第8話 手玉に取られた
俺は、朝比奈の声がする方に顔を向けたんだ。
「アサヒ……プスっ」
振り向いた方の頬に何か当たった。首は止まらないせいで、頬を押されて口から空気が漏れる。
「やだぁ、柔らかァーい。風見さんの頬、プニプニ」
こいつ、俺の頬を指で押しやがった。
「あー、さー、ひー、なー、」
悪戯なのは、わかっているが、ドスを聴かせた。
「俺の頬で遊ぶな」
「いやァーん! 怒らないの」
ダメだ。まるで聞いていない。笑顔が張り付いている。
「こういう時は、コイツーって言って私の頬も押すのよ。ほらほら!」
と言って、自分の頬を差し出すように向けてきた。
その白い肌は、艶々と艶やかに俺の指先を誘う。見るものの視線を外させない蠱惑が漂う。
おれは、美鳥の無垢で爛漫な輝きを持つ肌を知っている。
「朝比奈、ちょっと……」
彼女は、すっと顔の向きを正すと、自分の手で額の髪を上げると、
「ねぇねぇ、額にツンしても良いのよ」
唇を薄く笑みにして、魅惑的な視線で俺の目をい抜こうとしてくる。
「ふざけるのも大概にしような」
「ふざけてませぇーん。女子高生が前髪にどれだけ手間を掛けてるかわかりますぅ」
そんな事は知らん。
「折角、前髪を上げて、お額まで晒したのに冷たいお方。ヨヨヨよ」
朝比奈は、涙も出ていないのに拭う仕草をする。
「そんなことしても絆されないぞ」
「チェッ。バレたか」
彼女は舌をちろっと出して上目遣いに俺をみてバツの悪そうな顔をした。そして、
「ごめんなさい」
本当にいい笑顔をして謝ってきた。
「おう、その方が可愛いのに」
「えっ、可愛い。今、可愛いって言いましたよね」
わわわわわ、しまった。俺は慌てた。
「ちっ、違うからな朝比奈。たまたま見た、お前の笑顔が、そう思えただけなんだからな。違うぞ」
俺は、苦しい言い訳じみたことを言うしかなくなった。
ごめん、俺は美鳥以外のやつに'可愛い'なんて言ってしまった。頭の中で最敬礼をして美鳥に謝っておく。
「風見さん。可愛いと言えば、机に乗っている人形はなんですか? なんであるの?」
いきなり、彼女は話題を変えてきた。まあ、思わず出た言葉が有耶無耶になって良かった。
「これか。粘土フィギュアだよ。真壁くんに貰った。俺に似ているんだって」
朝比奈は、机にかがみ込んで、そいつをじろじろと見出した。
机にいるコットンがフィギュアを抱き込み、
ガルルルル
朝比奈を威嚇している。
「確かに、似てるぅ。そっくりぃ」
彼女は人形を抱き上げて、間近に見出す。人形を奪われたコットンは狼狽して、
「何をする。返すのじゃ。そのお方は我の愛し子。後生じや返してたもれ」
コットンは朝比奈に手を伸ばして奪い返そうとするが、彼女にはコットンが見えない。とうとう、頬ずりまでしてしまう。
「ああ、なんという事を、まだ、その御身さえ触れてもいないのに」
コットンは悲観しているのか、目を潤ませている。見ていて、こっちまでー可哀想に思えてしまう。
「朝比奈。そろそろ、それを降ろして貰えるか」
「えっー、私が触っちゃダメでしたか? 大事なものなんですね」
「そういうわけじゃないんだが………」
言い訳がましくて、しどろもどろしてしまう。
「わかりました。お返しします」
何か勘違いをさせたような気がするのだが、まあ、良いだろろう。彼女がフィギュアを机に降ろすと、コットンはすぐにフィギュアを抱き寄せて自分が前に出て彼女から見えないようにした。
がるるるるっ
唸り声もさっきより低く聞こえる。
「風見さん」
「はい」
一体なんだ?
