第6話 次なる闘い





「あ、あの、ありがとう、ございました」

「うわ、敬語とかやめておくれよ。心の距離を感じる」

 

 伝説の英雄を前に萎縮するレイキはこれまでの顛末を思い出す。

 賢者が正体を明かした瞬間、デイモスは気を失った。

 正規の【血闘】はどちらかが生命を落とさない限り終わらないが、先の【血闘】はデイモスが勝手にアガロスを攫って始めた非公式のものであり、そこにレイキや賢者が乱入したりと既存のルールでは判断しきれない部分が多々あった。

 その上、闘技場フラウィウスは賢者の魔術で花畑と化しており、もはやめちゃくちゃである。

 俗に言う頭痛が痛い状態にレイキは頭を抱えるが、賢者はどこ吹く風と友好のウインクをしている。

 

「それで、空を飛んだ気分はどうだい?」

「いきなり過ぎて覚えませ……覚えてない」

 

 敬語を使おうとしたら睨まれたので、元の言い方に戻した。

 デイモスが気を失い、観客が右往左往している間に賢者はレイキを抱えて闘技場フラウィウスから去ってしまったのだ。それも出口からではなく跳躍して観客席ごと飛び越えるという荒技で。

 何らかの魔術を使った後、『じゃ、行こっか』と横脇に抱えられ、視界が青空に切り替わった経験は一生忘れないだろう。

 降り立った先は、闘争区の一画で、人が寄りつかない空き地といった所。追手から隠れるならお誂え向きの場所だ。

 

「気を取り直して、僕の名前はケイローン。本物の【八叛雄】さ!」

「【大輪の賢者】は、人神大戦オリュンポス・マキアで死亡したんじゃないのか……?」

「うーん、まあ色々あったんだ。それは後で話すとして、それより先に聞くべきことがある」


 ニカっと太陽のような笑みを浮かべた賢者に、レイキは首を捻る。


「君の名前は?」

「……レイキ、姓はない」

「レイキ、良い名前だね!」

 

 賢者は楽しそうに少年の名前を舌の上で転がす。人智を超えた美形ゆえに、笑顔になるだけでぽくなるのだから、調子を乱される。

 大きく息を吐いて、レイキは鼻歌を歌っている賢者に心の中で燻る疑問をぶつける。

 

「何で、俺を助けてくれたんだ?」

「あれ、言わなかったっけ。君に可能性を感じたからだよ」

 

 返ってきた答えは数刻前と同様のものだった。

 

「強者を前に臆さずに、弟を守るという信念を貫いた。"ここで死ぬのは惜しい"、そう僕に思わせた時点で君の勝ちだったんだよ」

「……よく、分からない」

「何はともあれ、僕が問うべきはただ一つ」

 

 賢者の雰囲気が変化したのを肌で感じる。

 デイモスと対峙した時と同じ、圧倒的な存在感。思わず膝を屈しそうになるが、舌を噛んで真正面から立ち向かう。

 そんなレイキを見て満足そうに頷き、賢者は大きく腕をを広げる。

 

「レイキは、現状をどうしたい?」

「――変えたい」

 

 自然と、口から言葉が紡がれていた。意識よりも先に本能が回答を出していたのだ。

 賢者は左手で頭を抑え、「即答……! ふふ、最高かよ」と口ずさむ。

 レイキの胸には、無意識に答えた自分への驚愕とともに微かな納得の念が飛来した。

 

 ――そうか、俺は変えたかったんだ。

 

 望まぬ相手を殺す不快さも、家族を襲われる理不尽も、許容出来るものではない。強いからといって、他者を排して良い理由にはならない。

 

「なんで、気づかなかったんだろう」

「そうと決まれば、僕が君の師匠になろう。望みを叶えるための知恵と力を授けてあげる」

 

 賢者は鳥の模様が刻まれた右手を差し出す。

 どうしようもなく目を奪われるそれを、レイキは抵抗せず握ろうとして――大きな音が近づいてきているのに気づいた。

 

「なんだ、この音」

「あ、やば。説明してくるの忘れてた」

「どういうこと――ッ!」

 

 問おうとした瞬間、数メートル離れたところで爆音と共に砂塵が舞う。

 驚いて目を向けた時には、砂埃を切り裂いた闇の影がレイキを守るように、賢者に対峙していた。

 焦燥を浮かべるその横顔は見覚えがあり、レイキは影の正体を言い放つ。

 

