6.障壁

 雨がポツポツと曇った雲から落ちてくる中、司は呆然と立ち尽くしていた。

 雨と一緒に時折降り注ぐのは、ひらひらと舞う燃えかす。

 血の匂いや湿った空気、そして焼け焦げた臭いが、鼻腔を激しく刺激する。


 ついさっきまで、俺は確かに死にかけていたはずだ。夢でも幻でもない。無数の傷が瞬く間に塞がり、失っていた感覚が戻った。

 しかし、ポロシャツを赤く染める赤色と、全身にまとわりつくヌメヌメとした血の感触は、紛れもなく現実のものだ。


 こんな奇跡を起こせるのは、人ではない、災厄を振りまく存在――神人。

 教室に突如現れ、壁に風穴を開けたあの男、阿崎も、自らを神だと名乗っていた。


 そして何より、敦さんを殺したのも――あいつらだ。


 今、同じような力が俺を蘇らせた。

 これが神の力であるという確証はないが、他に考えられるものはないのも事実だ。

だとすれば、なぜその力が俺に作用した?


 司は首から下げているペンダントを手に取り、じっと見つめた。

 きっと原因はこれだ。おじさんの形見、この石が奇跡を起こしたのだ。この石の正体は一体――


 司の胸に広がるのは、形見である石への興味と、その石が神の力と同じ現象を起こしたことへの恐怖だった。

 憎むべき存在である神の力で回復したという事実が、司の心をぐちゃぐちゃにかき乱していた。


 「今は考えても仕方ない……。それに、俺のやることは決まってる。まずは芹奈の無事を確認して――それからあいつを……!」


 脳裏に浮かぶのは、阿崎の姿。何故学校を襲ったのか、問いただすべきことが山ほどある。

 司は、殺意にも似た気迫を胸に抱き、拳を強く握りしめた。


 だが、無策で挑むわけにはいかない。

 復讐を誓ったあの日から、司は怠ることなく鍛錬を続けてきた。身体能力も技術も、同年代のそれをはるかに凌駕している。

 だが、阿崎の持つ力を前にしては、それも無力だ。あの巨大な剣を振るわれれば、ただ吹き飛ばされて終わりだろう。

 それに、暴れているのが阿崎一人とは限らない。

 街を焼き尽くしている業火――それが自然に発生したものではないのは明らかだ。これも奴らの仕業に違いない。


 「――はっ」


 司の脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。

 黒いローブをまとった神人。そして、燃え盛る家が崩れ落ちる光景。

 思えば、あの時、司と芹奈の家だけが狙われていたのも、不自然だった。


 「まさか……あいつがここに?」


 司の目に炎が宿った。

 家に火を放ったのがあの男という確証はないが、その可能性は十分にある。いや、今の状況を考えれば、そう思わざるを得ない。


 ――いや、待てよ。


 ふと思い出したのは今朝見たニュース。軍の基地が襲撃され、火の海と化していた。

 一瞬映し出された男――顔ははっきり見えなかったが、背丈や体格からして、同年代の若者に見えた。そもそも火を使う者が一人とも限らない。

 司は少し冷静さを取り戻し、その可能性を慎重に検討する。勘違いかもしれない。

 だが、それでも同一人物である可能性は拭えなかった。


 司の胸には再び、復讐の炎が燃え上がった。


 「まずは行動だ。」


 落下した場所は学校の脇、塀の外に少し離れた場所だったはずだ。

 司の真後ろには校舎がある。阿崎の目的は分からないが、もし生徒を殺すことだったなら、今頃この学校は悲惨なことになっているだろう。


 勇気を振り絞り、司は後ろを振り返った。


 「――は?」


 目の前に広がった光景に、司は言葉を失った。

 それは――青い光の膜。校舎全体、いや敷地全体を覆うように広がる薄い膜だ。

 その淡い光は、幻想的な美しさを湛えていた。まるで何かから学校そのものを守るかのような威厳を漂わせている。

 司は驚愕し、目の前の光景に吸い寄せられるように歩み寄り、無意識のうちに手を伸ばして、その膜に触れた。


 「――痛って!」


 指先が膜に触れた瞬間、小さな破裂音とともに激痛がほとばしった。

 吸い込まれそうになっていた意識は、激痛によって現実に引き戻される。

 指を見ると、触れた部分が裂け、血が滲んでいた。


 「せっかく治ったのに……何やってんだ、俺は――って、それよりも……」

 