「私も、このフィギュアが欲しくなりました。プレゼントしてくれた方に聞いてください。どこのものか?」
「何を言うんだ。朝比奈」
我が耳を疑う。
「こういう、フィギュアみたいなのに興味あったんです。風見さんそっくりなんて貴重なものだったら是非、手に入れたい」
「まあ、落ち着け」
朝比奈、乱心したか。
「私は落ち着いています」
ならば、これなら、どうだ。
「わかった。このフィギュアは、朝比奈にプレゼントしよう。どうだ?」
朝比奈が眉を顰めた。
「ダメですよ。プレゼントしてくれた方の気持ちを踏み躙ったら。その方、泣いちゃいますよ」
確かに、真壁くんは、その辺ナィーブそうだ。
「だから、新しいもの手に入れるんです。さあ、聞いてください。そう言うところへ1人じゃ恥ずかしいから風見さんも一緒に来てください。デートしましょう。なんなら夕飯奢りますよ。朝のお礼を含めて」
ん、彼女は、勢いに任せて、何か凄いことを言っているような気がした。
「こういうのはネットで手に入れるじゃないのか?」
「いいですか!」
すぐさま言い返される。彼女の剣幕に放課後で教室を出ようとしているクラスメートの何人かが聞き耳を立てているを感じる。
「ここのフィギュアって手作りなんです。一個一個が微妙に違うんで。実物を見て、お気に入りの子を手にしたいです。サテライトショップがあるのは、知ってるんです」
「なら、お兄さん、いるんだろう。俺じゃなくて彼に頼めばいいじゃないか」
朝比奈は目を丸くして口をワナワナさせて、
「兄は行ってくれません。趣味が違うって断られます。だから貴方と行きたいんです。私とじゃダメですか?」
おぉー
俺の周りが小さく響めく。
そりゃ、そうだろ。美少女と言える女の子から公開でデートのお誘いをしてきているんだよ。
しかしだなぁ、俺には美鳥がいるんだ。大っぴらにはしていないけど彼女居るんだぞ。そこで美鳥が座っている辺りを見てみた。
金髪に見まごう亜麻色の髪が流れる背中が見える。椅子から立ち上がり、手が動いているのが分かった。通学鞄の端が見える。帰り支度をしているに違いない。よく見ると肩が震えていたりする。
朝比奈の喋りが聞こえたんだろう。多分、怒ってる。いや、絶対の確信を持って言う。怒ってる。
不思議なことにコットンと継ながっている美鳥には、やり取りが筒抜けだろう。どう説明しなきゃいけないかが悩みどころだ。
「まて、ちょっと待て」
「煮え切らないですね。そんなならこうだ!」
何を思ったか、朝比奈は俺の手を取ると自分の胸に引っ張り込もうとした。
「行くって言ってくれないと、痴漢です。胸を触られましたって大声出しますよ」
「待てって、本気で不味いからそれ! 考え直せ。いいな」
くっ、こいつは見かけによらず力がある。朝比奈と手の引っ張り合いが始まってしまった。
その時、教室の前から、
「イッコウいる?」
誰かに呼ばれた。女性の声だ。
「あっ、美鳥ちゃん。イッコウいるかなぁ」
この声は、
高梨明日菜
俺が所属するバトミントン部の先輩。年は同じ。
ミックスダブルスの選手で全日本選抜の選手にもなっている。2年前まで、お俺のパートナーだったんだ。だから気安く俺をイッコウって呼ぶんだ。しかし俺の怪我でコンビは解消はしている。
「部活が始まるって言うのに、来ないから呼びにきたけど、いるかなぁ」
「いますよ。教室の後ろで女の子とイチャイチャしてます」
美鳥が感情のこもらない声で答えている。
美鳥さん、何を言われる。イチャイチャなんてしてませんて、痴漢の冤罪を被せられるのを防いでいるんですって。
「なんと?」
高梨は、俺のいる方を慌てて見てくるとスススッと近づいてきた。俺と朝比奈の間に立ち、俺たちの顔を交互に見比べた。ニコッと笑って、
