づけない。
「感情を殺し、敵を殺し、名を上げることで家族への被害を減らそうと奴は考えたァ、比例して心が更に擦り減る羽目になるのを顧みずなァ」
「イコルのおかげで幾らか氷解していましたが、
「プテロンは家族愛に
先のフォボスの忠告は核心をついていた。
以前のプテロンでは、弟を潰すことに耐えられない。家族愛に狂った者が故に、家族に向ける刃など持ち合わせていないのだ。
だから更に狂った。
今や養母の言葉も届かないほど、精神を押し殺している。全てはレイキの
一週間前の時点で既にボロボロ、そこに火薬を注ぎ込んだようなもの。ならば彼の精神は――グチャグチャに違いない。
「賢者さんよォ。アンタは選択を間違えたァ、決着方法に一年前の事を取り込めば
「アレス様と同じことをしなければ、レイキは折れない。あの決着方法はプテロンのブレーキを壊したに過ぎません」
イコルが側にいれば、幾許はマシな方向になっただろうが、彼女はレイキの修行に付きっきりだった。
一番一人にはしていけない時期に、プテロンは一人だった。踏み止まらせる者もおらず、彼は振り切ってしまった、それだけの話だ。
「良いのですか?」
「あぁん?」
「貴方はイコルとプテロンに肩入れしてるように見えましたから」
「……けっ、そんなんじゃねえよォ」
フォボスは吐き捨てる。
ただの気まぐれだ。僅かに手を貸しただけ、突き進んだのは彼ら自身。その選択に関与する気はなかった。本当に、ただの気まぐれだった。
あからさまに不機嫌になったフォボスの顔を立てたのか、デイモスは締めくくって述べる。
「このまま行けば、プテロンは二度と元の生活には戻れないでしょう」
フォボスは同感する。
狂気の果ての自己犠牲、常人と共に歩める代物じゃない。
展開が変わらなければ、レイキの身体も、プテロンの心も壊れるだろう。この【血闘】の行く末は悲劇しかならない。
(だけど、ラストチャンスでもある)
心の中でフォボスは思う。酔った調子ではなく、凛然とした麗人の口調で。
(プテロンはまだ不安定。だけどこの【血闘】を逃せば永遠にプテロンは狂気に囚われる――――助けられるのは今だけだよ、弟くん)
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