第13話 プテロンの過去




 時は早朝。

 激闘を繰り広げた翌日、いつもの賢者との鍛錬の場所には新たな人影がいた。

 眠そうに欠伸を噛み殺し、目尻に涙を浮かべる少女の名はイコル。自身の感情に割り切りをつけ、レイキと共闘関係を築いた者である。

 

「さぁ、張り切って修業といこう! えいえいおー!」

「おー」

「……」


 賢者に合わせ、大空に向けて手を突き上げるレイキに対し、イコルは冷ややかな視線を賢者に向けていた。

 何の感情も宿さないイコルに、レイキは焦ったように小声で話しかける。

 

「ちょ、少しは反応してやれよ」

「いい歳した大人が恥ずかしくないの?」

「ぐふっ、初っ端からキレが良くて何よりだよ」

「もう少し取り繕えよ!」

「フォローになってないぞぉう」


 子供二人の無慈悲な批評に賢者は膝から崩れ落ちる。

 以前はレイキがいい塩梅で流していたのだが、新たに加わったイコルはその辺りの考慮が皆無である。生まれてからマトモな友人がいない弊害が思わぬところで発揮されている。


「先生は一回機嫌が悪くなると修行が厳しくなるんだよ!」

「あら、良いじゃない。アンタが苦しむのは私の本望よ」

「く、クズめ……!」


 ニヤリと笑みを浮かべるイコルにとってかかるレイキ。

 昨夜と比べて態度が軟化した二人に、賢者は頬を綻ばせた。


「随分仲良くなったみたいだね」

「仲良くというか……まぁ、折り合いはつけれたってところだな」

「すなわち話し合いの場を作った僕のおかげかな」

「「炎弾魔術スフェラ/水弾魔術スフェラ」」

「君たち本当に息ピッタリだね!?」


 間髪入れずに放たれた二属性の魔弾を、賢者は構築した花の盾で防いだ。

 レイキはともかく、イコルの魔弾は殺意が乗っており防がれた際に舌打ちが漏れたのはご愛嬌である。

 中々に混沌とした状況を仕切り直すため、賢者は咳払いをして鍛錬の概要を説明する。


「ともかく、対プテロン用の鍛錬を始めるよ。まず最初に、レイキとイコルは戦ってくれ」

「……それは【血闘】しろってこと?」

「ううん、ただの模擬戦だと思ってくれていいよ」


 意図を測りかねるが、賢者の言なら間違えないだろうとレイキは術器を顕現させる。

 対するイコルも渋々手首を切って血槍を構えた。

 