「プテロン?」

「無事か!? あの胡散臭い野郎に何かされてないか!?」

「酷くない? 僕、一応レイキを助けたんだけど」

「軽々しくレイキの名前を口にするな」

「想像以上に嫌われてて泣きそうだぁ」

 

 シクシクと嘘泣きをする賢者を見て、やはり胡散臭いと兄弟揃って思った。

 賢者と兄の間で緊張状態が走っていると、紅髪の少女が遅れてやってきた。先の【血闘】でプテロンと共にいた【闘威四黎】のイコルである。

 

「プテロン様、アガロス君は天照院に預けてきました。応急処置はしたので、生命に別状はありません」

「そうか。ありがとな、イコル」

「…………ひゃ、ひゃい」

 

 感謝をされた経験が少ないのか、少女は照れた様子で目を逸らした。頬は仄かに赤くなっているが、プテロンは気づかない。

 

「もしかして彼女はプテロンのこと……」

「たぶんだけど、思い描いてる通りだよ」

「青春だねぇ。プテロンは全く気付いてないみたいだけど」

「お前ら、何コソコソしてるんだ」

 

 いつの間にか隣にいた賢者と話していると、不機嫌そうなプテロンの視線が突き刺さる。

 

「大したことじゃない。それよりもプテロンとイコルは何で此処に?」

「乱入したアホ弟が胡散臭い男に連れ去られたら心配するに決まってるだろ。それに、お前たちが去ってから闘技場フラウィウスの奴らがおかしくなったんだよ」

「おかしくなった……?」

「貴方が乱入してからの記憶が無くなっていたのよ」

 

 未だ微かに赤みを帯びているイコルが答えた。

 レイキ達が去ると闘技場を覆い尽くしていた花は消え、プテロンとイコルを除く観客全員の意識が落ちたらしい。数秒経つと正気に戻り、状態を聞いたところ、記憶が飛んでいたということだ。

 一連の経緯を聞き終えると、賢者は得意げに胸を張った。

 

「実は、レイキを抱えて逃げる時に記憶を改竄する魔術を使ったのさ」

「そんなことまで出来るのかよ……」

「でも、あくまで改竄、完全に無かったことには出来ない。デイモスを含め闘技場に居た人は"レイキが何かをした"という意識は漠然とあるはずだ」

 

 今回の非公式な【血闘】において、場を荒らしたのはレイキと賢者である。

 前代未聞の乱入に加え、後者に関しては【闘威一黎】を打ち倒している。トラキアの闘士たちにとってどちらも目を疑う事案だ。

 そこで賢者は魔術で認識を歪め、レイキの存在を際立たせることで『レイキと賢者が乱入した』という事実から『レイキが色々とやらかした』という曖昧な虚実にすり変えたのである。

 

「ごめんね。僕の存在がアレスにバレるとまずいんだ」

 

 手を合わせ、ウインクをしながら謝る賢者をぶん殴りたい衝動に駆られるが必死に制御する。事態は依然として深刻だった。

 

「今やレイキはトラキアで有名人になっちまった。あのデイモスを退けた新人ってな」

「……かなりやばくないか?」

「デイモスはもちろん、過激派の連中にも目をつけられる羽目になったわね」

 

 レイキは自身の顔が青白くなっていくのを肌で感じた。

 闘争に全てを捧げ、街中でも他者を傷つけることを厭わない者たちを過激派という。闘争区への入場が推奨されない理由は、それなりに名が通っていないと襲われる確率が高いからだ。

 闘争区での襲撃が増えることに加え、デイモスから本格的に狙われたらひとたまりもないだろう。

 

「大丈夫だよ。糸目くんが目を覚ますまであと数時間はかかる。その間に策を講じれば良いのさ」

「具体的にどうするつもりだ?」

「【下剋上】制度を使う」

 

 【下剋上】とは、自分よりも勝利数の多い相手に【血闘】を申し込める制度である。勝てば通算勝利数は変化するため、念入りに対策をして【下剋上】を挑み、通算勝利数を稼ぐ者もいる。

 ちなみに、デイモスの【指名】による勝敗は通算勝利数に響かない。

 

「【下剋上】は試合決着の基準がどちらかの死亡ではなく、挑戦者側が設定して良いことも大きい」

「そうなのか?」

「あぁ、決着方法は多岐に渡る。どちらかの気絶とか、場外に出てしまった場合、なんかがあるな」

 