「新学期初日に何をやっているのかな? 君たちは? イッコウ、お前には彼女いるだろう。朝比奈もイッコウをおもちゃにしないように」
「助かった」
「高梨先輩」
救いの手がやってきた。朝比奈は力を緩めて俺の手を離す。良かった。事件にはなりそうもない。
「風見さんて、彼女居るんだ」
朝比奈の小さいつぶやきが聞こえた。
「イッコウも朝比奈に弄ばれるんじゃないの。いい年こいて年下に遊ばれるなんて、らしくないよ」
ギロっと見られた。
「なんなら、私の触るかな? 許可するから犯罪にはならないよ」
直ぐ様、破顔してとんでもないことを言ってくる。
「高梨、いい加減よしてくれ。言われた、こっちの身にもなってくれよ。美鳥にはなんて言っていいかわからんよ」
「ははは」
笑っている高梨へ朝比奈は近づき、
「もう、戻られたんですね。先輩。強化合宿でしたっけ?」
「そうだよ。今朝、夜行バス乗って帰ってきたとこなの。眠くって…ふわあー」
高梨は欠伸か出そうなのを止めている。
夏休みの間中。選抜選手は、とあるスポーツ施設に缶詰になってバトミントン漬けになると聞いていた。
「ご苦労様でした。おかえり。と言うことは八重柿もか?」
バトミントンのミックスダブルスで高梨のパートナー。選手としての質は中々なんだが性格に難ありの人物だったりする。
「そっ、体育館で1人、なんで揃っていないんだって騒いでいるのよ。早く来て貰えるかしら」
「わかった。直ぐ用意する」
「頼むねぇ。今日はミーティングだけだから、着替えなくていいよ。とにかく早くきて………ふわあー」
高梨は、欠伸に開いた口を手で隠している。目も半目になってる。
「本当に眠いのよ。私も早く終わらせて、帰って眠りたいの。頼むよー」
と踵を返して後向きで手を振って教室を出ていった。
俺は、朝比奈へ向くと、
「フィギュアのことは真壁くんに聞いておくから、なんとかしてくれ。頼むよ」
「わかりました。実を言うとフィギュアのことは、そんなにでもないです。風見さんとのキッカケが欲しかっただけなんです」
しれっと、そんなことを言ってきた。じゃあ、何。俺は朝比奈に担がれたのか?
「風見さん、私は貴方に興味を持った。今の彼女は誰か知りませんが負けません。貴方の隣に立つのは私です。覚えていてくださいね」
そう言い残して、教室を出ていった。
こりゃ、美鳥に話をしないといけないと彼女を探すが、既に遅し、教室の中にはいない。1人帰ったのだろうか。
「おい、コットン。み、み…?」
机の上のコットンに美鳥の居所を聞こうとしたんだけど、こいつはフィギュアに抱きついて微動だにしない。
「コットン、コットン」
呼びかけたけど、動く気配がない。何かぶつぶつ言っている。ダメだ。使い物にならない。
周りでは、
「あの子、隣のクラスの朝比奈さんだろ」
「結構、人気あるよね。でも彼氏っていうのは聞いてない」
「狙っている奴も多いって聞いてる」
「ファンクラブと親衛隊がぶつかったって聞いたよ」
「可愛かったね。程よいプロポーションが良い」
「着痩せするタイプだったりして、脱いだら、凄いとか」
「男子、セクハラー」
教室に残ったクラスメイトが騒つき出す。終いには、俺に視線が集まった。
『なんで風見なんだよ、お前いるだろう 美鳥ちゃん』
そんな想いの乗った視線が俺に突き刺さる。
たまらなくなってすごすごと教室を後にした。
「いつもの公園にいるといいのだけれど」
俺は、部活に行く道すがら、独りごちた。
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