 渋面のイコルとは対照的に、レイキは心なしかソワソワしていた。

 それもそのはず、彼は昨日の【血闘】でイコルに勝利しており、【闘威四黎】の打倒は確固たる自信に繋がっている。

 平たく言えば、彼は調子に乗っていた。連勝記録を飾れるのではないかと期待している。……その慢心を打ち砕くための措置だとは露にも思わずに。


「さぁ、いくぞ!」


 数分後。


「調子に乗ってすいませんでした……」

「予想してたけどボロ負けだね」

「アンタ、こんなに弱かったの……?」

「がはっ!」


 ボロボロのレイキに対し、無傷のイコル。

 誰がどう見ても完敗である。

 先生とイコルの言葉にレイキは胸を抑えて倒れ込む。術器を転装する暇もなく、血槍で追い込まれ、一撃も当てられずに惨敗していた。


「順を追って説明しよう。イコルはどうやって今の戦いを進めた?」

「……炎剣による爆発と両手剣への転装が脅威だから、とにかく距離を詰めて戦ったわ」

「さすがの対応力だね。昨日の【血闘】は初見殺しの恩恵を存分に活用したものだった、誰でも見たことない攻撃には後手に回ざるを得ないからね」

「だけど、プテロンには通じない」


 レイキの言葉に賢者は大きく頷いた。

 確かにレイキの緻密な魔力操作に術器での高火力は極めて脅威であり、実際にそれらのおかげでイコルの打倒を成し遂げられた。

 しかし、それは見たことがないという恩恵があってこそ成り立った偉業であり、昨日の【血闘】を観戦していたプテロンには意味をなさない。


「加えて、君には箔がついた。ただの無名から【闘威四黎】を打ち破った期待の新星、油断を誘う手法も難しい」

「……詰んでないか?」

「正直、状況はかなり絶望的だよ」


 お手上げの姿勢で賢者はため息をついた。

 彼からしてもプテロンの離反は予想外であり、本番が一週間後では打てる策も少ない。


「だからこそ、アレスが言及してた一年前のことについて知るべきだと思う」


 そう言って、賢者はイコルに視線を向ける。釣られて見たイコルの表情は哀しげに歪んでいた。


「そう、よね。あのことを知らない限り、何も始まらない」


 一年前、まだレイキの闘争義務が発生していない時期であり、普通区のみが彼の世界だった頃である。

 レイキは記憶を遡る。


「あっ……」

「どうしたんだい?」

「いや、一年前って言われるとプテロンが一週間くらい帰って来なかった時があったんだ」


 音信不通となったプテロンに、天照院はパニック状態となった。フィロスとアガロスは泣き、レイキも二人を宥めようと表面上は落ち着いていたが、内心は心配でいっぱいだった。

 当初は平常だったヘリオスの口数も減り始め、レイキの心労が限界に達する直前にプテロンは帰ってきた。

 泣き喚く双子の頭を撫でながら、長期の不在を謝るプテロンを見て、酷く違和感を覚えた記憶が蘇る。


「うまく言いにくいけど……あの日からプテロンの笑顔が、薄っぺらいというか、大事なものが抜けちゃった。そんな印象を受けた」

「……ッ」

「理由を聞いても色々と忙しかったの一点張りで、結局有耶無耶になって」

「ええ、言えるはずないでしょうね――――――アレスと闘って殺されかけたなんて」

「は……?」


 漏れた言葉は震えていた。

 空気が凍る。冷たい風が吹きつける。

 レイキは目をあらん限りに開き、イコルを凝視するが嘘を言ってるようには見えない。それどころか、自分を責めるように、懺悔するようにイコルは目を伏せていた。

 訪れた静寂に、賢者もレイキも口を挟まなかった。

 この静寂を終わらせるのは、彼女の言であると確信していたから。


「私が【闘威四黎】になる前の話。プテロン様が【闘威三黎】の座を獲得して、アレスに褒美を望んだ日のことよ」






 

「プテロン、ショウリ」

 

 機械音が闘技場フラウィウス響いた。

 観客達は喝采を上げる。新たな闘威持ちの誕生に歓喜する。

 歓声を一身に受ける者は灰髪の青年、闘威持ちに最も近いと呼ばれていた男である。

 返り血で染まった青年の前には【闘威三黎】であった骸が横たわっていた。

 淡い光を発しながら闘技場フラウィウスに吸収されていく死体それを見届け、玉座のアレスに向き直った。


「よくぞ三黎を討ち果たした。発言の許可を許そう、貴様の名は?」

「プテロン」

「滂沱せよ、貴様を新たな三黎と認めよう」


 デイモスを侍らせ、膝を組み、頬杖をつく闘神は傲慢の名こそ相応しい。

 名を聞いておいて呼ばないのは闘神特有の癖か、それとも単に興味がないだけか。

 定まった記号でしか呼ぼうとしない闘神を青年は静かに睨みつけていた。


「褒美を述べよ。巨万の富、至高の武具、稀有な古書、何でも叶えてやろう」


 金、武器、知識。

 その道の専門家であれば泣いて喜ぶ代物だが、プテロンの望む願い《もの》は違っていた。


「俺の家族……レイキ、フィロス、アガロスの闘争義務撤廃を望みます」


 ――瞬間、雷鳴が轟いた。


「あ、がッ――!」

「よもや、神の耳朶に聞き間違えなどあるはずがないが問わねばなるまい。貴様は何と言った?」


 隣で侍っていたデイモスでさえ反応出来ない程の音速……否、神速。

 迅雷の如く迫った闘神は、鍛え上げた青年の胴体に脚撃を与え、鋼鉄の肉体を意図も容易く砕いた。


「か、はっ」

 