 レイキの疑問にプテロンが応えた。

 相手の殺害が勝利になると限らないのならば、決着方法に沿った戦法を取ることで格上を倒せる確率は高くなる。

 弱者が工夫を凝らし強者に打ち勝つ大番狂わせ《ジャイアントキリング》のための措置、故に【下剋上】。

 話は理解したが、レイキの頭には疑問符が浮かんでいた。

 

「でも【下剋上】をして、通算勝利数を増やしたところで意味は無くないか? デイモスが意識を取り戻したら直ぐに襲ってくるだろうし」

 

 たかが一勝で現状が変わるはずもなく、【下剋上】の後に【指名】されればそこで終わりだ。

 三日でデイモスを倒せるほどの力をつけるのは不可能、三者の疑問の視線が賢者に突き刺さる。

 

「ちっちっちっ、分かってないねぇ。デイモスが【指名】という異例の権利を手に入れたように、君も闘争を先延ばしにする権利を得ればいい」

「……え?」

「お前、まさか……!」

 

 いち早く結論に達したプテロンが声を荒げる。

 【下剋上】では、勝てば望みを神アレスに願う事ができる方式がある。それは

 闘威持ちの【血闘】では神アレスが直々に試合を見に来る。四人しかいない闘威持ちを撃破できれば、神アレスに褒美を求める権利を得られるのだ。

 実際、無名であったデイモスは当時の【闘位一黎】を【下剋上】で殺害し、褒美として【指名】の権利を得た。

 賢者は三人が完全に理解したことを確認し、驚愕を浮かべる少女を指差した。

 

「紅髪ちゃん……君にはレイキに【下剋上】を挑まれてもらうよ」

 

 瞬間、痛いくらいの沈黙が場を支配し、張り詰めた雰囲気が漂う。

 同時に、少女の纏う雰囲気が転じた。

 思いも寄らぬ驚愕から、煮え滾る憤怒に。

 

「……は? 英雄さまは私に八百長でもしろって言いたいの?」

「そんなわけないだろ? 君には実力でレイキに負けてもらう」

 

 苛つくほど整った美顔から、嘘の様子は見受けられない。その澄ました態度が、イコルの苛立ちを助長させた。

 

「紅髪ちゃんは【闘威四黎】。すなわち、闘威持ちの中で一番弱いってことだ。一カ月期間を設けよう、それまでにレイキを強くする」

「ッ、馬鹿にして……! それに、誰が紅髪ちゃんよ、私にはイコルっていう名前がある」

「あー、興味が出たら覚えておくよ」

「どこまで私を苛つかせれば気が済むの……!?」

 

 憤怒を燃やす少女に対し、賢者はマイペースに告げる。

 レイキが勝つと疑わない姿勢に、少女からプツンと何かが切れるような音がした。

 

「お、おい。ちょっと待て、一ヶ月でイコルを超えるなんて不可能だ」

「可能さ。僕が指導すれば、確実にね」

「でも、知り合いと闘うなんて、」

「――なに、甘ったるい事を言ってるんだい?」

「「「ッ!」」」

 

 賢者から発せられた強烈な魔力波に、三人は戦闘体勢をとった。

 少年は折れた短剣の柄を握り。

 青年は暗黒たる獣を身体に宿し。

 少女は血槍を顕現させる。

 共通してることと言えば、体の震えが止まらないことだった。

 緊迫状態をものともせずに、賢者は少年の頬に手を添えた。

 

「レイキはトラキアを変えたい。闘威一黎糸目くんだけじゃなくて、闘神アレスさえも相手にする可能性だってある」

 

 息を飲み込む音は誰のものだったか。

 トラキアの最高権力者にして建国神、殺戮と闘争を司る神と闘う。

 この上ない叛逆であり、無礼極まりない、無謀な挑戦である。

 その言葉の重みがレイキの胸を強く押しつぶす。呼吸が荒く、顔面の蒼白さは蛇に睨まれた蛙のごとく。

 

(だけど……!)