 司は正面に広がる青白い膜を眺める。

 どうやら、この膜は障壁のようなものらしい。

 学校を外部から守るためのものなのか、あるいはその逆かなのかは、定かではない。

 現実味のない光景だが、さっき俺に起きた治癒の現象といい、既に何かが動き始めているのは間違いない。


 校舎を見渡すと、大きな損傷は見受けられなかった。

 司たちの教室も、壁に穴が開いているだけで、遠目に見る限りはそれだけだ。


 「じゃあ、あいつ――阿崎はどこに行ったんだ?」


 司は辺りを見渡した。だが、阿崎の姿はどこにも見当たらない。

 ひとまず、障壁の周りを調べてみるしかないだろう。


 この障壁に入り口があるとは思えなかったが、芹奈の身を案じた司は、敷地の周囲を一度確認することにした。




 「抜け穴や、入り口は……ない、か。まあ、そうだよな……」


 この障壁が学校を守るものだとすれば、そんなものがあったら意味がない。

 神の力が自分を癒したという事実を思えば、この障壁もまた、神の力が働いているのは明白だ。だとすると、神人の中にも、人間に味方する者がいるのかもしれない――そう考えることもできるだろう。


 司は、先ほど周囲を歩いた際に拾ったものを見つめ、ぎゅっと握りしめた。

 それは、人の命を奪う力を持ち、一般市民の所持が厳しく禁じられているもの――拳銃だ。

 司が拾ったのは回転式ではなく、自動式拳銃だった。

 あの日以来、治安の悪化や神人の度重なる出没により、警官たちは武装を強化せざるを得なかった。

 しかし、これは警官のものではなかった。


 持ち主は、道端に転がっていた死体だ。無惨にも腹部を大きな刃物で貫かれたような跡があり、地面には血の池ができていた。その腹部からは、まるで瘴気のようなドス黒い霧が漏れ出していた。

 司は、その光景を目の当たりにした時、吐き気を催したが、今は冷静を取り戻している。



 死体が着ていた服には、「SAD」のエンブレムが刺繍されていた。


 SAD――特異急襲部隊(Supernatural Assault Division)は、近年新たに編成された、神人とそれに類する災厄に対応するための政府直轄の特殊部隊だ。

 神人による甚大な被害を受け、その対策として設立されたこの部隊は、特異災害警報が発令されると即座に出動し、事態の鎮圧に当たるとされている。

 だが、その実態は公に明らかにされていない。活動報告も書面によるものだけで、その姿を見た者はほとんどいない。

 それも当然だ。特異災害警報が発令されると、一般人はすべて地下シェルターに避難しなければならないからだ。命が惜しくない人や避難が遅れた者もいるかもしれないが、彼らの安否やその後の状況は一切報じられない。SADの写真や映像がネットに流れることもない。

 彼らは救助されなかったのか――それとも、何か別の理由があるのか。


 司はあたりを見渡したが、他にSADの隊員の姿はなかった。

 この死体は、はぐれたか、孤立でもしたのだろうか。他の隊員は今も神人と戦っているのかもしれない。

 死体を漁ることに抵抗を感じたが、司は仕方なく使えるものを探した。いくつか装備があったが、その大半は素人目にも明らかなほど損傷していた。

 唯一使えそうだったのは拳銃と、もう一つ、用途の分からない銃のようなものだった。


 「残弾は――これだけか……」


 司は慣れた手つきで弾倉を確認し、薬室を覗いた。残りの弾は五発。

 死体の周囲には交戦の痕跡が残っていたが、その相手の姿はどこにもなかった。

 この拳銃で立ち向かうのは無謀かもしれないが、それでも、やるしかない。

 拳銃のグリップには持ち主の血がべったりと付着しており、少しべたついて持ちにくい。

 司はセーフティロックをかけて、それを慎重にポケットにしまった。


 もう一つの銃――いや、銃と呼べるかどうかも分からないものを手に取り、改めて確認した。

 グリップ、トリガー、そして何かを発射するための銃口らしきものは備わっている。しかし、見たところマガジンが存在しない。

 SADの対神人用の特殊装備?いや、そんな装備の噂は聞いたことがない。

 だが、もしこれが開発されているのだとすれば、神人の鎮圧報告に信憑性が増す。

 引き金を引けば何かが起きるのだろうが、未知の装備を安易に使うのは危険だ。

 司はそれを懐にしまい、再び目の前の青白い障壁を見つめた。


 「芹奈……無事でいてくれ……!」


 司の心に、再び祈りのような願いが広がった。


 「俺は……俺のすべきことをしてくる」


 そう自分に言い聞かせた瞬間――

 

 背後、そしてそのさらに遠くで、轟音が響いた。

 視線を向けると、黒煙が立ち上っているのが見える。


 司は一瞬の迷いもなく、その方向に向かって駆け出した。

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