 青年は感じたことのない痛みに蹲った。

 腹部が膨大な熱を帯び、決意が揺らぎそうになる。

 だが、彼の家族愛は、闘神の蹴りのみでは砕けなかった。

 胃液を口から漏らし、満足に会話も出来ない状態でありながら、見下げてくる闘神を強く睨む。


「……おれ、の、家族に、【血闘】をさせるな」

「そうか――――死ね」

「プテロン様ッ!!」


 不屈の想いを闘神は踏み躙る。

 雷魔法を纏った脚で、青年の顔面を蹴り飛ばした。

 無理やり雑草を引っこ抜いたような、鈍く重い音が観客席の紅髪の少女に響く。

 想い人の勇姿を見に来た彼女は、突如始まった闘神の粛清に悲鳴をあげていた。


「他愛無い。闘争義務の免除などありえざることだ」


 場外の壁に吹き飛んだ青年に一瞥も与えず、闘神は踵を返す。神の裁きたる雷を受けて生きている筈がない。己の実力に裏付けられた確信と共に玉座に戻ろうとする。

 新たな三黎を選出せねば、と思考を巡らせていたが背後から聞こえた音に立ち止まった。

 

「ほぅ。我も『格落ち』たる身、精度が鈍ったか」

「まだ、話は終わってねえぞ……!」


 口から大量の血を吐き、立っているのがやっとの状態になっても、彼の眼は死んでいなかった。

 瞳に映る想いは家族への愛と叛逆の灯火。

 【闘威三黎】の打倒を成してまで叶えたかった願いは残っている。


「我が雷撃を耐えた褒美だ。我に一撃を与えれば、貴様の願いを叶えてやろう」


 破格の申し入れだった。

 神脚を躱し、神雷を掻い潜り、たった一撃さえ決めれば願いは叶う。家族は闘争の宿命を負わずに済む。

 青年の胸の灯火に薪が焚べられる。親愛を糧に彼は再び立ち上がった。


「しかし、勝負とは互いの敗北条件が先立って決められるもの。そうだな、貴様が『参った』と言えば敗北としよう」


 嘲笑と共に向けられた条件は驕傲と不遜を象徴する。闘神はこう告げたのだ――お前の心が折れれば敗北だ。

 青年は歯軋りを堪え、闇の獣を纏わせる。依然として退屈そうにしている闘神は大剣を顕現させた。


「一つ言っておこう」

「……」

「――簡単に折れるなよ?」

「ッ!?」


 本能の悲鳴に従い、青年は反射的に闇を纏わせた短剣で剣撃を防いだ。

 得物越しに届く衝撃が濃厚な死の気配を伝えてくる。

 大剣の腹によって生み出された、技術もクソもない力任せの一撃。そんな防御してもなお重い神の一撃に、衝撃を殺しきれずに吹き飛ばされる。


「ぐぅ……!」

「この程度か?」

「ッ、舐めるな!」


 吹き飛ばされた先には、金髪の男神がいた。闘神は青年を短剣ごと飛ばしたのち、彼が空中にいる間に着地点に回り込んだのだ。

 雷魔法の使い手所以の超速移動、黄金に輝く躯体は文字通り神々しい。


「【暗灰の残火コク・スキアー】」


 煙幕が放たれる。

 呼吸を乱すための魔術は、黄金の不遜を穢さんと蔓延する。

 至近距離で放たれたそれは、対象に纏わり、継続的な損傷を与える、毒のような魔術だった。

 気管支に入り込んで呼吸困難にさせる、今までの【血闘】で戦況を有利に進め、【闘威三黎】まで青年を成り上がらせた煤塗れの霧は、


「イカヅチよ」

「がっ――――」


 たった一言で終わりを迎える。

 魔術行使のために突き出した右腕ごと、煙幕はかき消された。雷に焼かれ、炭化した右腕に青年は回復魔術セラピアをかける。薄緑の光と共に襲い来る回復痛に顔を顰めた。

 人の領域では長文詠唱魔術に匹敵する雷、神にとっては呟くのみで事足りるようだ。

 神と人の決定的な差を否応なしに分からされる。


「まだ、終われるかよ……【暗灰の残火コク・スキアー】」

「芸がないな。神雷に焼かれよ」


 再び散布状の灰が放たれる。

 まるで先の焼き直しのような展開にため息をつく闘神は、同様にイカヅチで掻き消そうとする。


「む?」


 闘神は眉を顰めた。

 放った神雷は煙幕を払い切れておらず、未だ煤汚れの霧は顕在である。先刻と同じはずの魔術、ならば神雷で払えないはずがない。


「先刻よりも濃度が薄い……」

「正解、だッ!」

「小癪な」

 