 

 しかし、胸の奥で燻る薪に火を灯す。

 想起するは大事な弟がデイモスに殺されたかけた光景。

 

(家族を守るためなら、何だってやってやるよ)

 

 賢者の瞳に呑まれかけて、真正面から睨んだ。

 

「――上等だ。ここで折れるほど俺の覚悟は柔じゃない」

「よく言った。なら、彼女と闘うぐらい些末なことだろ?」

「それとこれとはまた話が……」

「本気、なのよね」

 

 知り合いと闘うことに物怖じする少年に対し、痺れを切らしたように少女は割り込んだ。

 冷徹な視線が少年の覚悟を問う。

 

「本気でこの国に叛逆する気?」

「――あぁ、この腐った国を変える」

「へぇ……」

 

 底冷えした呟きに込められた想いは侮蔑か、それとも憐憫か。

 少女は慕う青年に一瞥を送ってから、レイキの首輪に触れた。

 

「一月後の【下剋上】を受理。我、イコルは【闘威四黎】の誇りにかけ、全力で勝負することを誓う」

 

 レイキとイコルの首輪に魔術陣が浮かび上がり、魔力の通りパスが繋がれる。繋がれた線は何度か発光し、数秒後には消えて無くなった。

 【下剋上】についての知識が浅いレイキは理解した……この瞬間、イコルとの【血闘】が決まった。

 

「良いわよ、【下剋上】受けてあげる。決着方法は後で知らせなさい。アンタが勝ったらいくらでも協力してあげるわよ」

「イコル……!」

「ご安心くださいプテロン様。貴方の望まない結果にするつもりはありません。まぁ、コイツには挫折してもらいますけど」

 

 そこにあるのは【闘威四黎】として培った実力と自信。数多の【血闘】で育まれ、研がれた矜持が己の勝利を確信させる。

 落ち着いた言動と裏腹に、ギラついた瞳からは抑えきれない闘志が滲み出ていた。

 

「『トラキアを変えたい』という理想は否定しないわ。だけど、アンタ一人が足掻いて変えられるほどこの国は脆くない」

 

 少女は言葉を紡ぐ。

 冷徹に、残酷に、少年に事実を伝える。

 刷り込むように、言い聞かせるように、言い放つ。

 

「アンタが挑もうとしてる壁の高さ、敵の強大さ、この国の狂った現実、その全てを叩き込んであげる」

 

 こうして、レイキとイコルの【血闘】が決まったのであった。



 段落変更


「濃い一日だった……」

「……はぁ、まだ整理がついてねえぞこんちくしょう」

 

 大きくため息を吐く兄に深く共感する。

 今までの人生の中で最も内容の濃い一日であると断言できるだろう。

 アガロス《弟》を攫った者は【闘威一黎】で、試合に乱入し危うく命を落とすところを伝説の存在の【八叛雄】に助けられ、助かったと思えば一ヶ月後に【闘威四黎】と勝負しなくてはならなくなった。

 脳内で一連の流れを確認し、そっと考えるのをやめた。短時間で処理できる過程ではないからだ。

 

「イコルと闘うのか……」

「俺は今からでも辞退すべきだと思うけどなぁ」

 

 【血闘】の手続が済んだ後、少女は足早に去ってしまい、賢者は『修行は明日からね! あっ、プテロンは来ちゃダメだよ、どれだけ強くなったかは一ヶ月後のお楽しみさ!』と言って、身体が花びらとなって、虚空へ消えていった。

 残された二人はフィロスとアガロスの容態を見るために【天照院】に帰宅している最中だ。

 双子の心配をしていると、兄が頭を掻いてチラチラと見ていることに気づく。

 

「あー、そのレイキ」

「どうした?」

「悪かったな、助けてやれなくて」

 

 罪悪感でいっぱいの表情に、デイモスとの【血闘】を思い出した。

 闘技場フラウィウスに殴り込んだ自分と、観覧席で傍観を決め込んだプテロン。構図だけ見れば、全てを押し付けて高みの見物をしているように思える。

 しかし、その見識は間違えであることは疑いようもない。

 

「プテロンが観客席にいなかったらアガロスを託せなかった。あの判断は正解だ」

「……でも、お前を一人で戦わせちまった事に変わりはねえ」

「あそこでプテロンに加勢してもらっても状況は変わらなかった。責任を感じる必要はない」

 

 励ましても、兄の表情は晴れず、むしろより顔を顰めるばかりであった。

 大事な弟が幾度もデイモスに立ち向かってはボロボロにされる、そんな状況下で何もできない無力感は絶えずプテロンの心を蝕んでいた。

 実際、プテロンは何度も助けようとしその度に賢者に妨害されたのが、レイキは知る由もないし、彼も言うつもりがない。

 歩みを進める毎に表情を暗くする兄に、頬を掻いて言い放つ。

 

