5.瞋恚の炎に抱かれて

 頭が痛い。暗い。寒いのか、暑いのか分からない。体が、まったく動かない。


 ――なにが、どうなったんだ。俺は一体、何をして……


 朦朧とする意識の中で、何が起きたのか思い出そうとする。そうだ、あの男に飛び掛かって――その後は……


 司はゆっくりと、重たく閉ざされた瞼を開けようとした。視界はぼやけ、赤みを帯びた光景が薄く映り込む。


 ――は?


 目線の先に映ったのは、炎。地面すれすれの視点から見えるのは、燃え盛る家々、そして道端の木々。街全体が、赤々と燃え広がっている。そして、頭上よりも更に高い場所から落ちてくるのはいくつもの水滴。雨模様の空に炎の赤色が映えていて、司の心の内を表しているかのようだ。


 「こ……れは……」


 かすれた声しか出ない。どうなっているんだ。これは夢か?いや、違う。これは――現実だ。ぼんやりと視界に映る炎の中、ペンダントの宝石が光を反射しているのが目に入った。確かに、これは現実だ。


 全身に激痛が走る。動かそうとするが、力が入らない。


 そうだ、俺は――あそこから落ちたんだった。


 4階だ。空中で転落した。それも相当の高さだ。落ちたら普通は死ぬだろう、間違いなく――だが、今こうして息をしている。何故だ……?教室を飛び出した時もそうだ。その時の記憶が少し薄れているが、確かに俺は尋常ではない距離を飛んだ。一体何が……


 いや、考えるのは後だ。今は――これからどうするかを考えなければ。


 正気を取り戻した嗅覚がまず感じ取ったのは、雨の湿った匂いと、焼けた家の炭のような焦げ臭さが混じり合う不快な匂いだった。口の中には鉄の味が広がり、血が出ていることを自覚する。


 ――そりゃそうだよな……。


 全身はボロボロ。首から下の感覚はほとんどなく、体はまるで動かせない。筋繊維は崩れ、骨も砕けているのだろう。見るも無惨な姿が頭に浮かぶ。ポツポツと降る雨が体を濡らし、流れ出る血を洗い流していく。雨が傷にしみるはずなのに、もうその痛みすらほとんど感じない。


 ――どうしてこうなった。


 司の胸に後悔が募る。


 あいつらに――無念を果たすんじゃなかったのか。やっと巡り会えた復讐のチャンスを、感情に任せて無謀に動いた結果がこれだ。今まで積み重ねてきた努力も、苦しみも、そして家族の想いも、すべてが無駄になった。手が届いたと思ったのに、自らの手でその全てを不意にした。


 司は後悔と自己嫌悪で、強く歯を食いしばった。


 もう体は動かない。街がこんな状態だ。きっと助けは来ないし、仮に来ても、もう遅いだろう。あとはゆっくりと死を待つだけだ。


 「ごめん……敦さん、久美子さん……」


 自然に口をついて出たのは、愛してくれた二人への謝罪。二人の顔が浮かび、血を流す涙で頬が濡れた。


 そして――


 「ごめん……愛莉……ごめん……!」


 あの日、自分より先に登校してから、忽然と姿を消した義妹のことを想い、悔しさで再び涙が溢れ出た。謝る言葉が強くなるたびに、その声は震え、涙は止まらなかった。


 司は言いたりない謝罪の言葉を何度も繰り返し、そのたびに涙が瞳を濡らした。




 ――眠い。


 疲れ果てた体に冷たさが染み込み、意識がぼんやりとしてくる。


 ――あぁ、もう終わってしまうんだな。


 後悔だらけの人生だった。両親を亡くし、そして新しい家族さえも失った。


 ――あまりに不幸じゃないか。


 だが、こんな人生を送ってるやつはこの世にゴマンといる。あの日以来、家族や大切な人を失った人たちは無数にいるのだから。そうは思いつつも、「なぜ俺だけが」と感じるのは、身勝手だろうか。わがままだろうか。