 灰の霧を隠れ蓑に迫った青年は収納魔術アルケイオンから無数の投げナイフを取り出し、闘神に投げつける。

 闇を纏ったナイフは灰に紛れ、目視が困難であったが闘神はものともしない。


「ふんっ!」

「バケモノが……!」


 力を込め、総身から放電する。

 闘神が行ったことはそれだけだった。

 黄金色の光が頭身の周りに迸り、数十のナイフが勢いを失い地面に突き刺さる。


「これで終わりか」

「ここからだよバケモノ」

「なに?」


 青年が左手を突き出し、その拳を強く握った――瞬間、

 目を凝らせば、灰の霧に紛れて輝く数十の極めて細い銀閃。投げナイフの末尾には銀の鉄鋼ワイヤーが付いていたのだ。

 雷によって散らばったそれらは元より攻撃目的ではなく、軛のためのもの。

 後の一手の布石となるよう仕向けたものだった。


「これは……!」

「よそ見して大丈夫かよ――【暗獣ネメア咆哮フォナゾ】」


 鉄鋼ワイヤーに意識を取られた闘神に【暗獣化身ネメア】を纏った青年は至近距離で黒の光線を放った。

 防御の予断を許さない暗黒の砲撃。闘神の全身を巻き込み、砂塵が大量に舞う。

 青年は肩で息をするが、集中状態は切らさない。闘争国の頂点たる闘神が、この程度で終わるはずはないと確信しているから。


「今のは良かったぞ。褒めてつかわす、二度目の黒焔はナイフの絡繰を隠すためか」


 

 埃を被りながらも冷静に批評をする闘神に、青年は大きく舌打ちをした。

 分かっていた。

 この程度の攻防で終わる傑物では決してないと分かっていたが、損傷の一つも負わないとは。


「ふぅ……」


 一度呼吸を整える。

 状況は依然として何も変わっていない。理不尽の権化に立ち向かう挑戦者、この構図は覆りようもない。

 しかし、判明したことが一つだけある。

 

 ――俺の攻撃はアイツに通じる。

 

 その証拠に、策略に嵌めて拘束し、一撃を喰らわせられた。たとえ大した損傷にならなかったとしても、奴の目を欺いた、この事実は変わらない。

 確かな自信と共に一歩を踏み出そうとして、



「――では、歯車ギアを上げるか」



 闘神の気軽な声が耳に入った。

 原野を踏み鳴らし、己に課していた制約を失くす。瞬間、甚大な神威プレッシャーが青年の全身を突き刺す。

 滝のように冷や汗が流れ、短剣を持つ手が震え始める。


「――――うそ、だろ……?」


 渇いた笑いさえ、浮かべられなかった。

 なんという冗談だろうか。

 闘神にとって今まではただの戯れ。

 先の攻防をもって、闘神アレスは

 

「さぁ、真の【血闘】を始めようか」


 闘神の眼光が、息遣いが、漏れ出る電光が、構えられた大剣が、青年の本能的恐怖を呼び起こす。

 青年だけではない、闘技場フラウィウス全員が初めて見る闘神の本気に身体を震わせる。


「あ、あァァァァ!!!」


 恐怖を怒号に無理やり変換して、青年は勝ち目のない闘いに身を投げた。







 


 

 

「なぁ、これは……」

「……失礼する」


 始まった【血闘】……否、一方的な蹂躙に多くの者が闘技場フラウィウスを後にした。

 ある者は顔を青くして。

 ある者は吐き気を堪えて。

 ある者は神の威光に恐れを抱いて。

 それ程までに、闘神の粛清は強烈だった。

 結局、残ったのは三人だけ。無表情のデイモス、片時も目を逸らさないフォボス、枯れぬ涙を流しながら想い人の無事を願うイコル。

 

「……………………………………が、はっ」


 経過した。

 逢魔時にて、夕日が照らすのは無傷の神と満身創痍という言葉さえ生緩い死に体の青年。

 彼の耳に届くのは聞き覚えのある少女の泣き声のみ。

 掠れた視界に入る夕方の赤い光に思う……どれだけ殺されたのだろう。

 斬り殺された。叩き殺された。焼き殺された。

 大剣とイカヅチをもって、神の裁きを存分に刻まれた。

 神と人としての種の違いだけではない。

 剣技、駆け引き、力、魔法……戦闘における全て要素で途方もない程の差があった。

 大剣が予備のナイフも含めた全ての武器に加え心身も斬り刻んだ。

 神の剛力は小っぽけな矜持を打ち砕いた。

 神の裁きの象徴たるイカヅチは遍くを焼き尽くし、この身がなぜ灰と化していないのか疑問に思う。


「素晴らしい。暗殺者アサシンが如き戦法でここまで耐え抜くとは。誇れ、貴様は強い」

「……」

「言い返す気力も尽きたか。ならば、疾く降参の意を述べよ。我が貴様を殺すのは惜しいと思う内にな」

 