「変な話だけど、俺はちょっと嬉しいんだ」

「嬉しい……?」

「あぁ。ようやくプテロンの力になれたってな。ずっと頼ってばかりで、助けられっぱなしだったから」

「ッ!!」

「……大丈夫か?」

 

 気恥ずかしげに吐露すると、プテロンは一層顔を歪めた。

 それは、己の罪を自覚したようで、為した過ちの重大さに気づいてしまった、そんな様子だった。

 左手で顔を押さえ、自責と苦悩に震えながら、何かに懺悔している。

 

「違う、違うんだよ! 俺は、お前たちを守れなきゃ意味がない!」

「ちょ、落ち着け」

「フィロス達に外に出ないようもっと言い聞かせるべきだった。そうしてたら、アガロスは危険に遭わずに、レイキも傷つくことはなかった!」

 

 根底に潜むは激しい後悔と自罰。

 異常と思えるほどに、青年は己を責める。反省と称すのは生温く、それはまるで自分を拷問にかけているようだった。

 初めて見る兄の姿に言葉を失った。

 

「お前たちを守れない俺に、価値なんて無いんだよ……」


 自責の念に囚われる兄に、俺は――


「落ち着けって、もうすぐ天照院だぞ」


 ――逃げてしまった。

 天照院の玄関扉が迫るのを理由に、兄との向き合うことを止めてしまった。

 会話を打ち切り、駆け足で玄関を開ける。

 扉を開くと、怒り終えたヘリオスと、ひどく泣き瞼を腫らしている双子。

 怯えている二人を、そっと抱きしめた。


「ヘリオスにたくさん怒られたか?」

「「……はい」」

「じゃあ、俺から言うことは一つだけだ」


 闘争区に入ったことの危険性を学び、お叱りは養母がしてくれた。

 なら、俺が告げる言葉は決まっている。ボロボロだった二人の熱を感じながら、その言葉を放つ。


「――生きててくれて、ありがとう」

「「……ッ」」


 俺の言葉を皮切りに、二人の身体が震え始める。

 次第に小さな嗚咽が聞こえ、肩を切ない液体が濡らす。

 離れようとは思わなかった。ただ、二人が生きてることが堪らなく嬉しいのだから。

 





 


 少年たちが家族と再会を果たしていた時、勇士たちが頻繁に使用する闘技場フラウィウスの医療室で、デイモスは目を覚ました。

 

「私は、なぜ医療室ここに……?」

「なぜって、お前が負けたからに決まってんだろォ。けけ、ざまーみろォ」

「……フォボスですか。相変わらずの酒臭さ、鼻が曲がりそうですよ」

「おおん? 言葉にキレがねえなァ、相当あの子供に負けたのが悔しかったのかァ。こりゃ酒が進むぜェ!」

「一応、病室なんですが……」

 

 泥酔状態で更に酒を呷る麗人。

 咽せる程の酒臭さとは裏腹に、彼女の瞳は強者特有の獰猛さと熾烈さを帯びている。

 その力量は【闘威一黎デイモス】に次ぐ実力者。

 神アレスへの謁見を許される者の一人、彼女こそ【闘威二黎】のフォボスである。

 勝ち気な様子を感じさせる橙の長髪は無造作に整えられ、均整の取れた艶やかな美貌は泥酔状態でもなお美しさを放っていた。

 

「待ちなさい……私が子供に負けた?」

「おおよォ、【指名】した奴の兄貴に割り込まれて、なんやかんやで負けたって聞いたぜェ」

 

 ま、アタシはそん時酒場で飲み明かしていたんだけどな、と添えるフォボスに見向きもせず、デイモスは数刻前を思い出す。

 

(私は、闘争区にいた子供を【指名】して、闘技場で痛ぶり、そしてレイキに……ッ!)