 ――最期くらい、許してくれ。俺のこの気持ちを。復讐すらまともに果たせなかった、こんな不甲斐ない俺を。


 もう意識を保つことさえ難しい。


 ――眠い。ねむい……。もう終わってもいいよな。


 ――みんな、許してくれ、こんな俺を。


 ――あぁ。


 ――やっと……終われる。


 神代司は、遠くなる意識に身を任せて、そっと、そっと目を閉じた――





 「――れるわけ」


 「終われるわけねぇだろうが!!」


 司は目を見開き、歯を食いしばった。くすんだ瞳で目の前で燃える家を睨みつけ、全身の力を振り絞った。


 「こんなところで終わったら、今までの努力も、今までの苦悩も、全部無駄になる……!」


 「あの日、自分自身に、家族に誓った約束を果たせなかったら、それこそ、あの二人に妹に、あの世で見せる顔がない!」


 「俺がこのまま何もできずに死ぬことを、他の誰が許しても、俺自身が絶対に許さない……!」


 そして――


 「あの時、俺を、俺の手を取ってくれた芹奈に、これ以上苦しい思いはさせねぇ!」


 浮かぶのは彼女の屈託のない笑顔。


 頭がぼんやりする。体を動かそうとするたびに全身が痛み、視界もぼやけている。眠気、冷たさ、苦しさ、そして痛み――すべてが襲ってくる。それでも。


 「俺は――あいつらをこの手で殺すまでは――絶対に――死んでやらねぇええ!!」


 その決意は、怨嗟でありながら、今や司の唯一の希望となっていた。


 司は、残された力すべてを立ち上がることに注ぎ込んだ。傷だらけの両手を雨に濡れた地面につき、体を少しずつ押し上げる。肘が悲鳴を上げるたびに、体を少しずつ持ち上げた。上半身が少しずつ起き上がっていく。司はその瞬間、心の中に溜め込んだすべての想いをぶつけるかのように。


 ――しかし。


 「――っ!」


 その想いは届かなかった。体が上がり切る直前で、腕が限界を迎えた。腕は力を失い、支えを失った体が地面に叩きつけられた。


 想いに体は応えてはくれなかった。


 希望は、あっさりと砕かれてしまった。


 「――っ、俺は……」


 司の心と体は、ついに完全に壊れた。


 「ぁああああああ!!!!」


 司は絶望と無力感に叫び、そして心の中に溢れる負の感情を吐き出した。その顔は、人としての限界を超えた、瞋恚の炎に抱かれたかのような表情だった。燃える建物の炎の激しさと司の憤怒が共鳴する。


 ――その瞬間。


 「ああああ――」


 突如、司の眼前に信じられない光景が広がった。司は絶叫をやめ、目を見開いたまま、その場に固まった。


 視界を埋め尽くすほどの強烈な光。それは現実離れした、眩い輝きだった。


 その光の出所は、司が首からかけていた透明な宝石――水晶のような輝きを放つペンダントだった。


 司は、その眩い輝きに目を奪われ、思考が一瞬止まった。


 不意に光り出したペンダント――それは親代わりに司を育てた敦の形見であり、今では司の心の拠り所となっているものだった。敦が生前、何よりも大切にしていたその石は、まるでこの世のものとは思えないほど美しく、透明でありながらも光沢を放つ宝石のような存在だった。


 水晶やダイヤモンドのようにも見えるが、司には直感的にわかっていた。これはそれらとは別の――何か特別なものだと。


 そして今、その石が自ら光を放ち、目が眩むほどに強烈な輝きを発している。これまでに一度も見たことのない光景だった。


 「こ、これは――」


 司の口から思わず声が漏れる。意識はその光景に釘付けで、痛みさえ忘れていた。

 その眩しさが何故か羨ましくて、なぜか憎らしくて。それでいて司の心を奪ってしまうほどに美しかった。だからか、司は自然と動かないはずの腕を眼前に転がっている石へと伸ばし、そして触れた。


 ――その瞬間、光は一気に増幅し、閃光となって辺り一面を白に染めた。

 あまりの眩しさに、司は反射的に目を閉じる。


 「な――」


 驚きの声を漏らしながら、司はすぐにその異変に気づいた。


 「――!!体が……動く……!?」


 司の体は先ほどまでボロボロでほとんど全身の筋肉や神経が壊死している状態に近かった。

 しかし、今の瞬間に、傷は信じられないほどに、癒えていた。


 自分の身に起こった非現実的で不可解な事象に、状況が飲み込めない。

 動く。手が、動く。足が、動く。全身が自由に動かせる。

 気づけば、司は立ち上がっていた。

 あの状態からここまで回復するなんて、到底信じがたいことだった。

 だが、これは現実だ。全身の傷は癒え、現にこうして立ち上がっている。


 そして俺は、世界は既に知っている。

 この超常的な現象を起こすことのできる存在を。

 奇跡と呼ばれる力を扱う者たちを。

 司の表情が曇り、嫌悪感と共に気持ちの悪い感情が流れてきて、酷く顔を歪めた。

 自分の両手を眺めて想う。


 これじゃまるで――


 「神人あいつらみたいじゃねえか……」

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