 青年は口を開かない。

 激痛により喋る気力がないのもあるが、ここまで痛めてつけられても彼の心は折れていなかった。

 奥底には未だに家族への親愛が根付いている。

 だからこそ、闘神は大剣を構えた。

 青年の中にある叛逆の灯火を感じ取っていたからだ。


「誇りを選ぶか――――ならば死ね」

 

 闘神が大剣を上段に構える。

 見上げるほどの大きさのそれに、黄金の雷が纏わりつく。

 甚大な魔力により、一時的な力場が作られる。金髪を揺らし、構えだけで砂塵を舞わせながら、大剣が雷を介して変貌していく。

 剣先は猛々しき顎と角に鬣、剣身は鱗を帯びた胴体……異国の魔獣のうち最高種とも言われるの形。


「殺せ――――【神雷集りし災禍の竜剣アストラぺ・ドラコーン】」

 

 雷竜が顎を開けて青年に迫る。

 闘神によるエンチャント《付与魔法》を除いた初めての雷魔法行使。

 抵抗する力なんて残っていない。

 万全であっても耐えられるか定かではない雷魔法、眩き終焉は近い。

 命の終わりが、手を振って歓迎している。

 痛覚も消え失せた青年は最期まで抗おうと歯を食い縛った。


「守り抜けぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 直後、視界を埋め尽くす紅き障壁。青年と雷竜の間に一人の少女と血盾が顕現した。

 脳裏に浮かぶ記憶は路地裏で泣いていた少女。胸の痛みを訴え、母殺しの罪悪感に押しつぶされていた少女が眼前にいる。

 なぜ?

 彼女がどうしてここにいる?

 名も知らぬ少女が乱入した理由は何だ?

 どうして俺は、この子に守られているんだ?