 

 唐突に頭に激痛が走る。

 頭にモヤがかかったように、レイキが乱入してからの記憶が思い出せない。

 唯一分かることは『レイキが何かした』という認識のみだった。

 

「ああ、そういや観戦した奴らが変な事言ってたなァ。『デイモスが負けたのは分かるけど、どうやって負けたのかは分からない』って」

「……なるほど、やってくれましたね」

 

 デイモスは思い出せない何かを忌々しく感じた。客観的に考え、どんな手を使われようとも闘位持ちでもないレイキに負けるはずがない。

 レイキ以外の脅威が居たことを本能的に理解していた。

 そして、闘争の最中に告げられた言葉も脳にこびりついている。

 

『――弱い』

「…………ッ!」

 

 脳裏に浮かぶ侮蔑の二文字が、向けられた無機質な視線が、なす術もなく叩き潰された屈辱が、デイモスの魂に焼きついている。

 【闘威一黎】としての矜持が音を立てて割れていった。

 

「落ち込んでるとこわりいが、起きたなら先にしてもらうことがあるぜェ」

「……何でしょうか。色々と整理したいことがあるのですが」

「この国で一番重要な御方からのお達しだよォ」

 

 呆れたように口を開くフォボスに、ある神物が頭の中で像を結んだ。

 

「――アレス様からの呼び出しさァ」


 闘技場フラウィウスの中心部、闘位持ちのみしか入場を許されない場所闘技の間にて、その者は王席に君臨していた。

 黄金の髪に、切れ長の瞳孔。

 傲慢にも足を組み、闘位を冠する勇士たちに頭を垂れさせていた。

 種としての格の違い。人間を平伏させる、時代の支配者たる神の威光。

 彼こそが、トラキア建国神にして闘争と殺戮の神アレスである。

 

「――来たか、デイモス《一黎》にフォボス《二黎》よ」

「「はっ!」」

 

 男神の静謐な一言が、《闘技の間》の空間に反芻し、生きとし生けるものの音を遮断した。

 彼の声しか許されぬ空間。

 圧倒的な神の風情に、集められた二人は息を呑む。

 

「我に畏敬を捧ぐことを許す。面をあげよ」

「身に余る光栄でございます」

 

 陶酔した様子でデイモスは顔をあげる。

 その表情にはこの上ない畏怖と崇拝が張り付いており、隣のフォボスが軽く引いているほどである。

 そんな彼を闘神の無機質な視線が突き刺す。

 

「闘威とは至高の象徴でなくてはならぬ。一黎ならば尚更よ」

「その通りでございます。何者にも穢されぬ勝者の証に違いありません」

「しかし、お前は負けたな」

「――――――がはっ!」

(……ちっ、全然見えなかったな)

 

 闘神は二人にとって理外の速度で迫り、デイモスの頭を踏みつけていた。

 フォボスは神との実力差に舌を打った。

 頭を踏み潰さんとする踏み付けにより、デイモスはは額から血を流し、床に網目状の亀裂が走る。

 グリグリと頭頂部を踏みつけながら、闘神は失望さを孕んだ声で言い放つ。

 

「我が拝謁の機を逃れた【血闘】にて、お前は敗北を喫し、無様にも闘技場フラウィウスの泥を噛み締めた。相違ないな?」

「……その通りでございます。しかし、私は姦計に嵌った次第であり、実力で負けたわけではっ!」

「愚鈍な釈明なぞ無用。明白なのはお前の敗戦という純然たる事実よ」


 威力の増す踏みつけに、デイモスは冷や汗を流した。少しでも力を抜けば、この場に紅き徒花を咲かせることだろう。


「だが、我は気分が良い。許してやろう」


 デイモスの頭から足を離す。

 闘神は身体を反転させ、ゆっくりと玉座へ戻った。

 

「して、今宵は如何様な御用件でございましょう」

 

 すっかり酔いの覚めたフォボスが慣れない敬語ですかさず切り込む。理由は簡単、心地の悪い場はさっさと退散するに限るからだ。

 

「我は先刻、"清冽の魔女"を名乗る者から予言が降った」

「……」

「その者は我に具申した、『幾許もなく宿命に出会う』と。その後、図ったようにデイモスが敗北した。これを偶然と言えようか?」


 卜占の類いは信じないフォボスだが、闘神の言う通りあまりにも出来過ぎている。


「その者は四黎に【下剋上】するそうだ」

「なっ!」

「非力な身なれど、一ヶ月で四黎を倒す実力をつければ、認めねばなるまい――その者を我が宿命と」


 デイモスは歯噛みする。【下剋上】の準備期間は【指名】が出来ない。

 フォボスは納得する。自分たちを集めた理由は、宿命の存在をひけらかすと同時に、釘を打つため。手を出そうものなら、闘神のイカヅチが降り注ぐだろう

 闘神は笑いを噛み殺す。

 【八叛雄】が潰えて13年、ようやく心胆を震わせる存在が現れた。まだ見ぬ宿命候補に想いを馳せるのだった。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る