 混乱が広がり、答えが見出せない。

 紅髪を揺らす小さな背中は、雷竜から自分を庇っている。


「お前ッ、何やってんだッ!?」

「死なせないッ!! ぜったいに、死なせてたまるものですかッ!!!」


 少女が、涙声で叫んでいる。声を震わせて、歯を食いしばって、恐怖に苛まれながらも胸を張っている。

 鼓膜が破れているのに、少女の声だけは胸の中に入ってきた。


「今度は、私が助けるんだ……!」


 少女は全身を切り裂き血盾を補強する。

 出血死ギリギリの量で障壁を構成しても、雷竜の勢いは止まらない。

 割れかけている障壁が告げる、神に逆らうのなんて間違っている、今すぐ背後の男を見捨てて逃げろ。


「うっさい黙ってろ!」


 弱音を殺す。

 家族の守護が為に、天秤から自分を排除してしまう、優しすぎる青年に助けてもらった者として。

 自分の生死を考慮に入れない、重過ぎる負荷を背負ってしまう青年に惚れた者として。

 此処で退くのは許されない。


「こんな所で死なせないッ!!」


 少女の血液だけでは足りない。

 故に、少女は周辺に散らばっていたも血盾に追加した。

 全ては好きな人を守るために。


「うぅ……!」


 しかし、現実はそう甘くはない。

 この時点では闘威持ちでもない少女では、全力を賭したところで闘神の本気は一撃たりとも防げない。

 少女がしたことは青年の寿命を数秒伸ばし、二人揃って無駄死にという結末を産むだけ。


「ぇ――――」

「肩、借りるぜ」


 だけど、少女の一番の功績は青年の心に火を灯したことだろう。

 必死に血盾を維持する少女の肩に、ボロボロの青年の右腕が置かれる。そうでもしないと、腕を構えることもままならないからだ。

 わずかに残った【漆黒】、その全てを右腕に絞り出す。行使するは初めて闘神に一撃を喰らわせた魔術。


「【暗獣ネメア咆哮フォナゾ】」


 暗澹たる咆哮が雷竜の顎門を砕いた。

 まさに火事場の馬鹿力、奇跡的に魔力の繋がりを切った魔術は雷竜を崩壊へと導いた。

 雷竜は爆散し、雷を撒き散らしながら消滅した。


「素晴らしいぞ、我が雷竜剣を防ぐとは」


 晴れた視界に映るは喜色に顔を歪めた闘神。

 【血闘】に乱入した少女を咎める気なんてない、全力の一撃を防がれた事実だけで満たされている。

 喜びを露わにする闘神に少女は悲鳴に似た叫びをあげる。


「もう、充分でしょう!? 満足したなら、プテロン様を解放してください」

「ならぬ。一度定めし約定を覆すのは我が流儀に反する故にな、まだ抗うというのなら――――もっと我を楽しませろ」

「ッ!」


 再び、闘神は大剣を上段に構えた。

 少女は目を見開き、枯渇した血を掻き集める。

 ――また雷竜アレが来れば、今度こそ終わる!

 止まらない冷や汗を拭い、血盾を構成しようとして、



「――降参する」



 想い人の声が耳朶を打った。


「ほぅ」

「【血闘】の撤回は望まない、アンタにも逆らわない。二度と叛逆の意思を持たぬと誓う」

「良いだろう。我を楽しませた褒美だ、貴様らは無罪放免としてやろう」


 大剣を虚空に仕舞い、闘神は踵を返し、玉座へと姿を消した。

 神のプレッシャーから解放され、少女の肩が緩まると同時に、背後から倒れた音がする。


「ッ、プテロン様!」


 案の定、地に伏しているのは青年だった。

 青年の容態を確認し、少女は顔を青くする。夥しい裂傷に火傷、生きているのが可笑しいと言わんばかりの死にかけ状態。

 水魔術派生の治癒魔術を施し、簡易の応急処置をした後に気絶した青年を背負う。

 向かうのは母を殺して静かになった少女の家。

 あそこなら救命道具も豊富にある。


「絶対に、死なせませんから……!」


 揺るがぬ決意を胸に闘技場フラウィウスを後にする。

 その後ろ姿を、デイモスとフォボスは無言で見つめていた。










「私の家に移して、プテロン様の意識は三日後に戻った。それから三日安静をとって天照院アンタ達の元に帰った、これが一年前の顛末よ」

「そんな、ことが……」


 長い回想が終わり、各々の表情は異なっていた。

 イコルは堪えるように下唇を噛み、先生は思索に耽り、レイキは驚愕を御しきれていなかった。

 闘神への叛逆の代償に、兄は理想を砕かれた。

 自分たちの存在が兄に深い傷を負わせたという事実に、胸を掻きむしりたくなる。


「あの日からプテロン様は変わった。声音の下に張り詰めた何かを隠すようになったわ」


 理想を抱いて、ぐちゃぐちゃに砕かれた時の気持ちは如何だったのだろう。


「……とは言ってもやる事は変わらないね」


 淀んだ空気を打ち払うためか、先生は手を叩き二人に向き直る。

 いつもと変わらない余裕の表情にニコリと笑みを浮かべている。その能天気さが、今のレイキたちにとっては有り難かった。


「今までの修行は僕がレイキの相手を務めていたけど、今日からは別さ」

「イコルと戦うのか?」


 レイキはボコボコにされた模擬戦を思い出し、今度はイコルとの鍛錬が始まると当たりをつける。


「違うとも。戦ってもらうのはさ」

「え……?」

「正気?」


 とんでもない事を言い始めた先生に、イコルとレイキは揃って疑惑の視線を向けた。

 片方だけでも圧倒されるのに、二人同時に相手するなど不可能に近い。


「本気だよ。プテロンに勝つには場数を踏むのが一番さ」

「……分かった」

「アンタも乗り気なの? 明らかに重過ぎるわ」

「確かに先生は鬼畜で人の心が無くて人でなしのクソ野郎だ」

「言い過ぎじゃないかな」

「――だけど無駄な事は絶対しない」


 レイキは収納魔術アルケイオンから術器を取り出し、二人に向き直る。

 何度も心が折れた鍛錬であったが、結果的にイコルを倒すことが出来た。先生に絶対の信頼を寄せるが故の行動だった。

 本気の表情のレイキを見て、イコルはしぶしぶ血槍を顕現させた。仮想敵になるよう、先生は収納魔術アルケイオンから短剣を握る。


「じゃあ、始めようか」


 ――後にレイキは語る、今までよりもずっと地獄であったと。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る